未唯への手紙
未唯への手紙
ラトヴィア国立図書館は「灯の城」
『ラトヴィアを知るための47章』より EU加盟国としてのラトヴィア 冷戦終結後の歩み
国内基盤の整備とEU、NATO加盟への模索
9月6日、ソ連国家評議会による国家承認に続いて、日本をはじめとして国家承認が続き、1991年9月17日には国際連合の加盟を果たした。ソ連の崩壊は、同年の12月である。
独立を「回復」したものの、実際には、旧ソ連軍(ロシア軍)が、国内に駐留したままであった。このロシア軍が撤退を終えたのは1994年末であったが、ソ連の早期哨戒レーダー基地が置かれていたスクルンダから完全にロシア軍が完全に撤退するのは、ようやく1999年になってであった。欧州安全保障協力会議(CSCE)派遣団の監視下で、それの解体が最終的に確認されている。この撤退問題の解決に際しても、バルト三国は協力してその要求をアピールした。
1993年にようやく実施にこぎつけた議会(セィマ)選挙であるが、多くのロシア語系住民が選挙権をもたず、選挙に勝利した中道穏健派の「ラトヴィアの道」は、農民同盟との連立で組閣した。単独政権をもてない不安定な政治状態は、以後も繰り返される。加えて、総人口のおよそ3分の1を占めるロシア語系住民の国籍取得の問題も、簡単に解決されるものではなかった。
この戦間期独立時代から数えて第五次となるセイマによって選出され第5代大統領として就任したグンティス・ウルマニスの祖父と、ラトヴィアの初代首相で戦間期最後と位置づけられている第4代大統領であったカーリス・ウルマニスは従兄弟の間柄である。1939年リーガ生まれのグンティスは、幼少期、追放された両親とともにシペリアに暮らした経験をもっていた。続く第6代大統領はヴィッチエ=フライベルガで、彼女もリーガ生まれであるが亡命した両親とともにドイツ、モロッコを経て、カナダヘ移住、長くモントリオール大学教授であった。この二人のような経歴は、多くのラトヴィア人が共有する経験でもあった。
EU、NATOへの加盟と国内の課題
「ヨーロッパヘの回帰」を目指したラトヴィアは、市場経済への移行のためにIMFからの経済援助を得て、急速な経済改革を進めた。ロシアヘの過度な輸出入の依存からは脱したものの、エネルギーは、ほとんどをロシアに負っている状態である。1993年には、独自通貨ラッツを導入した。1993年に設立された最大の商業銀行バルティヤ銀行は、急速に拡大したが、1995年には破産、銀行危機をもたらした。1998年のロシアの金融危機や2008年にリーマンショックでも大きな影響を被り、予定より遅れた2014年1月1日からユーロを導入した。
EU、NATO加盟に向けての歩みは、概ねエストニア、リトアニアとともに歩むものであった。1994年2月には、NATOとの「平和のためのパートナーシップ」を締結、1995年1月にはEUと自由貿易協定を調印、同6月にはEUとの準協定である欧州協定に調印、1998年1月にはアメリカと「パートナーシップ憲章」に調印、2004年3月にNATO加盟、同5月1日にEUに加盟、これは、EUの第5次拡大として10か国が加盟した。いわゆるEUの東方拡大によって、バルト三国はロシアとEUとの境界の役割を担うことになった。2007年12月には、シェングン協定加盟国となった。これ以降、日本からヨーロッパのシェングン協定加盟国に最初に入国した国での通関手続きにより、ラトヴィアにも入国できるようになった。
EUやNATOへの加盟交渉のプロセスにおいて、国内政治の不安定、社会、経済、環境などで様々な問題が浮上もしてきた。これらの問題は、後述の章で言及されるので、ここでは詳細については述べない。
しかしながら、EU・NATO加盟後、これまで以上に重要な課題となっているロシアとの関係については簡単に触れておきたい。ロシアとの国境画定条約の締結までには時間を要した。ロシアとの関係は、1993年にロシア軍(旧ソ連軍)が撤退し、国境の画定に向けての交渉が進められてきたが、その条約の調印には時間を要した。2007年3月に両国の首相が国境条約にようやく調印、12月に批准書が交換され、国境は画定された。
EU加盟をめぐる交渉のプロセスで大きな課題となっていたのが、ロシア語系住民の問題であった。この前章でも触れたが、それは、ソ連時代の過去の負の遺産が大きいだろう。実際、2014年初めの統計では、住民の61・4%がラトヴィア人、26%がロシア人、3・4%がベラルーシ人、2・3%がウクライナ人であり、首都リーガではラトヴィア人は45・7%と半数には達しておらず、ロシア人が38・3%、ペラルーシ人4%、ウクライナ人3・5%とロシア語系住民がラトヴィア人の割合と措抗している状態である。一方、同時期の統計で国籍取得者をみると、ロシア語系住民ではかなりの割合で、ラトヴィア国籍を取得していないことがわかる。その割合は、ロシア人では、32・2%、ウクライナ人では53・5%、ベラルーシ人では52・5%にも上っていたが、年々少しずつその割合は減少してきてはいる。
新生ラトヴィアの象徴として独立回復後、早くから計画されていたのが国立図書館の建設であった。「灯の城」として2014年に開館したラトヴィア国立図書館の建設計画の構想は、独立の「回復」後まもなく立ち上がった。20年以上も待ち望まれていたこの建物は、旧市街と向かい合うダウガヴァ河の対岸で目を引く。この期間、何度も訪れた金融危機は、建物の完成を遅らせていった。これは、これまで市内に点在していた国立図書館を一つの建物の中に設置するというものであった。
ラトヴィア国立図書館は、そもそも、1918年の独立宣言後の1919年に設立されたものであった。現在は、ラトヴィア大学の大学図書館に属しているミシニュシュ図書館を、ライブラリアンのヤーニス・ミシンシュ(1862~1945年)が、1885年に故郷に私的公共図書館として開設したことが始まりである。彼と19世紀後半のラトヴィア人の民族覚醒運動のリーダーの一人であるクリシュヤーニス・ヴァルデマールス(1825~1891年)と共に、ラトヴィアで出版された書物、ラトヴィア語で書かれた書物、ラトヴィアやラトヴィア人について著わされた書物等を意欲的に収集していったのである。かれが、初代のラトヴィア国立図書館の館長となった。彼が集めた書物は、現在でも大変貴重なラトヴィアの歴史的、文化的、さらには、民族のアイデンティティとしての財産となっている。
このアイディアは、新しい国立図書館に現代的な要素を取り込みながら伝えられている。
ラトヴィア人にとって民族的な象徴としての「灯の城」への図書の移送は、市内に散在していた図書館から有志、特に学校の生徒たちが、新しい図書館まで並び、手から手へと渡しながら図書を移動させるという象徴的な行事が実施された。このことからも、この図書館が単なる新建物としての図書館以上の大きな意味をラトヴィア人にとってもたらしたことがわかるだろう。また、EUの議長国としてのラトヴィアでの行事が多くここで開催されることもラトヴィアという国家にとっての国立図書館の重要性を示している。
国内基盤の整備とEU、NATO加盟への模索
9月6日、ソ連国家評議会による国家承認に続いて、日本をはじめとして国家承認が続き、1991年9月17日には国際連合の加盟を果たした。ソ連の崩壊は、同年の12月である。
独立を「回復」したものの、実際には、旧ソ連軍(ロシア軍)が、国内に駐留したままであった。このロシア軍が撤退を終えたのは1994年末であったが、ソ連の早期哨戒レーダー基地が置かれていたスクルンダから完全にロシア軍が完全に撤退するのは、ようやく1999年になってであった。欧州安全保障協力会議(CSCE)派遣団の監視下で、それの解体が最終的に確認されている。この撤退問題の解決に際しても、バルト三国は協力してその要求をアピールした。
1993年にようやく実施にこぎつけた議会(セィマ)選挙であるが、多くのロシア語系住民が選挙権をもたず、選挙に勝利した中道穏健派の「ラトヴィアの道」は、農民同盟との連立で組閣した。単独政権をもてない不安定な政治状態は、以後も繰り返される。加えて、総人口のおよそ3分の1を占めるロシア語系住民の国籍取得の問題も、簡単に解決されるものではなかった。
この戦間期独立時代から数えて第五次となるセイマによって選出され第5代大統領として就任したグンティス・ウルマニスの祖父と、ラトヴィアの初代首相で戦間期最後と位置づけられている第4代大統領であったカーリス・ウルマニスは従兄弟の間柄である。1939年リーガ生まれのグンティスは、幼少期、追放された両親とともにシペリアに暮らした経験をもっていた。続く第6代大統領はヴィッチエ=フライベルガで、彼女もリーガ生まれであるが亡命した両親とともにドイツ、モロッコを経て、カナダヘ移住、長くモントリオール大学教授であった。この二人のような経歴は、多くのラトヴィア人が共有する経験でもあった。
EU、NATOへの加盟と国内の課題
