山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

末世のことあれこれ

2012-12-23 01:30:45 | 宵宵妄話

 今日(12/22)の新聞記事を見ていたら、「マヤ暦『人類滅亡』世界で騒ぎ」というのがあった。それによるとマヤ文明の暦が「新たな時代」に切り替わるとされる21日、人類が滅亡するといううわさで、世界が騒然としたとのこと。フランス南部のビユガラッシュという小さな村に、宇宙船が救いに来るという情報が流れ、当日厳重な警戒態勢が敷かれたという話である。このような記事を見ると、バカバカしいと思いながらも、何だか面白そうだなと思ってしまうのは、自分も人間の端くれとしてこの世の終わりとか、新しい時代への切り替わりという奴を体験してみたいという野次馬根性があるからなのであろう。予言などというものに振り回されるほど純な人間ではないので、真面目に考えることはないのだけど、UFOとか宇宙船と言う奴を見てみたいという気持ちは未だ残ってはいるのである。

 マヤ暦というのがどんなものなのか知らないけど、既に滅んでしまった文明のもたらした暦が今でも生きており、その予言が中南米ではなくフランスの片田舎の村で話題となるのはどういうことなのか、何とも不思議である。もしかしたら、マヤ文明を滅亡させたスペイン人の子孫が今はフランスのその村に住んでいて、何百年か前の先祖の悪行の祟りを恐れて騒いでいるのかもしれない。何故マヤ暦の予言がそれほど騒がれるのか解らないけど、天の邪鬼な自分からすると、そもそもマヤ文明そのものの滅亡をマヤの暦はどう予言したのか、それを知りたいものだなどと思ったりする。

 天気予報は信ずるようになったけど、それ以外の予言などというものは全て当てにならないものだと思っている。科学と言うのはあまり好きではないけど、一応現代に生きているので、原因や明確な理由がある事象の場合は、予言的な警告や警鐘の様なものは、アバウトレベルでは信ずることにしているけど、日時を限っての予言のようなものは全てデタラメだと思っている。東海地震の発生は信じても、それが何時なのかを断言するような振る舞いは認められない。それは単なる人気取りの、人騒がせの愚行に過ぎないからである。思わせぶりということばがあるけど、そのような振る舞いが好きな人間は掃いて捨てるほどいる。いや、思わせぶりの言動をしたことがないという人間の方が珍しいのかもしれない。斯く言う自分だって1日1回くらいはそれとは知らずに思わせぶりな言動を振り撒いているのかもしれない。何とかして自分を目立たせたいというのは、人間の愚かな性(さが)であり、力のない者ほどその願望が強い向きがあるのだから。我が強くて、滅法目立ちたがり屋のエネルギーが大きい奴が、予言なるものに大声を上げて騒ぐのだと思う。

 思うにマヤ暦をつくり広めた人の中にも目立ちたい人物がいて、そのような勝手な思い込みを塗り込めたのではないか。それに尾ひれがついて、何百年も経った後では、それに飛び付く人間は一層増殖して世界中に広まったということなのかもしれない。ハルマゲドンなどのこの世の終わりなどと言う予言も、巧みに組織的に説明を構築した、信者の心を操るためのストーリーのような気がする。何年か前に大騒ぎをしたこの世の終わりの予言も、時期を過ぎれば皆忘れ去られて、密(ひそ)とした状態となっている。しかし、もう少し経てば、まことしやかに、この世の終わりの予言がどこからか生れ出てくるのである。

