山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

西海道&西国の旅の記録から(その15)

2024-07-18 15:55:26 | くるま旅くらしの話

<厳木の佐用姫>

厳木と書いて「きゅうらぎ」と読みます。地名には読むのが難しいところが多くありますが、この地もその一つに入るのではないかと思います。この町の道の駅には、この町の出身と言われる佐用姫の巨大な像があります。何で作られているのか定かではありませんが、5~6mはあると思われる白い動く巨像なのです。

佐用姫の哀しい恋の話を知ったのは、ここではなく、20年以上も昔に、唐津の虹ノ松原を見下ろす小高い丘の鏡山公園の桜を見に行った時でした。鏡山は別称では領巾振山(ひれふりやま)とも呼ばれており、この名は佐用姫が恋人の大伴狭手彦(おおとものさてひこ)をちぎれんばかりに領巾(ひれ)を振って見送ったという伝説に由来しています。大伴狭手彦(おおともさてひこ)は往時朝鮮半島の反乱(日本の平安時代の初期のころでしょうか)の鎮圧のために軍団を引き連れて海を渡って行った若き将軍と言った人物で、大伴家は古くから武人として活躍していた家柄だったと言われているようです。佐用姫は、彼が帰って来るまで待って、待って、待ち尽くして最後は石になって待ち続けたということです。如何に激しい思慕に包まれた恋だったのかということでありましょう。その心根は往時の人たちの心を強く打ったのだと思います。そしてこの伝説が生まれたのでありましょう。鏡山の頂上にも佐用姫の像が建っていますが、こちらは動かずにじっと海を見つめて立ちつくしている姿です。

私は恋だとか愛だとかいうようなことに疎い人間なのだと思っていますが、この佐用姫と狭手彦の話には憐情というか心が動きます。今の世のいい加減で乱れた男と女の関係を思う度に、この純粋な心と心の結びつきのあり様に感動するのです。

佐用姫が長者の娘であったとは知っていましたが、厳木(きゅうらぎ)の出身だったというのは知りませんでした。12年前に厳木の道の駅に泊った時に、少し汚れた白い巨像が動いているのを見て不思議に思って傍に行ってみたら、佐用姫なのでした。その時から12年が過ぎて、薄汚れていた白い像は、今回は衣装替えをしたようで、真っ白になっていました。何だか安堵しました。

佐用姫と狭手彦の物語が、今の世にこれほどまでに残っていることに何故か嬉しさを覚えるのです。男と女の関係は、時代によって様々に変化して来ているのだと思いますが、人類によらずこの世のあらゆる生物は男と女、オスとメスという係わりで生存し続けていると言っても良いのではないかと思うのです。この物語では佐用姫のことばかりしか判りませんが、思うに狭手彦さんはどうだったのか。まさか石になって待っている佐用姫をとんだ重荷だなどとは思わなかったのだと思います。再会が叶ったとしたら、佐用姫以上に感動にむせんだのではないかと思うのです。古代の人たちの方が、現代よりも遥かに男女の結びつきが強かったのではないかと思っているからなのです。

 

*千年の恋稔らせん佐用姫の思い届けよ宇宙の果てに

*輝ける白き巨像の佐用姫は千年超えて故郷(さと)を見守る

 

コメント
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