「ヨーロッパヘの回帰」を目指したラトヴィアは、市場経済への移行のためにIMFからの経済援助を得て、急速な経済改革を進めた。ロシアヘの過度な輸出入の依存からは脱したものの、エネルギーは、ほとんどをロシアに負っている状態である。1993年には、独自通貨ラッツを導入した。1993年に設立された最大の商業銀行バルティヤ銀行は、急速に拡大したが、1995年には破産、銀行危機をもたらした。1998年のロシアの金融危機や2008年にリーマンショックでも大きな影響を被り、予定より遅れた2014年1月1日からユーロを導入した。
EU、NATO加盟に向けての歩みは、概ねエストニア、リトアニアとともに歩むものであった。1994年2月には、NATOとの「平和のためのパートナーシップ」を締結、1995年1月にはEUと自由貿易協定を調印、同6月にはEUとの準協定である欧州協定に調印、1998年1月にはアメリカと「パートナーシップ憲章」に調印、2004年3月にNATO加盟、同5月1日にEUに加盟、これは、EUの第5次拡大として10か国が加盟した。いわゆるEUの東方拡大によって、バルト三国はロシアとEUとの境界の役割を担うことになった。2007年12月には、シェングン協定加盟国となった。これ以降、日本からヨーロッパのシェングン協定加盟国に最初に入国した国での通関手続きにより、ラトヴィアにも入国できるようになった。
EUやNATOへの加盟交渉のプロセスにおいて、国内政治の不安定、社会、経済、環境などで様々な問題が浮上もしてきた。これらの問題は、後述の章で言及されるので、ここでは詳細については述べない。
しかしながら、EU・NATO加盟後、これまで以上に重要な課題となっているロシアとの関係については簡単に触れておきたい。ロシアとの国境画定条約の締結までには時間を要した。ロシアとの関係は、1993年にロシア軍(旧ソ連軍)が撤退し、国境の画定に向けての交渉が進められてきたが、その条約の調印には時間を要した。2007年3月に両国の首相が国境条約にようやく調印、12月に批准書が交換され、国境は画定された。
EU加盟をめぐる交渉のプロセスで大きな課題となっていたのが、ロシア語系住民の問題であった。この前章でも触れたが、それは、ソ連時代の過去の負の遺産が大きいだろう。実際、2014年初めの統計では、住民の61・4%がラトヴィア人、26%がロシア人、3・4%がベラルーシ人、2・3%がウクライナ人であり、首都リーガではラトヴィア人は45・7%と半数には達しておらず、ロシア人が38・3%、ペラルーシ人4%、ウクライナ人3・5%とロシア語系住民がラトヴィア人の割合と措抗している状態である。一方、同時期の統計で国籍取得者をみると、ロシア語系住民ではかなりの割合で、ラトヴィア国籍を取得していないことがわかる。その割合は、ロシア人では、32・2%、ウクライナ人では53・5%、ベラルーシ人では52・5%にも上っていたが、年々少しずつその割合は減少してきてはいる。
新生ラトヴィアの象徴として独立回復後、早くから計画されていたのが国立図書館の建設であった。「灯の城」として2014年に開館したラトヴィア国立図書館の建設計画の構想は、独立の「回復」後まもなく立ち上がった。20年以上も待ち望まれていたこの建物は、旧市街と向かい合うダウガヴァ河の対岸で目を引く。この期間、何度も訪れた金融危機は、建物の完成を遅らせていった。これは、これまで市内に点在していた国立図書館を一つの建物の中に設置するというものであった。
ラトヴィア国立図書館は、そもそも、1918年の独立宣言後の1919年に設立されたものであった。現在は、ラトヴィア大学の大学図書館に属しているミシニュシュ図書館を、ライブラリアンのヤーニス・ミシンシュ(1862~1945年)が、1885年に故郷に私的公共図書館として開設したことが始まりである。彼と19世紀後半のラトヴィア人の民族覚醒運動のリーダーの一人であるクリシュヤーニス・ヴァルデマールス(1825~1891年)と共に、ラトヴィアで出版された書物、ラトヴィア語で書かれた書物、ラトヴィアやラトヴィア人について著わされた書物等を意欲的に収集していったのである。かれが、初代のラトヴィア国立図書館の館長となった。彼が集めた書物は、現在でも大変貴重なラトヴィアの歴史的、文化的、さらには、民族のアイデンティティとしての財産となっている。
このアイディアは、新しい国立図書館に現代的な要素を取り込みながら伝えられている。
ラトヴィア人にとって民族的な象徴としての「灯の城」への図書の移送は、市内に散在していた図書館から有志、特に学校の生徒たちが、新しい図書館まで並び、手から手へと渡しながら図書を移動させるという象徴的な行事が実施された。このことからも、この図書館が単なる新建物としての図書館以上の大きな意味をラトヴィア人にとってもたらしたことがわかるだろう。また、EUの議長国としてのラトヴィアでの行事が多くここで開催されることもラトヴィアという国家にとっての国立図書館の重要性を示している。
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次にロシアが狙うラトヴィア社会
『ラトヴィアを知るための47章』より
現在ラトヴィアとして知られる地域には、のちにラトヴィア人として統合されるさまざまなバルト諸部族が古代から住んでいたが、この地域は戦略的重要性を有していたことから、ラトヴィアはつねに巨大な国家に支配されてきた。このことは、今日のラトヴィアの民族・文化的状況を大いに規定している。つまり、民族的ラトヴィア人だけではなく、ドイツ人、ポーランド人、スウェーデン人、ロシア人など、多くの外国人がラトヴィアの領域に住んできたということである。1918年の11月18日に独立国家の理念が実現したが、1940年にはソ連軍の支配下に置かれ、数か月後には正式にソ連へと編入された。その1年後にナチス・ドイツがラトヴィアを占領したものの、1944年にはソ連軍が再びラトヴィアを支配下におさめた。ラトヴィアが独立を再び獲得したのは1991年になってからのことである。2004年からはEUの加盟国となり、2014年にユーロ圏にも加わっている。
ラトヴィアの民族的構成は、その政治体制の変化にあわせて20世紀に大きく変化した。特に、ソ連占領期(1940~41年と戦後の1945~89年)に大きく変化しており、ロシア系およびその他のスラブ系住民の数が急激に上昇し(ロシア人は1935年の8・8%から1989年の34%)、ラトヴィア系住民の比率が大きく減少した(1935年の76・9%から1989年の52%)。戦間期にせよソ連崩壊後にせよ、独立している時代には、ラトヴィア系住民比率が上昇しているところも一つの特徴である。ラトヴィア系住民は1935年には76・9%となり(訳注一1925年には70%前半台だった)、2003年には58・5%となった。
ラトヴィア最大の少数派集団はロシア人であり、人口の27%を構成している(2011年)。とはいえ、人口構成は民族的違いよりも言語的違いによって考慮されることが多い。すなわち、ラトヴィアの居住者はたいてい、ラトヴィア語話者とロシア語話者(ラトヴィア語ないしロシア語を母語として話す者たち)に分断されるのである。2011年の国勢調査によると、人口の62・O%がラトヴィア語を母語とし、37・2%がロシア語を母語とし、残りのO・8%がその他の言語を母語にしている。
ラトヴィアにおけるロシア人の歴史は1000年近くに及ぶ。12世紀にはすでに、ラトヴィアに少数のロシア人商人がいた。バルト領域へのロシア人の最初の大規模移住は、17~18世紀に起きた、口シア人古儀式派信仰者のラトヴィアヘの流入である(古儀式派ロシア人らは、ラトヴィアに逃れることで、宗教的迫害を避け、故郷では許容されなくなった自分たちの伝統的生活様式を守ることができた)。19世紀にはロシア人農民らも、ラトヴィアに住む古儀式派ロシア人らを頼ってやってきた。第二次世界大戦以降、ラトヴィアに住むロシア人の数は4・5倍にまで増加した。この増加はソ連内の各共和国、特にロシア連邦からの移動によるものであった。
ソ連崩壊は、ラトヴィアに住む民族的ロシア人の自己意識に影響を与え、民族的帰属意識やアイデンティティの危機を引き起こした。もちろん同様の影響はラトヴィア人にも及んだ。しかし、民族的ラトヴィア人たちは自分たちの国家という「民族のシェルター」を有していたのに対して、ラトヴィアのロシア人らはそのような心の埋め合わせメカニズムを有していなかった。ラトヴィアの独立回復以降、彼らは自分たちの故郷だと思っていた国で、少数派扱いされていることに気づいたのであった(「彼らの政治的・法的地位は激変し、あらゆる責任を負うソ連内の長兄的立場から、他国における異邦人に成り代わり、移民であるとか占領者であるとか呼ばれるようになった」とは、ィルガ・アピネ『民族心理学概論』2001年刊の指摘である)。ソ連時代の歴史的環境は、ロシア帝国時代にすでに形成され始めていたロシア人の自己認識、すなわち多数派で支配的な集団で世界的な力を持つ、という自己認識をますます堅固にし、かつ広範なものとしていた。それゆえに、少数派(であるロシア人)にも、多数派が持つ権利と同等の権利が付与されるよう、強く求める傾向がある。たとえばロシア語の公用語化などである。
