山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

西海道&西国の旅の記録から(その18)

2024-07-20 19:44:08 | くるま旅くらしの話

五木の里に唄は流れず>

人吉の後は、真っ直ぐ五木村の道の駅に向かいました。12年前も五木村の道の駅に1泊しています。その時は初めての訪問でした。イメージとして描いていた五木村は、山奥の谷間の様な地形に集落があって、そこを川が流れており、その両岸に僅かばかりの耕作地が広がっているというような風景でした。しかし、行って見た五木村の風景は想像していたものとは全く違っていました。道の駅は山の中腹にあって、その周辺に新しい立派な家が建ち並んでいました。そして道の駅の駅舎からは、あのもの哀しい子守唄のメロディーが繰り返し流れていました。そのメロディーだけが五木村の存在を強調していると言った感じでした。その日、そこに泊った夜は、東北から一人くるま旅で来たという人と星空を見ながら遅くまで旅のあれこれについて語り合ったのでした。その前の夕食時には、この道の駅で販売されていたやや堅めの木綿豆腐を、その美味さに感動しながら食べたのでした。

そして、翌日近くを散策していると、何やらの記念碑があり、それを読んでみると、なぜ五木村が今このような姿になっているのかが判りました。五木村の人たちは、ここにダムが造られることになり、もともと住んでいた下方の集落には住めなくなり、長いこと村を挙げて反対運動に取り組んで来たのだが、下流に住む人たちの防災対応のためにもダムを築くことに反対するのを止めて、それを認めたのだといういきさつが書かれていました。しかし、目前の五木村にはダムは造られておらず、工事もしているようには見えませんでした。あとで訊きましたら、その後の政権担当が替わった際に、ダムの建設は中止となり、今は谷を跨ぐ巨大な橋だけがつくられているのだということでした。つまりは、五木村の人たちは涙を飲んで谷の下方から中腹へと移り住んだということなのです。立派な新築の家が多いのは、その補償金などで賄われたからなのでありましょう。長い年月反対運動に明け暮れ、ようやく妥協点を見つけて移住をしたのに、今度はダム建設は中止となったということなのでした。それを読んで、政治のあり方というものが、住民の歴史と暮らしを根こそぎに変えてしまうものなのだということを思い知らされました。

このダム建設の是非については、その何年か後に球磨川の氾濫で人吉市が大洪水に見舞われて大きな被害を蒙ったことと、どのようなつながりがあるのか大いなる疑問を抱いたのでした。もし五木ダムが完成していたら、あのような洪水には見舞われなかったのではないか。建設を中止した政治の責任はどうなるのか、今でもその問いが心のどこかに引っかかっています。

あの時の訪問から12年が経っての今回の訪問でした。行って見た五木の道の駅は以前と殆ど変らず、周辺の景色も変わってはいませんでした。一つ気になったのは、あの哀切きわまる子守唄のメロディーは全く流れていなかったのでした。着いたのが17時を過ぎていたので、放送時刻が過ぎたのかと思ったのですが、翌日の営業時刻になってもあの唄のメロディーが流れることはありませんでした。もう村の宣伝的なことは止めることになったのでしょうか?それともあのような昔の貧しさを表象するような唄を流すことは不用となったのでしょうか?誰にも、その訳を訊くことはしませんでした。そのような雰囲気でした。

あの時の豆腐を是非もう一度食べたいと思っていたのですが、営業時刻を過ぎていたので、今回はダメなのかと思っていたら、何と豆腐は自動販売機でも買えるようになっていたのでした。早速1丁を手に入れ、夕食はただそれだけにしてじっくりと味わいました。五木の豆腐は健在でした。五木の豆腐は、私の嗜好にぴったりの豆腐なのです。この豆腐だけは五木村でしっかり生き残っていて欲しいなと思いました。

 

 *古里は何処に消えた五木村哀しみの唄今は聞こえず

 *深山(しんざん)の連なる中に里ありて悲しみの唄が遠く聞こえる

 *その昔(かみ)の山里の味そのままに五木の豆腐は今に生き在り

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西海道&西国の旅の記録から(その17)

