写真は浪の図
箱裏に古筆の極めが直に書かれてある
落款は
法眼古川叟筆と
細く小さな文字で書いてある
狩野常信
カノウツネノブ
寛永13(1633)~ 正徳3(1713)
江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。
木挽町狩野家。
父は狩野尚信。
幼名は三位、右近と称。
養朴・朴斎・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎
・寒雲子・潜屋・弄毫軒、篁渚山人など号す。
京都出身。
1650年(慶安3年)4月父の尚信が没した後、
15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継いだ。
同年12月剃髪、養朴と号し家光にお目見え、
後に家綱の御用を勤めた。
父没後は狩野探幽に画を学んだとされる。
古来より
狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに
四大家の一人とされ高く評価されてきたが、
狩野派内での地位が上がるのは遅かった。
これは叔父で妻の父でもある狩野安信に
疎んじられたからだと言われる。
その間に
中院通茂に和歌を学び、
また、徳川光圀の愛顧を得て、
近衛家熈の『槐記』には、
しばしば近衛家の画事を勤めた記事が載る。
探幽同様古画の学習に努め、
後に膨大な古画鑑定控え「常信縮図」、
粉本・画稿を残した。
天和2年(1682年)20人扶持を拝領、
宝永元年(1704年)法眼に叙される。
同5年(1708年)内裏造営で賢聖障子を描き、
翌年(1709年)11月3日に
前年の画事と江戸城修理の功績を賞され
中務卿法印位を得て、
翌年12月19日には200石を加増された。
(ウィキペディアより)