イルガ・アピネは同書の中で、こういった現象を「バルト・ロシア人」や「ロシア系ラトヴィア人」という表現を通じて考察している。ロシア系ラトヴィア人によってロシアやラトヴィアはどう意昧づけられるかといった問題や、ラトヴィアで生まれ育ったロシア人たちがバルト諸国の住民としての精神的特徴を有しているか否か、といった問題についてである。彼女は、バルト・ロシア人らにはロシアに住まうロシア人と比べて異なる側面が存在するし、その違いはますます拡大していると指摘する(筆者自身も1990年代前半の調査でラトヴィアのロシア人の価値観がラトヴィア人の価値観と緩やかに接近してきたことを見出していたし、その傾向は1990年代中盤および2001年の調査でより明確に示された)。
近年、ラトヴィアのロシア人の中で帰属意識が形成されつつあり、彼らは新しい政治的∴氏族的・社会的状況という不可逆の変化に黙従し始めている。社会の中で新しい帰属意識と役割の模索が始まっ。ており、「ロシア系ラトヴィア人」という新しい帰属意識が表れつつある(アピネの見解では「口シア系ラトヴィア人という心理的タイプが生まれている。典型的なロシア人パソーナリティの特性を有しつつも、ラトヴィアヘの明確な帰属意識を持ち、ラトヴィア的環境に心休まる個人」とされる)。ラトヴィアのロシア人たちは、ロシアのロシア人たちとまったく異なる政治的・社会的生活の中で生きている。とはいえ、ラトヴィア人環境への文化的適応は非常にゆっくりとしたものであり、これは将来世代の問題となるであろう。
同じ結論は、2012年実施の調査からも導かれる。ロシア人らは、ラトヴィア人らとは異なる文化に属するという明確な意識を持ちつつも、同時に、ロシアのロシア人らとも自分たちは異なる文化に属するという意識を持っている。彼らはこの違いを、ロシアではなくラトヴィアに住んでいるからだと認識している。ラトヴィアに住むことで、彼らの口シア語は時間とともに変化しているし、またその伝統にもラトヴィア的伝統との習合が一定程度見られる。さらに、ロシア人らは非常に多くの特性をラトヴィア人らから引き継いでいる。ロシアのロシア語とラトヴィアのロシア語の違いもしばしば指摘されている。だが一方で、ロシア人らはラトヴィア文化に対して完全には同化吸収されたくないと思っている。その最大の側面は、彼らは異なる言語を話すという点である。
ソ連時代には、ラトヴィアには「非対称的バイリンガリズム」が存在した。ラトヴィア人はロシア語をよく理解するが、非ラトヴィア人はラトヴィア語をほとんど知らないという状況を指す。ロシア語は、行政・専門職・経済・科学などの分野において支配的であったのに対し、ラトヴィア語はせいぜい文化分野でしか優位でなかったので、ほとんどのラトヴィア人にロシア語を学ぶ強い動機があった一方で、非ラトヴィア人らにはラトヴィア語を学ぶ動機がほとんどなかったのである。
独立回復後、ラトヴィア政府第一の目標はラトヴィア語とラトヴィア社会の安定を確保することであった。ラトヴィア語を保護するため、あらゆる分野にラトヴィア語が用いられ(ラトヴィアはラトヴィア語が存在し用いられる唯一の国である)、1989年に採択された言語法はラトヴィア語を唯一の公用語であると規定した。1999年採択の新言語法も同様である。1996年から2008年にかけて毎年行われた調査からは、言語政策がもたらした効果がわかる。ラトヴィア国内の非ラトヴィア人らの言語能力は、1年単位では微細にしか変化していないものの、10年単位でみれば相当改善されている。ラトヴィア語能力の向上が最も顕著なのは若年層で、1996年にラトヴィア後能力が「良い」と評価された若年人口(15~34歳)は50%であったのに対し、2008年には73%の若年人口が同様の評価を受けている(バルト社会科学研究所【BISS】が1996年から2008年にかけて行った世論調査データより)。
1990年代中盤以降、ラトヴィアの社会統合が非常に重要な問題となってきた。社会科学者も政治家も、国民の創出と社会統合がラトヴィアにとって極めて重要な問題であることを理解しており、社会全体が努力を示した。2001年には社会統合プログラムが採択されたが、そこでは統合について「同じ国家に住まう個々人や集団同士の相互理解および相互協力」と定義されている。社会統合の核心はラトヴィア国家への忠誠であり、国家の将来・安定性・安全が各人の未来や成功に大きく関わっているという理解である。その基礎にあるのは、ラトヴィア語を公用語として各人が認めつつも、同時にラトヴィアに住まうラトヴィア人や少数民族すべての言語と文化に敬意を払うことにこそある。
現在ラトヴィアとして知られる地域には、のちにラトヴィア人として統合されるさまざまなバルト諸部族が古代から住んでいたが、この地域は戦略的重要性を有していたことから、ラトヴィアはつねに巨大な国家に支配されてきた。このことは、今日のラトヴィアの民族・文化的状況を大いに規定している。つまり、民族的ラトヴィア人だけではなく、ドイツ人、ポーランド人、スウェーデン人、ロシア人など、多くの外国人がラトヴィアの領域に住んできたということである。1918年の11月18日に独立国家の理念が実現したが、1940年にはソ連軍の支配下に置かれ、数か月後には正式にソ連へと編入された。その1年後にナチス・ドイツがラトヴィアを占領したものの、1944年にはソ連軍が再びラトヴィアを支配下におさめた。ラトヴィアが独立を再び獲得したのは1991年になってからのことである。2004年からはEUの加盟国となり、2014年にユーロ圏にも加わっている。
ラトヴィアの民族的構成は、その政治体制の変化にあわせて20世紀に大きく変化した。特に、ソ連占領期(1940~41年と戦後の1945~89年)に大きく変化しており、ロシア系およびその他のスラブ系住民の数が急激に上昇し(ロシア人は1935年の8・8%から1989年の34%)、ラトヴィア系住民の比率が大きく減少した(1935年の76・9%から1989年の52%)。戦間期にせよソ連崩壊後にせよ、独立している時代には、ラトヴィア系住民比率が上昇しているところも一つの特徴である。ラトヴィア系住民は1935年には76・9%となり(訳注一1925年には70%前半台だった)、2003年には58・5%となった。
ラトヴィア最大の少数派集団はロシア人であり、人口の27%を構成している(2011年)。とはいえ、人口構成は民族的違いよりも言語的違いによって考慮されることが多い。すなわち、ラトヴィアの居住者はたいてい、ラトヴィア語話者とロシア語話者(ラトヴィア語ないしロシア語を母語として話す者たち)に分断されるのである。2011年の国勢調査によると、人口の62・O%がラトヴィア語を母語とし、37・2%がロシア語を母語とし、残りのO・8%がその他の言語を母語にしている。
ラトヴィアにおけるロシア人の歴史は1000年近くに及ぶ。12世紀にはすでに、ラトヴィアに少数のロシア人商人がいた。バルト領域へのロシア人の最初の大規模移住は、17~18世紀に起きた、口シア人古儀式派信仰者のラトヴィアヘの流入である(古儀式派ロシア人らは、ラトヴィアに逃れることで、宗教的迫害を避け、故郷では許容されなくなった自分たちの伝統的生活様式を守ることができた)。19世紀にはロシア人農民らも、ラトヴィアに住む古儀式派ロシア人らを頼ってやってきた。第二次世界大戦以降、ラトヴィアに住むロシア人の数は4・5倍にまで増加した。この増加はソ連内の各共和国、特にロシア連邦からの移動によるものであった。
ソ連崩壊は、ラトヴィアに住む民族的ロシア人の自己意識に影響を与え、民族的帰属意識やアイデンティティの危機を引き起こした。もちろん同様の影響はラトヴィア人にも及んだ。しかし、民族的ラトヴィア人たちは自分たちの国家という「民族のシェルター」を有していたのに対して、ラトヴィアのロシア人らはそのような心の埋め合わせメカニズムを有していなかった。ラトヴィアの独立回復以降、彼らは自分たちの故郷だと思っていた国で、少数派扱いされていることに気づいたのであった(「彼らの政治的・法的地位は激変し、あらゆる責任を負うソ連内の長兄的立場から、他国における異邦人に成り代わり、移民であるとか占領者であるとか呼ばれるようになった」とは、ィルガ・アピネ『民族心理学概論』2001年刊の指摘である)。ソ連時代の歴史的環境は、ロシア帝国時代にすでに形成され始めていたロシア人の自己認識、すなわち多数派で支配的な集団で世界的な力を持つ、という自己認識をますます堅固にし、かつ広範なものとしていた。それゆえに、少数派(であるロシア人)にも、多数派が持つ権利と同等の権利が付与されるよう、強く求める傾向がある。たとえばロシア語の公用語化などである。