2024-07-20 01:10:27 | くるま旅くらしの話

<人吉の花手箱>

熊本県人吉市の民芸品に雉車(きじくるま)というのがあります。これに気がついたのは、12年前に人吉にある国宝の青井阿蘇神社を参拝した時でした。雉車は大小様々なサイズのものがあって、大きいものは、2~3歳の子どもがそれに乗って遊べる程のものなのです。雉車は木製で鳥の雉を象(かたど)った細長い馬の様な形をしたもので、真ん中より少し後ろの辺りに木で作った両輪がついています。ま、子供の遊びのおもちゃのようなもので、馬が雉になっていると言った方が早いのかもしれません。それが神社に奉納されていて、今まで見たこともなかったので、面白いなと思って、これはどこで誰がつくっているのかを神社の人に訊いてみたら、市内の宮原工芸という所でその宮原さんがつくっており、今ではそこだけしかないのだという話でした。このような時には、直ぐに行って見るのが旅の常道だと思って、その聞いた住所を訪ねました。宮原さんは工作所の中におられて制作に励んでおられました。見ると雉車は小さいのもたくさんあって、それらは民芸品として販売されているようでした。いろいろと話をするうちに部屋の傍らに石の風呂があるので、訊いたところそれは飾りではなく現役の風呂なのでした。入ってみますか?とおっしゃって頂いたのですが、さすがにその時はためらって、いや、今度来た時にお願いしますと答えたのでした。九州には数多くの石の文化が残っています。その代表的なものが石の橋であり、ある地域には百近い石橋が敷設されている所もあるのです。それらは大陸を経て朝鮮半島から伝わったものなのでしょうが、石の風呂というのを初めて見たので、驚いたのでした。五右衛門風呂のように下に板を敷いて入るもののようでした.工作所の中には、雉車の他に小さな何種類かの箱がつくられていて、それには椿の絵が描かれていました。小物を入れたり、大切なものをしまっておくのに丁度よいサイズの箱でした。これは花手箱というものなのだとあとで知りました。その時家内は記念にと買い求めたのでした。

あれから12年の歳月が流れて、今回も是非訪れて、健在でおられたら、花手箱を何人かの知り合いにプレゼントするのだと家内は意気込んでいました。どんな人でも喜んでもらえるような椿模様の愛らしい小箱なのです。うん、それはいいアイデアだと私も賛同しました。彼女の小遣いが減るについてはノーコメントです。

ナビ頼りで行ったのですが、今回は珍しく大して迷うこともなく宮原工芸の看板を見出して着くことができました。工作所では宮原さんご夫妻が制作に励んでおられました。早速挨拶を交わして12年前のことを話しすると、少し思い出された様で、それからあとは話がスムースに流れてゆきました。石風呂のことを尋ねると、あれは処分してもう無いということでした。あわよくば12年前の約束(?)を果たしてそれに入ってみようかなどと考えていたのですが、時すでに遅しでした。何ごとも即決して行動しないとこのような結果になるものなのだと思いました。

その後いろいろと話をしながら、家内はかなりの数の花手箱をオーダーしていました。とても車には積めないので後ほど家に送って頂くようお願いしていました。奥さんの話では、雉車などの工芸品は、もともとは平家の落ち武者の人たちが生計のためにつくり始めたのだということでした。そう言えば九州では人吉よりも一層山奥の五家荘や椎葉の里も平家の落ち武者の暮らす場所だったと思い起こし、その昔は戦に負けた人たちの暮らしが並々ならぬものだったのだということを改めて思い知りました。

家内は花手箱の他に家の中の飾りの置物にするのだと、小さな雉車を買い求めていました。旅の中の嬉しい出来事でした。

 *人吉の里に残れる雉車(きじぐるま)落人(おちうど)の夢今に伝えよ

 *幾つもの思い出秘めてそっと置け花手箱なる小さき蔵(くら)に

 

*春旅の思い出詰めよ花手箱

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