 ところで、本当にこの世の終わりというのはあるのだろうか?ヒネクレている自分的には、これに対して二つの考えを持っている。一つは、人類の破滅・滅亡と言うのは必然であり、それほど遠いタイミングではないように思うということ。地球の滅亡と人類の滅亡とは異なる。地球に人類が居なくなっても、それ以外の動植物たちは生き長らえるに違いない。彼らの環境に対する適応性は人類の比ではない。人類が繁栄しているがゆえに滅亡の危機にさらされている動物は多いが、彼らだって人類の脅威から逃れられたら、いつでも回復できるのかもしれない。それほどに人類の地球環境の破壊は凄まじいものだと思えてならない。自業自得ということばがあるけど、己の為した結果に得られるものが、負になり始めている現在、人類の現在のあり様を見る限りでは、それほど長く地球に繁栄し続けることは無理のように思えてならない。CO2問題一つとっても、最大の排出国を初めとする超大国が自己都合を主張してガスを吐き出し続けているのであり、その見返りはまさに天に唾する行為である。そのしっぺ返しはこれから加速化して来るに違いない。そして、気づいた時は手遅れとなることも明らかのようだ。

 環境破壊というような側面だけでなく、人類はその内面、即ち精神的な世界においても荒廃を来たし始めているようだ。子を殺す親、親を殺す子、銃を乱射して大勢の子どもを殺すという事件を繰り返しているおぞましき社会の現出。更には最近のネット犯罪などを見ていると、情報通信技術革命のもたらした結果は、技術の進歩の輝かしさに反比例して、人間の心の貧しさを露呈しているかの如き出来事が多い。次世代に続かない、刹那的でバーチャルな世界がもてはやされて、興味本位で軽薄な言動に弄ばれている人間が増幅し続けている感じがしてならない。もっとしっかり現実に足を据えて、他人や社会のことを慮れる人間が増えなければならないのだと思う。偉そうな言い方になるけど、この世は自分独りで成り立っているのではなく、家族だけでも、友人知人だけで成り立つものでもない。見知らぬ大勢の人たちとのつながりの中で成り立っているのであり、そのことを承知した振る舞いが必要不可欠なのだと思う。その自覚が大きく欠如している。いや、欠如というよりも、それが壊れかけている感じがしてならない。特に若い世代の中で。ま、世界全体としてはどうなのか判らないけど、少なくとも日本においてはこの傾向は否定できないのではないか。もう少し(あと50年以内には)経ったら、この種に絡む予言が、より深刻にこの世を惑わすに違いない。環境破壊を食い止めるほどに、人類の精神世界が進歩するのを願うのみである。

 もう一つのこの世の終わりというのは、自分自身の終わりということである。これは人類の滅亡などと言う不明確な予言ではなく、遥かに誤差の少ない予言なのだ。あなたはあと10年後の○月○日にこの世からの最後の日を迎えますという予言は、自分にとっては極めて誤差の少ない、確度の高い予言だと思う。それにどのような理由や説明がつこうと、人類破滅の予言よりは遥かに正確である。

 この二つの末世予言のどちらが重要かと言えば、後者の方が遥かに重要だ。己自身のことだからである。しかし、良く考えてみれば、双方の予言ともあまり意味がないことに気づく。仮に癌などの不治の病に見舞われて、自分の死ぬ日を予言されたとしても、心を惑わされるばかりで、生きるためには何の力にもならないからである。予言の最大の欠点は、確実性が不明であるよりも、不要に心を惑わすということに尽きると思う。ま、この辺の理屈はあまりこだわってみても仕方がない。

 次第に老人を自覚し出した自分なのだが、他人からの予言を受け入れるよりも、この世からのおさらばは、自分自身で確認して、事前に家族などに伝えることが出来るようになりたいと思うようになった。PPK(=ピン、ピン、コロリ)が理想だけど、その場合であっても、3日ほど前にそのことをしっかり伝えられるように努めたい。「明後日、わしはあの世へ行くぞ」と断言して、結果もそうなるような予言をしたいものだ。ま、生きている内だけの愚発想であり、愚言であることは明らかだけど。

 ※ 旅のエッセーを書こうと思いながら、なかなかそれが進まず、このところ脇道にばかり逸れています。それにしても、脇道ばかりの多い世の中です。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 選挙結果の意味するもの | トップ | 老計・死計と我がくるま旅(... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

宵宵妄話」カテゴリの最新記事