イルガ・アピネは同書の中で、こういった現象を「バルト・ロシア人」や「ロシア系ラトヴィア人」という表現を通じて考察している。ロシア系ラトヴィア人によってロシアやラトヴィアはどう意昧づけられるかといった問題や、ラトヴィアで生まれ育ったロシア人たちがバルト諸国の住民としての精神的特徴を有しているか否か、といった問題についてである。彼女は、バルト・ロシア人らにはロシアに住まうロシア人と比べて異なる側面が存在するし、その違いはますます拡大していると指摘する(筆者自身も1990年代前半の調査でラトヴィアのロシア人の価値観がラトヴィア人の価値観と緩やかに接近してきたことを見出していたし、その傾向は1990年代中盤および2001年の調査でより明確に示された)。
近年、ラトヴィアのロシア人の中で帰属意識が形成されつつあり、彼らは新しい政治的∴氏族的・社会的状況という不可逆の変化に黙従し始めている。社会の中で新しい帰属意識と役割の模索が始まっ。ており、「ロシア系ラトヴィア人」という新しい帰属意識が表れつつある(アピネの見解では「口シア系ラトヴィア人という心理的タイプが生まれている。典型的なロシア人パソーナリティの特性を有しつつも、ラトヴィアヘの明確な帰属意識を持ち、ラトヴィア的環境に心休まる個人」とされる)。ラトヴィアのロシア人たちは、ロシアのロシア人たちとまったく異なる政治的・社会的生活の中で生きている。とはいえ、ラトヴィア人環境への文化的適応は非常にゆっくりとしたものであり、これは将来世代の問題となるであろう。
同じ結論は、2012年実施の調査からも導かれる。ロシア人らは、ラトヴィア人らとは異なる文化に属するという明確な意識を持ちつつも、同時に、ロシアのロシア人らとも自分たちは異なる文化に属するという意識を持っている。彼らはこの違いを、ロシアではなくラトヴィアに住んでいるからだと認識している。ラトヴィアに住むことで、彼らの口シア語は時間とともに変化しているし、またその伝統にもラトヴィア的伝統との習合が一定程度見られる。さらに、ロシア人らは非常に多くの特性をラトヴィア人らから引き継いでいる。ロシアのロシア語とラトヴィアのロシア語の違いもしばしば指摘されている。だが一方で、ロシア人らはラトヴィア文化に対して完全には同化吸収されたくないと思っている。その最大の側面は、彼らは異なる言語を話すという点である。
ソ連時代には、ラトヴィアには「非対称的バイリンガリズム」が存在した。ラトヴィア人はロシア語をよく理解するが、非ラトヴィア人はラトヴィア語をほとんど知らないという状況を指す。ロシア語は、行政・専門職・経済・科学などの分野において支配的であったのに対し、ラトヴィア語はせいぜい文化分野でしか優位でなかったので、ほとんどのラトヴィア人にロシア語を学ぶ強い動機があった一方で、非ラトヴィア人らにはラトヴィア語を学ぶ動機がほとんどなかったのである。
独立回復後、ラトヴィア政府第一の目標はラトヴィア語とラトヴィア社会の安定を確保することであった。ラトヴィア語を保護するため、あらゆる分野にラトヴィア語が用いられ(ラトヴィアはラトヴィア語が存在し用いられる唯一の国である)、1989年に採択された言語法はラトヴィア語を唯一の公用語であると規定した。1999年採択の新言語法も同様である。1996年から2008年にかけて毎年行われた調査からは、言語政策がもたらした効果がわかる。ラトヴィア国内の非ラトヴィア人らの言語能力は、1年単位では微細にしか変化していないものの、10年単位でみれば相当改善されている。ラトヴィア語能力の向上が最も顕著なのは若年層で、1996年にラトヴィア後能力が「良い」と評価された若年人口(15~34歳)は50%であったのに対し、2008年には73%の若年人口が同様の評価を受けている(バルト社会科学研究所【BISS】が1996年から2008年にかけて行った世論調査データより)。
1990年代中盤以降、ラトヴィアの社会統合が非常に重要な問題となってきた。社会科学者も政治家も、国民の創出と社会統合がラトヴィアにとって極めて重要な問題であることを理解しており、社会全体が努力を示した。2001年には社会統合プログラムが採択されたが、そこでは統合について「同じ国家に住まう個々人や集団同士の相互理解および相互協力」と定義されている。社会統合の核心はラトヴィア国家への忠誠であり、国家の将来・安定性・安全が各人の未来や成功に大きく関わっているという理解である。その基礎にあるのは、ラトヴィア語を公用語として各人が認めつつも、同時にラトヴィアに住まうラトヴィア人や少数民族すべての言語と文化に敬意を払うことにこそある。
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石橋湛山の戦後構想
『自由主義は戦争を止められるのか』より 行き詰まる寛容と自律 「大東亜共栄圏」への批判・対応・分業論
清沢に戦後研究を依頼していた石橋は、自分でも戦後構想を練るようになった。一九四四年一〇月、連合国の国際連合案が発表された。石橋はこの頃から小磯内閣の石渡荘太郎蔵相にかけあって、大蔵省に「戦時経済特別調査室」を設置し、翌年四月までに二〇回以上の会合を行った。表向きは戦時経済といいながら、実際の活動は戦後の研究であった。
石橋も清沢と同じく、国際連合案に批判的であった。「大国の同盟」である同案に、自ら対案を示す必要を説いた(「米英の世界制圧案」『香港東洋経済新報』 一九四四年一二月)。そこで石橋は、一二月に開かれた「国際関係研究会」で「世界経済機構案」を発表している(「国際関係研究会報告 世界経済機構(世界平和案)」一九四四年一二月二六日)。彼は、翌四五年一月一二日に経済倶楽部の午餐会でこれを発表し、その後、前述の大蔵省戦時経済特別調査室のための報告としてまとめていった(『石橋日記』一九四五年盲ご一日、四月一七・二四・二五日、六月四日)。清沢が「兎に角、石橋君ならではできない案である」(『暗黒日記』 一九四四年一二月二六日)と感嘆した石橋の戦後構想とは、どのような内容だったのだろうか。
連合国案や清沢の戦後私案(清沢の章を参照)と、石橋の構想との大きな違いは、政治ではなく経済の手段によって平和を構築しようという方法にある。
世界が平和を維持できないのは、経済と政治が矛盾しているからだ。分業と貿易を世界中で展開するのが経済の理想であるのに、政治は国境で世界を分割し、世界の一体化を妨げてしまう(「世界平和の破れたる根本原因」)。そこで石橋は、政治的な国境は維持しながら、経済的には世界一体化に向かっていくために、次のような世界経済機構の創設を提案する。
(一) まず、世界の経済を次のように三つの広域地区圏に分ける。
(1)欧州・ソ連・近東・アフリカ
(2)アジア・南洋・豪州
(3)南北米州
(二) 次に、各広域地区圏のなかで、各国内経済↓広域地区圏内経済の段階に分けて、資源・人・生産要素を完全稼働して分業に励む。
(三) さらに、三つの広域地区圏の間でも同様に完全稼働し分業に励む。
(四) 国内経済は各国の自由に任せ、広域地区圏内と広域地区圏間の経済については、 常設の委員会で要求を調整して計画を立てる。各国・各地区圏はこの計画を実行する。
石橋は、この世界経済機構によって「全世界の民衆の生活程度および文化の向上と均質化」が実現できるとしている(「戦後世界経済機構案」)。彼は結局、〈経済の国際性〉への信頼を失わなかった。大東亜共栄圏内分業という苦肉の策は挫折した。やはり戦争は、分業と貿易の自由な展開を遮断する。だから戦争をやめない限り〈経済の国際性〉は実現しないのだ。こうした確信が彼の戦後構想に刻みこまれていたのである。しかし、戦時下でこの構想が陽の目をみることはなく、公表されたのは一九五九年、すでに石橋が首相を辞任した後であった。
石橋は「新外交」と「大正デモクラシー」の潮流のなかで、ジャーナリストとして出発した。彼の思想の核心には自己支配を最上と考える自立主義がある。だから彼は、自己の自律を追求すると同時に、他者の自律を尊重する寛容をもち続けたのである。この自己と他者の関係を日本と中国の関係に置きかえて、石橋は中国の民族自決の尊重を主張し、中国ナショナリズム運動への理解を説いた。
しかし、一九二〇年代の終わりから戦時期に、石橋はしばしば中国ナショナリズム運動に疑念を示すようになった。石橋の自立主義は自己責任を重視する思想なので、自己統治ができないならば他国の介入を正当化する論理に反転する可能性をもっていたのである。
満洲事変後の石橋は、ブロック経済のもとで日本がいかにして自律を確保するかという難問に取り組むことになった。それまでは満蒙権益に否定的だった石橋だが、満洲国の存在を容認し、経済的侵出をさらに中国華北にまで拡大することを主張した。同時に、重要な貿易相手国である英米との協調論を唱えた。しかし、その英米を相手とする戦争に突入し、経済関係が断絶することになったので、やむをえず石橋は、それまで批判してきた大東亜共栄圏構想に対応する分業論を提案した。本来ならば分業論は、平和な国際関係を前提とするが、皮肉にも戦争経済の再編成に奉仕する意味をもってしまったのである。
日中戦争期にも中国ナショナリズムに言及していたことから、石橋の寛容の理念は続いていたとみるべきである。しかし、日本の戦時経済の自律を追求するほど、中国だけでなくアジア諸国への寛容の余裕はなくなっていった。こうして、戦時期に石橋の寛容と自律の両立は行き詰まったのである。
