新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

安部龍太郎『ふりさけ見れば』日経小説その⑦ 11月~12月20日分

2023年01月10日 | 本・新聞小説
用間(スパイ)としての命を受けて唐に残っていた阿倍仲麻呂は、再び遣唐使としてやって来た真備と共に、妻・玉鈴の力を借りて君主教殿に入り『魏略』を目にします。それは『日本書紀』が我が国の国史だと主張できる根拠を得たことで、やっと用間から解放されたのです。
玄宗皇帝からは帰国の許可も得ました。送別の席で皇帝は仲麻呂の手柄を高く評価し、日本や帝に対して格別の言葉をもらいます。そして玄宗はあの『魏略』を仲麻呂に贈ったのです。

一方、真備には鑑真を連れ帰るという大仕事が残っていました。
唐にはすでに10年前から鑑真招聘の為に普照と栄叡が残って尽力していました。鑑真もその心にうたれ、5度の渡航を試みますがことごとく失敗。唐の朝廷が鑑真の渡航を認めなかったこと、弟子間の対立や密告があったこと、難破による鑑真の失明と栄叡の病死が行く手を阻んだのです。

聖武上皇が鑑真を招聘するのには深い意味がありました。鑑真上人がわが国に初めて律宗を伝え、聖武上皇と孝謙帝に戒律を授ける。つまり二人が仏教界で最高の地位に着くことにより、仏教にもとづく国造りを指揮する権威と権力を持たせ、藤原一門が持つ現世の権力を乗り越えることでした。

しかし遣唐大使は藤原氏。そこに齟齬が生じ、鑑真渡海の許可も直前に取り下げられます。それからの鑑真の働きはひと月もサスペンス風に展開して、4艘の遣唐使船は無事出航することに成功します。
しかし、この航海中に大問題が起きます。あの玄宗から贈られた『魏書』が、弁正の死の間際の証言から偽物だと判明したのです。仲麻呂は今までの犠牲と努力と屈辱に耐えた19年間は何だったのか、なぜ偽の『魏書』にすり替えられたのかと深く思い悩みます。
しかし『魏略』の真偽よりは祖国の役に立つことを優先させること、望郷の念も止み難いこと、自分を連れ帰り国の発展につくすという真備の主張を受け入れること、で帰国を決断します。

蘇州から沖縄まで北西の風に乗り6日で着きました。ここから鹿児島まで黒潮に乗れば6日で着く予定でしたが、今度は岩場に乗り上げたり、北西の風に阻まれました。

北西からの突風に舵が折れ、予備の舵をつりつける間も船は流され続けます。東から流れてくる潮が黒潮にぶつかると巨大な壁となってそそり立ち、北西の風はその壁に向かって容赦なく船を押しやります。
叔父・船人の教えを思い出し、軸先を波にまっすぐに東に向けました。
すると『船は追い風、追い波を受けて速さを増し、波の壁に向かって一直線に進んでいった。そうして波に吸い上げられて壁を登り始め、ほぼ垂直に突っ立った。・・・・波頭に達したところでふわりと宙に浮いた。その瞬間、大海原の頂きに立ったように四方八方を見渡すことができた。荒れて波立っているのは黒潮の境目だけで、外側の青い海も内側の黒い潮も穏やかに凪いでいる。・・・次の瞬間船は真下に落ち始めた。10丈ちかくの波頭から波の谷間に向かって宙を舞っていく。・・・船内に再び絶叫が起こった。船はこのまま海面にたたきつけられてバラバラになる。仲麻呂はそう覚悟した。自分の人生はこんな風に終わるのかと妙に冷めた頭で考えていたが、船は波の背に乗り、御仏の手に支えられたようにふわりと海面に浮いた。・・・助かったという喜びもつかの間、船は黒潮の外側に流れている環流に乗って南に向かっている。この流れに乗ればどこにたどり着くのか知っているものは誰一人いなかった』

遣唐使の船が無事にたどり着けないのは本で知っていましたが、遭難場面がこんなにリアルに書かれた本が他になかったので新聞記事をそのまま引用しました。
このあと4艘の遣唐使船のうち、仲麻呂らが乗った第1遣唐使船が遭難することになります。それが真実かと思うほどドラマチックです。




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