長い戦争の時代を「争臣」として生きた石橋にとって、「敵」は日本の内部にいたといえるだろう。だからこそ彼は、日本の敗戦に直面しても虚脱感と無縁であった。
考えて見るに、予は或意味に於て、日本の真の発艇の為めに、米英等と共に日本内部の逆悪と戦っていたのであった。今回の敗幟が何等予に悲しみをもたらさざる所以である。
(「石橋日記」 一九四五年八月一八日)
石橋が戦後の出発に「前途は実に洋々たり」といってのけた理由もそこにある(「更生日本の門出」一九四五年八月二五日)。平和が到来して〈経済の国際性〉を十二分に展開できるならば、すべての植民地・占領地を失っても日本はやっていける、と石橋の期待は高まった。その期待は冷戦の深刻化によって再びしぼんでしまうのだが、それはまた後の話である(石橋の戦後については、拙著『石橋湛山論』を参照されたい)。石橋は戦後が始まるとともに、経済ジャーナリストから政治家に転身する。その心境は、戦死した息子・和彦にあてて詠んだ歌のなかにうかがえる。
此の戦如何に終るも汝が死をば 父が代りて 国の為め生かさん
(『石橋日記』 一九四六年一月一日)
清沢に戦後研究を依頼していた石橋は、自分でも戦後構想を練るようになった。一九四四年一〇月、連合国の国際連合案が発表された。石橋はこの頃から小磯内閣の石渡荘太郎蔵相にかけあって、大蔵省に「戦時経済特別調査室」を設置し、翌年四月までに二〇回以上の会合を行った。表向きは戦時経済といいながら、実際の活動は戦後の研究であった。
石橋も清沢と同じく、国際連合案に批判的であった。「大国の同盟」である同案に、自ら対案を示す必要を説いた(「米英の世界制圧案」『香港東洋経済新報』 一九四四年一二月)。そこで石橋は、一二月に開かれた「国際関係研究会」で「世界経済機構案」を発表している(「国際関係研究会報告 世界経済機構(世界平和案)」一九四四年一二月二六日)。彼は、翌四五年一月一二日に経済倶楽部の午餐会でこれを発表し、その後、前述の大蔵省戦時経済特別調査室のための報告としてまとめていった(『石橋日記』一九四五年盲ご一日、四月一七・二四・二五日、六月四日)。清沢が「兎に角、石橋君ならではできない案である」(『暗黒日記』 一九四四年一二月二六日)と感嘆した石橋の戦後構想とは、どのような内容だったのだろうか。
連合国案や清沢の戦後私案(清沢の章を参照)と、石橋の構想との大きな違いは、政治ではなく経済の手段によって平和を構築しようという方法にある。
世界が平和を維持できないのは、経済と政治が矛盾しているからだ。分業と貿易を世界中で展開するのが経済の理想であるのに、政治は国境で世界を分割し、世界の一体化を妨げてしまう(「世界平和の破れたる根本原因」)。そこで石橋は、政治的な国境は維持しながら、経済的には世界一体化に向かっていくために、次のような世界経済機構の創設を提案する。
(一) まず、世界の経済を次のように三つの広域地区圏に分ける。
(1)欧州・ソ連・近東・アフリカ
(2)アジア・南洋・豪州
(3)南北米州
(二) 次に、各広域地区圏のなかで、各国内経済↓広域地区圏内経済の段階に分けて、資源・人・生産要素を完全稼働して分業に励む。
(三) さらに、三つの広域地区圏の間でも同様に完全稼働し分業に励む。
(四) 国内経済は各国の自由に任せ、広域地区圏内と広域地区圏間の経済については、 常設の委員会で要求を調整して計画を立てる。各国・各地区圏はこの計画を実行する。
石橋は、この世界経済機構によって「全世界の民衆の生活程度および文化の向上と均質化」が実現できるとしている(「戦後世界経済機構案」)。彼は結局、〈経済の国際性〉への信頼を失わなかった。大東亜共栄圏内分業という苦肉の策は挫折した。やはり戦争は、分業と貿易の自由な展開を遮断する。だから戦争をやめない限り〈経済の国際性〉は実現しないのだ。こうした確信が彼の戦後構想に刻みこまれていたのである。しかし、戦時下でこの構想が陽の目をみることはなく、公表されたのは一九五九年、すでに石橋が首相を辞任した後であった。
石橋は「新外交」と「大正デモクラシー」の潮流のなかで、ジャーナリストとして出発した。彼の思想の核心には自己支配を最上と考える自立主義がある。だから彼は、自己の自律を追求すると同時に、他者の自律を尊重する寛容をもち続けたのである。この自己と他者の関係を日本と中国の関係に置きかえて、石橋は中国の民族自決の尊重を主張し、中国ナショナリズム運動への理解を説いた。
しかし、一九二〇年代の終わりから戦時期に、石橋はしばしば中国ナショナリズム運動に疑念を示すようになった。石橋の自立主義は自己責任を重視する思想なので、自己統治ができないならば他国の介入を正当化する論理に反転する可能性をもっていたのである。
満洲事変後の石橋は、ブロック経済のもとで日本がいかにして自律を確保するかという難問に取り組むことになった。それまでは満蒙権益に否定的だった石橋だが、満洲国の存在を容認し、経済的侵出をさらに中国華北にまで拡大することを主張した。同時に、重要な貿易相手国である英米との協調論を唱えた。しかし、その英米を相手とする戦争に突入し、経済関係が断絶することになったので、やむをえず石橋は、それまで批判してきた大東亜共栄圏構想に対応する分業論を提案した。本来ならば分業論は、平和な国際関係を前提とするが、皮肉にも戦争経済の再編成に奉仕する意味をもってしまったのである。
日中戦争期にも中国ナショナリズムに言及していたことから、石橋の寛容の理念は続いていたとみるべきである。しかし、日本の戦時経済の自律を追求するほど、中国だけでなくアジア諸国への寛容の余裕はなくなっていった。こうして、戦時期に石橋の寛容と自律の両立は行き詰まったのである。
長い戦争の時代を「争臣」として生きた石橋にとって、「敵」は日本の内部にいたといえるだろう。だからこそ彼は、日本の敗戦に直面しても虚脱感と無縁であった。
考えて見るに、予は或意味に於て、日本の真の発艇の為めに、米英等と共に日本内部の逆悪と戦っていたのであった。今回の敗幟が何等予に悲しみをもたらさざる所以である。
(「石橋日記」 一九四五年八月一八日)
石橋が戦後の出発に「前途は実に洋々たり」といってのけた理由もそこにある(「更生日本の門出」一九四五年八月二五日)。平和が到来して〈経済の国際性〉を十二分に展開できるならば、すべての植民地・占領地を失っても日本はやっていける、と石橋の期待は高まった。その期待は冷戦の深刻化によって再びしぼんでしまうのだが、それはまた後の話である(石橋の戦後については、拙著『石橋湛山論』を参照されたい)。石橋は戦後が始まるとともに、経済ジャーナリストから政治家に転身する。その心境は、戦死した息子・和彦にあてて詠んだ歌のなかにうかがえる。
此の戦如何に終るも汝が死をば 父が代りて 国の為め生かさん
(『石橋日記』 一九四六年一月一日)
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ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』抜き出し
『ラスト・ライティングス』より ⇒ 雑多なコメントで書けるようにしたい
15 人は確かな権利でもって「私は端的にそう言うのだ」と述べることもできるだろう。というのも、これは単に、「話すことに随伴する何かなど気にかけるな」ということのみ意味するからである。
16 「怖いんだ」という表出は様々に異なる文脈のなかに置かれうるのではないか。それぞれの文脈がこの表出に対して、あるときにはある表情を、別のときには別の表情を与えるのだろうか。
18 我々よりもいわば遥かに明確にものを考え、あるときはある言葉を、別のときには別の言葉を、という風に、様々に異なる言葉を用いる人々を想像することができるだろう。
19 諸々のフィクショナルな概念をこしらえることほど重要なものはない。そうした概念があってはじめて、我々は自分たちの概念を学び、理解するようになるのである。
25 私は希望もそのように表現することができるだろうか。おそらく駄目だろう。あるいは、ひょっとしたら信念なら?
28 では、私はいつも非常に明確な意図をもって語っているのか。--そして、そうでないとすると、私の言うことは無意味になるのだろうか。
30 人が心的状態を記述するために必要なのは何か。--あるいは、人が心的状態を記述しようとするために必要なのは何か、と私は問うことができるだろうか。
31 人はまた、「自分の心的状態を記述するとき、私にとって何か重要でなければならないのか」と問うこともできるだろう。
48 「助けて!」と叫ぶ人は、自分がどういう気分でいるかを記述しようとしているのか。何かを記述するということほど、そのときの彼と縁遠いものはない。
49 しかし、我々が記述とは呼ばないであろうものから、そう呼ぶであろうものへの移行はある。
53 「私の心に、その語の意味が浮かんでいた」--その語が多義的でない文脈のなかに出てくるとき、人は果たしてそのように言うだろうか。
62 「ぴったりの言葉」という体験。これは、「意味すること」の体験と同じことなのか。
66 それを夢と呼べ!
68 それを夢と呼べ。それは何も変えはしない。
72 私が何かを語る(たとえば、「確かに『シューベルト』という名前はシューペルトに完全にぴったり合う」)--それは何も意味していない。
95 したがって、我々が関心をもたねばならない問いは、次のようなものである。語っていたその時点への言及は何の役に立つのか。何を人に伝えるのか。
97 彼は、自分が何のことを考えていたかを、自分が想像したものから読み取るのではない。
99 「その言葉が発せられたとき君が考え込んだことに、私は気づいた」。
101 「この言葉が発せられたとき、私は彼のことを考えていた」。この伝達に我々はどういう関心を寄せるのか。この種の言葉に対応するプリミティブな反応はどのようなものだろうか。
104 こう言うとかなり奇妙なことになるだろう。「彼に向けて書いている間〔だけ〕、彼のことを考えていた」。
108 たとえ神が我々の心を覗き込んだとしても、我々が誰について話していたかをそこに見て取ることはできなかっただろう。
109 哲学においては、我々の思考の傾向を表現している命題と、問題を解消する命題とを区別せねばならない。
110 不治の病いは規則であり、〔規則の〕例外ではない。
119 私の思考が語りの道筋から逸れるときがあるとしても、通常のケースではその道筋に沿って進む。
120 もしすべてが通常の足取りで進むとしたら、語りに伴う内面の過程なるものについて誰も考えたりしない。
121 哲学とは言語使用の記述ではないが、それでも、言語において生活が言い表される仕方すべてに絶えず注意を払うことによって、人は哲学を学ぶことができる。
150 私がこのノートでこれほど多くの疑問文を用いているのは、偶然ではない。
160 「彼らは兄妹だ。けれど全く似ていない」。--「私は彼らの間に類似性を見て取ることができる」。ここでは私にとって何か重要なのか。
164 「私には、同一のものが見えているというより、遥かにずっと重要な意味で、多様なものが見えている」。
184 しかし、私の痛みは隠されている、と言うのは正しいだろうか。
185 たとえば、未来は隠されているのか。
189 「人は未来を知ることができないだって?--日食や月食についてはどうだというんだ?」。--「それらについても、本当の意味では人は知ることはできない」。「知る?--たとえば何を?」。
186 「未来の出来事ほど隠されているものはない。人はそれを知ることができない。知りうるのはいま生じていることだけだ」。
190 ライオンがしゃべれるとしても、我々にはライオンが理解できないだろう。
191 たとえ誰かが「自分の内面のこと」をすべて打ち明けたとしても、我々は必ずしも彼を理解しないだろう。
194 このようにして、彼は私にとって謎でなくなるかもしれない。
197 彼のなかで何か生じているか、私は知らない。彼の振る舞いを思考内容で肉付けることは、私にはできないだろう。
198 〈私には彼が理解できない〉というのは、他の人々ともって収るような関係を彼とはもてない、ということを意味する。
15 人は確かな権利でもって「私は端的にそう言うのだ」と述べることもできるだろう。というのも、これは単に、「話すことに随伴する何かなど気にかけるな」ということのみ意味するからである。
16 「怖いんだ」という表出は様々に異なる文脈のなかに置かれうるのではないか。それぞれの文脈がこの表出に対して、あるときにはある表情を、別のときには別の表情を与えるのだろうか。
18 我々よりもいわば遥かに明確にものを考え、あるときはある言葉を、別のときには別の言葉を、という風に、様々に異なる言葉を用いる人々を想像することができるだろう。
19 諸々のフィクショナルな概念をこしらえることほど重要なものはない。そうした概念があってはじめて、我々は自分たちの概念を学び、理解するようになるのである。
25 私は希望もそのように表現することができるだろうか。おそらく駄目だろう。あるいは、ひょっとしたら信念なら?
28 では、私はいつも非常に明確な意図をもって語っているのか。--そして、そうでないとすると、私の言うことは無意味になるのだろうか。
30 人が心的状態を記述するために必要なのは何か。--あるいは、人が心的状態を記述しようとするために必要なのは何か、と私は問うことができるだろうか。
31 人はまた、「自分の心的状態を記述するとき、私にとって何か重要でなければならないのか」と問うこともできるだろう。
48 「助けて!」と叫ぶ人は、自分がどういう気分でいるかを記述しようとしているのか。何かを記述するということほど、そのときの彼と縁遠いものはない。
49 しかし、我々が記述とは呼ばないであろうものから、そう呼ぶであろうものへの移行はある。
53 「私の心に、その語の意味が浮かんでいた」--その語が多義的でない文脈のなかに出てくるとき、人は果たしてそのように言うだろうか。
62 「ぴったりの言葉」という体験。これは、「意味すること」の体験と同じことなのか。
66 それを夢と呼べ!
68 それを夢と呼べ。それは何も変えはしない。
72 私が何かを語る(たとえば、「確かに『シューベルト』という名前はシューペルトに完全にぴったり合う」)--それは何も意味していない。
95 したがって、我々が関心をもたねばならない問いは、次のようなものである。語っていたその時点への言及は何の役に立つのか。何を人に伝えるのか。
97 彼は、自分が何のことを考えていたかを、自分が想像したものから読み取るのではない。
99 「その言葉が発せられたとき君が考え込んだことに、私は気づいた」。
101 「この言葉が発せられたとき、私は彼のことを考えていた」。この伝達に我々はどういう関心を寄せるのか。この種の言葉に対応するプリミティブな反応はどのようなものだろうか。
104 こう言うとかなり奇妙なことになるだろう。「彼に向けて書いている間〔だけ〕、彼のことを考えていた」。
108 たとえ神が我々の心を覗き込んだとしても、我々が誰について話していたかをそこに見て取ることはできなかっただろう。
109 哲学においては、我々の思考の傾向を表現している命題と、問題を解消する命題とを区別せねばならない。
110 不治の病いは規則であり、〔規則の〕例外ではない。
119 私の思考が語りの道筋から逸れるときがあるとしても、通常のケースではその道筋に沿って進む。
120 もしすべてが通常の足取りで進むとしたら、語りに伴う内面の過程なるものについて誰も考えたりしない。
121 哲学とは言語使用の記述ではないが、それでも、言語において生活が言い表される仕方すべてに絶えず注意を払うことによって、人は哲学を学ぶことができる。
150 私がこのノートでこれほど多くの疑問文を用いているのは、偶然ではない。
160 「彼らは兄妹だ。けれど全く似ていない」。--「私は彼らの間に類似性を見て取ることができる」。ここでは私にとって何か重要なのか。
164 「私には、同一のものが見えているというより、遥かにずっと重要な意味で、多様なものが見えている」。
184 しかし、私の痛みは隠されている、と言うのは正しいだろうか。
185 たとえば、未来は隠されているのか。
189 「人は未来を知ることができないだって?--日食や月食についてはどうだというんだ?」。--「それらについても、本当の意味では人は知ることはできない」。「知る?--たとえば何を?」。
186 「未来の出来事ほど隠されているものはない。人はそれを知ることができない。知りうるのはいま生じていることだけだ」。
190 ライオンがしゃべれるとしても、我々にはライオンが理解できないだろう。
191 たとえ誰かが「自分の内面のこと」をすべて打ち明けたとしても、我々は必ずしも彼を理解しないだろう。
194 このようにして、彼は私にとって謎でなくなるかもしれない。
197 彼のなかで何か生じているか、私は知らない。彼の振る舞いを思考内容で肉付けることは、私にはできないだろう。
198 〈私には彼が理解できない〉というのは、他の人々ともって収るような関係を彼とはもてない、ということを意味する。
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移民の防止には鎖国しかない
Alexandros
Alexandrosの記事があり、その中に磯部さんというのがあった。甲府で聞いた名前です。アレキサンダー大王とアレキサンドリア図書館で覚えていた。有名なんだ!
移民の防止には鎖国しかない
イギリスの看護婦の20%以上、医師の10%以上も移民です。移民が根付いているし、その原因を作ったのもイギリスです。イギリスが独立するのは、日本が鎖国するようなモノ。ムスリムのない世界史は考えられない。日本のように、単に置いて行かれるだけの世界が作れるか。
ウィトゲンシュタインのつぶやき
140文字以下をピックアップしましょう。まとめなくても、それで十分なんです。ウィトゲンシュタインは自分の中にいる。それが「ラストライティング」。感じたこと、考えたことをそのまま出す。まとめるのは私ではない。それが言葉の役割。
ツイッター的に述べたモノをつなげる必要なない。逆に、まとめたモノをばらすのにツイッターを使えまます。わかってもらう必要はないんだから。
その後ろでどれだけ考えたのかは、言葉には出せない。言葉にできるのはつぶやきだけです。それから全体を作るのは、一つのつぶやきからはできます。だけど、つぶやき全部からはできない。
なぜ、この時代だったのか
なぜ、この時代だったのか。といっても、これより後があるかどうかはわからない。空間はあるだろうけど、その観察者が存在しているのか。だから、最終極限だから出てきたのでしょう。たぶん、そうなんでしょう。
だから、色々なものが準備されている。それらの全てを使っているわけではないけど。
2文字略語
きーちゃんはDD.誰でも大好き。みんな、嫌いはMK。
Alexandrosの記事があり、その中に磯部さんというのがあった。甲府で聞いた名前です。アレキサンダー大王とアレキサンドリア図書館で覚えていた。有名なんだ!
移民の防止には鎖国しかない
イギリスの看護婦の20%以上、医師の10%以上も移民です。移民が根付いているし、その原因を作ったのもイギリスです。イギリスが独立するのは、日本が鎖国するようなモノ。ムスリムのない世界史は考えられない。日本のように、単に置いて行かれるだけの世界が作れるか。
ウィトゲンシュタインのつぶやき
140文字以下をピックアップしましょう。まとめなくても、それで十分なんです。ウィトゲンシュタインは自分の中にいる。それが「ラストライティング」。感じたこと、考えたことをそのまま出す。まとめるのは私ではない。それが言葉の役割。
ツイッター的に述べたモノをつなげる必要なない。逆に、まとめたモノをばらすのにツイッターを使えまます。わかってもらう必要はないんだから。
その後ろでどれだけ考えたのかは、言葉には出せない。言葉にできるのはつぶやきだけです。それから全体を作るのは、一つのつぶやきからはできます。だけど、つぶやき全部からはできない。
なぜ、この時代だったのか
なぜ、この時代だったのか。といっても、これより後があるかどうかはわからない。空間はあるだろうけど、その観察者が存在しているのか。だから、最終極限だから出てきたのでしょう。たぶん、そうなんでしょう。
だから、色々なものが準備されている。それらの全てを使っているわけではないけど。
2文字略語
きーちゃんはDD.誰でも大好き。みんな、嫌いはMK。
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岡崎市図書館の9冊
932.5『シェイクスピア大図鑑』
375.8『「聞き書く」の力』表現指導の理論と実践
704『人工地獄』現代アートと観客の政治学
125.6『中国近代の思想文化史』
323.5『憲法改正とは何か』米国改憲史から考える
209.7『第一次世界大戦を考える』「現代」はここからはじまった
309.1『自由主義は戦争を止められるのか』
234『ワイマールからヒトラーへ』第二次大戦前のドイツの労働者とホワイトカラー
131.5『セネカ 哲学する政治家』ネロ帝宮廷の日々
375.8『「聞き書く」の力』表現指導の理論と実践
704『人工地獄』現代アートと観客の政治学
125.6『中国近代の思想文化史』
323.5『憲法改正とは何か』米国改憲史から考える
209.7『第一次世界大戦を考える』「現代」はここからはじまった
309.1『自由主義は戦争を止められるのか』
234『ワイマールからヒトラーへ』第二次大戦前のドイツの労働者とホワイトカラー
131.5『セネカ 哲学する政治家』ネロ帝宮廷の日々
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もやっとしている
英国のEU継続か離脱か
日本の世界離脱って、鎖国のことなのか、米国からの離脱なのか。多様化に対しては、あまり、いい傾向ではない。移民問題に真っ正面から向かっていかないと。いくら「鎖国」しても、その先が見えない。英連邦でまとまっても、頭には立てない。
もやっとしている
なんか、やっぱり、もやっとしています。梅雨の鬱陶しさだけではない。なかなか、先に進まないことが気になっている。気にする必要ないのに。ここから脱するには、思い切ったことが欲しい。
8月以降は入力を絞りましょう。本当に仕掛けられた偶然だけ。
まいまいはどこへ行く
まいまいの最後のブログのコメントが1万を超えました。AKBとかで訳のわからないところで、確実に何かが変わってきています。まいまいとの接点について、橋本、生田、生駒、桜井からのコメントがそれぞれ、ヤフーニュースに載っていた。
アレキサンドロスとアレキサンダー
同じヤフーニュースに磯部さんの子どもが載っていた。有名みたいですね。甲府で聞いたとおりです。アレキサンドロスがアレキサンドリア図書館とかアレキサンダー大王からつながるので珍しく覚えていた。
日本の世界離脱って、鎖国のことなのか、米国からの離脱なのか。多様化に対しては、あまり、いい傾向ではない。移民問題に真っ正面から向かっていかないと。いくら「鎖国」しても、その先が見えない。英連邦でまとまっても、頭には立てない。
もやっとしている
なんか、やっぱり、もやっとしています。梅雨の鬱陶しさだけではない。なかなか、先に進まないことが気になっている。気にする必要ないのに。ここから脱するには、思い切ったことが欲しい。
8月以降は入力を絞りましょう。本当に仕掛けられた偶然だけ。
まいまいはどこへ行く
まいまいの最後のブログのコメントが1万を超えました。AKBとかで訳のわからないところで、確実に何かが変わってきています。まいまいとの接点について、橋本、生田、生駒、桜井からのコメントがそれぞれ、ヤフーニュースに載っていた。
アレキサンドロスとアレキサンダー
同じヤフーニュースに磯部さんの子どもが載っていた。有名みたいですね。甲府で聞いたとおりです。アレキサンドロスがアレキサンドリア図書館とかアレキサンダー大王からつながるので珍しく覚えていた。
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今、生きていたら、どうなる?と時々考える
回らない回転寿司
豊田市にも回らない回転寿司が出来ていた。タブレットでメニューから選ぶ形になっています。選ぶの面倒くさい。目の前にモノがあれば、取るだけで済むのに! こういうのが進化なのか? タブレットが取り外せるメリットだけは感じます。そうでないと、読めない。店内のネットを確認したら、無線LANが確認できた。ついでに自前のタブレットにダウンロードできれば、様相が変わるのに。
回転寿司にとっては清算は楽ですね。何なら、即時引き落としも出てくるのか。ついでに、一品ごとの値段も細かく変えることもできる。レシートを見ると、スーパーのお買い上げ伝票になっている。
送ってくるレーンだけに意味があると言うことは、それを配ることになれば、場所にも拘らなくなる。俟っているという感覚がなくなる。出前寿司と同様な導線も可能になる。だけど、あまり、食べた感じがしなかった。食べさせられた感覚だけが残った。
キンドルオアシス入手までにすること
タブレットでコンテンツを読んでみると、ページ送りが大変です。思考が途絶えます。寝ながら読むにはやはり、キンドルオアシスでしょう。キンドルペーパーの不具合が治っていることを望みます。
8月にオアシスが入手できるまでに、コンテンツを読む方法を確立しましょう。キンドルオアシスは展開されているけど、色に拘ったので、8月まで入手できない。
30年前のモータースポーツ部
ル・マン24時間耐久が終わった。30年前には興味があったが、そのころは朝を迎えることができなかった。
今の車両はTS050みたいですね。TS001のTシャツを持っています。当時のモータースポーツのメンバーから記念にもらった。レース用の計測システムを作っていた。そのメンバーはトヨタを見限って、英国のレース用エンジンの会社に移ってしまった。
今、生きていたら、どうなる?と時々考える
論理数学でなく、位相数学を知ったのであれば、ウィトゲンシュタインはもっと、言葉に対して、異なる結論になったでしょう。もっと、曖昧でもいいことに気づいたはず。
これは、デカルトにも言える。16世紀だったから、「方法序説」止まりだった。ヘーゲルの「歴史哲学」もフランス革命まででの結論だった。現代ならば、民主主義の行く先に対しての結論が異なったでしょう。
そう考えると、この時代に生き、数学、歴史学、社会学に接する機会があった、私の存在の意味を考えてしまう。歴史の役割を果たさないといけない。それが真理につながる。
まいまいの最後のブログ
最後のモバメがあり、レスのコメントが9300を越えた。すごい!世界ですね.これも中間の場としてのコミュニティの参考にしよう。
【お知らせ】深川麻衣のブログクローズに関しまして
いつも乃木坂46を応援していただき、ありがとうございます。
先日グループを卒業いたしました深川麻衣のブログを、7月1日(金)の午前中に作業を行いクローズさせていただくこととなりました。
今まであたたかいご声援をいただき、ありがとうございました。
今後とも乃木坂46をよろしくお願いいたします。
乃木坂46運営委員会
豊田市にも回らない回転寿司が出来ていた。タブレットでメニューから選ぶ形になっています。選ぶの面倒くさい。目の前にモノがあれば、取るだけで済むのに! こういうのが進化なのか? タブレットが取り外せるメリットだけは感じます。そうでないと、読めない。店内のネットを確認したら、無線LANが確認できた。ついでに自前のタブレットにダウンロードできれば、様相が変わるのに。
回転寿司にとっては清算は楽ですね。何なら、即時引き落としも出てくるのか。ついでに、一品ごとの値段も細かく変えることもできる。レシートを見ると、スーパーのお買い上げ伝票になっている。
送ってくるレーンだけに意味があると言うことは、それを配ることになれば、場所にも拘らなくなる。俟っているという感覚がなくなる。出前寿司と同様な導線も可能になる。だけど、あまり、食べた感じがしなかった。食べさせられた感覚だけが残った。
キンドルオアシス入手までにすること
タブレットでコンテンツを読んでみると、ページ送りが大変です。思考が途絶えます。寝ながら読むにはやはり、キンドルオアシスでしょう。キンドルペーパーの不具合が治っていることを望みます。
8月にオアシスが入手できるまでに、コンテンツを読む方法を確立しましょう。キンドルオアシスは展開されているけど、色に拘ったので、8月まで入手できない。
30年前のモータースポーツ部
ル・マン24時間耐久が終わった。30年前には興味があったが、そのころは朝を迎えることができなかった。
今の車両はTS050みたいですね。TS001のTシャツを持っています。当時のモータースポーツのメンバーから記念にもらった。レース用の計測システムを作っていた。そのメンバーはトヨタを見限って、英国のレース用エンジンの会社に移ってしまった。
今、生きていたら、どうなる?と時々考える
論理数学でなく、位相数学を知ったのであれば、ウィトゲンシュタインはもっと、言葉に対して、異なる結論になったでしょう。もっと、曖昧でもいいことに気づいたはず。
これは、デカルトにも言える。16世紀だったから、「方法序説」止まりだった。ヘーゲルの「歴史哲学」もフランス革命まででの結論だった。現代ならば、民主主義の行く先に対しての結論が異なったでしょう。
そう考えると、この時代に生き、数学、歴史学、社会学に接する機会があった、私の存在の意味を考えてしまう。歴史の役割を果たさないといけない。それが真理につながる。
まいまいの最後のブログ
最後のモバメがあり、レスのコメントが9300を越えた。すごい!世界ですね.これも中間の場としてのコミュニティの参考にしよう。
【お知らせ】深川麻衣のブログクローズに関しまして
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OCR化した10冊
『昭和天皇は何と戦っていたのか』より
ヒトラーヘの同情
山本五十六の死と「弔問」
初めて「敗戦」に言及する
「一撃講和」に縛られる
『昭和史』より
敗戦の要因
国体論という理念
↑日本軍の戦力
戦時下の政治情勢
『一歩先への憲法入門』より
憲法改正をめぐる問題
憲法改正の手続
憲法の安定性と可変性
硬性憲法
日本国憲法の改正手続
憲法改正の限界
無限界説
限界説とその問題点
部分社会の法理
部分社会
富山大学事件
部分社会の法理
地方議会の問題
マスメディアと表現の自由
報道の自由
知る権利
報道の自由
取材の自由
取材の自由
取材の自由の限界
「財産権」とは何か
経済社会生活の基礎としての財産権
経済社会生活の基礎としての財産権
財産と財産権
財産権と法制度
財産権は法律によって生み出され、侵害される?
財産権と法律
法律でも制限できない財産権
財産権の制限とその正当化
財産権は本当に神聖不可侵か?
財産権の制約が許されるのはどのような場合か?
空家規制
奈良県ため池条例事件
私有財産制度の保障と森林法違憲判決
私有財産制度の保障
単独所有と共有
森林法違憲判決
社会権
「国家からの自由」から「国家による自由」へ
社会権の意義
基本原理としての個人の尊重
固人の尊重と社会権
平等の意味
身分制の廃止
中世
近代
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
現実の格差
現代社会と平等
形式的平等
実質的平等
アファーマティブ・アクション
逆差別
法の下の平等とは何か
法適用の平等と法内容の平等
絶対的平等と相対的平等
『持つべき友はみな、本の中で出会った』より
読書録で人生を語る
「やましき沈黙」の教訓
ハンナ・アーレントの義
いやな感じのなかで
『戦争と平和』再読
『人工知能とは』より
社会的知能としての人工知能
まえがき
人工知能が目指す知能とは
社会的人工知能とは
知能と知識
知能とウェブ/インターネット
人工知能がある世界
人工知能とは複雑ネットワークシステムによって創発される知能
『大論争! 哲学バトル』より
人類の歴史を動かすものは何なのか?
『自由の思想史』より
自由のために闘ったアテナイの人々
サラミス島へ渡る
アイスキュロス『ペルシア人』
イオニア反乱からペルシア戦争へ
アテナイの自由と東方の専制
自由と運命の関係
ペリクレスのラディカル・デモクラシー
自由と統制の関係
「ソクラテスの方法」とアゴラ
『ビル・ゲイツⅡ』より
ウィンドウズNT
デイビッド・カトラー
デイビッド・カトラーのマイクロソフト入社(一九八八年一〇月)
スティーブ・ウッド
ウィンドウズNTのアーキテクチャ
一九八九年七月、ビル・ゲイツとのミーティング
一九八九年一一月、ビル・ゲイツとのミーティング
一九九〇年一月、ビル・ゲイツとのミーティング
ポール・マリッツ
シャムウェイ・マンションでの会合(一九九〇年二月)
ウィンドウズNTとLAN
一九九〇年五月三〇日、ビル・ゲイツとのミーティング
Win32APIの設定
NTFS 第3のファイルーシステム
MS-DOSサブシステム、ウィンドウズーサブシステム
ウィンドウズNTのグラフィックス
ウィンドウズNTのセキュリティ
ウィンドウズNT試用版の発表
ウィンドウズNT3・I(一九九三年八月)
ウィンドウズNT3・5(一九九四年九月)
デイビッド・カトラーのレーサーヘの転身
ウィンドウズNT4・O(一九九五年六月)
ウィンドウズ2000(二〇〇〇年二月)
ウィンFSの失敗(二〇〇六年六月)
『クロニクルⅣ』より
2015年10月
2015年11月
2015年12月
2012年1月
『2時間でわかるマクニールの「世界史」』より
諸文明を飲み込み拡大するイスラム
イスラム教の創始者・ムハンマドの流転
アラブの征服事業
イスラム教徒の聖典と律法
ギリシアを超える華やかなアラビアの生活と文化
傀儡国家・アッバース帝国
遊牧民の輝ける時代
イスラム世界を大きくしたトルコ人の力
現地人と一線を画すモンゴルの制覇
オスマン=トルコ帝国の登場
スーフィー運動はイスラム拡大のカギ
細密画を生んだイスラムの美術
インドにおけるヒンドゥー教の3変化
「第3のローマ」を作ったギリシア正教
伝統が中国の発展に限界を及ぼす
イスラム教 VS ヒンドゥー&キリスト教世界
アジアからヨーロッパに広がるイスラム世界
商業利権優先で勢力を仲ばす商人たち
後退の兆しが見え始めるオスマン帝国
ヨーロッパ商人たちによるインド洋近辺の支配
イスラム世界におけるシーア派のうごき
知識の後退と芸術の進歩
イスラム支配下の他の宗教のうごき
「伝統への自信」が改革を遅らせる
新進の軍事力かアラーの恩寵か
時代に追いつけないワッハーブ派の運動
変われないオスマン帝国
遊牧民とイギリスに従属させられていくインド
イランとトルキスタンの動き
ヒンドゥー教の改革
変化するバルカン半島のキリスト教徒
中国で失敗するキリスト教の伝道
アヘンによる屈辱の開国
日本の社会的緊張
伝統文化と近代精神の対決
大樹にしがみつく中国 西欧から学ぶ日本
衰退の一途をたどるイスラム勢力
西欧の優越で解体されていく、イスラムの力
世俗主義で西欧に対抗するイスラム新進国
独立するバルカン半島のキリスト教国
インドにじわじわと浸透したイギリス式植民政策
新旧の結合によりインドが独立する
無血のうちに築かれた「中華民国」
「服従と義務」で日本が躍進する
貧困+宗教+民族主義が混沌を生む
植民地独立の背景
核の抑止力
ヴェトナム戦争
民族紛争のはじまり
新しい貧富の階層が生まれる
共産主義政権への幻滅
ソ連の崩壊と民族主張の強化
イスラム世界の新しい動き
辺境でおこる根深い宗教と民族の対立
1945年以後の社会と文化の変化
ヒトラーヘの同情
山本五十六の死と「弔問」
初めて「敗戦」に言及する
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硬性憲法
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無限界説
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部分社会
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取材の自由の限界
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経済社会生活の基礎としての財産権
経済社会生活の基礎としての財産権
財産と財産権
財産権と法制度
財産権は法律によって生み出され、侵害される?
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社会権
「国家からの自由」から「国家による自由」へ
社会権の意義
基本原理としての個人の尊重
固人の尊重と社会権
平等の意味
身分制の廃止
中世
近代
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
現実の格差
現代社会と平等
形式的平等
実質的平等
アファーマティブ・アクション
逆差別
法の下の平等とは何か
法適用の平等と法内容の平等
絶対的平等と相対的平等
『持つべき友はみな、本の中で出会った』より
読書録で人生を語る
「やましき沈黙」の教訓
ハンナ・アーレントの義
いやな感じのなかで
『戦争と平和』再読
『人工知能とは』より
社会的知能としての人工知能
まえがき
人工知能が目指す知能とは
社会的人工知能とは
知能と知識
知能とウェブ/インターネット
人工知能がある世界
人工知能とは複雑ネットワークシステムによって創発される知能
『大論争! 哲学バトル』より
人類の歴史を動かすものは何なのか?
『自由の思想史』より
自由のために闘ったアテナイの人々
サラミス島へ渡る
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アテナイの自由と東方の専制
自由と運命の関係
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「ソクラテスの方法」とアゴラ
『ビル・ゲイツⅡ』より
ウィンドウズNT
デイビッド・カトラー
デイビッド・カトラーのマイクロソフト入社(一九八八年一〇月)
スティーブ・ウッド
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一九八九年一一月、ビル・ゲイツとのミーティング
一九九〇年一月、ビル・ゲイツとのミーティング
ポール・マリッツ
シャムウェイ・マンションでの会合(一九九〇年二月)
ウィンドウズNTとLAN
一九九〇年五月三〇日、ビル・ゲイツとのミーティング
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デイビッド・カトラーのレーサーヘの転身
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ウィンドウズ2000(二〇〇〇年二月)
ウィンFSの失敗(二〇〇六年六月)
『クロニクルⅣ』より
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2012年1月
『2時間でわかるマクニールの「世界史」』より
諸文明を飲み込み拡大するイスラム
イスラム教の創始者・ムハンマドの流転
アラブの征服事業
イスラム教徒の聖典と律法
ギリシアを超える華やかなアラビアの生活と文化
傀儡国家・アッバース帝国
遊牧民の輝ける時代
イスラム世界を大きくしたトルコ人の力
現地人と一線を画すモンゴルの制覇
オスマン=トルコ帝国の登場
スーフィー運動はイスラム拡大のカギ
細密画を生んだイスラムの美術
インドにおけるヒンドゥー教の3変化
「第3のローマ」を作ったギリシア正教
伝統が中国の発展に限界を及ぼす
イスラム教 VS ヒンドゥー&キリスト教世界
アジアからヨーロッパに広がるイスラム世界
商業利権優先で勢力を仲ばす商人たち
後退の兆しが見え始めるオスマン帝国
ヨーロッパ商人たちによるインド洋近辺の支配
イスラム世界におけるシーア派のうごき
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イスラム支配下の他の宗教のうごき
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西欧の優越で解体されていく、イスラムの力
世俗主義で西欧に対抗するイスラム新進国
独立するバルカン半島のキリスト教国
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植民地独立の背景
核の抑止力
ヴェトナム戦争
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1945年以後の社会と文化の変化
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マクニールの「世界史」のイスラム 2/2
『2時間でわかるマクニールの「世界史」』より
衰退の一途をたどるイスラム勢力
オスマン、ペルシア、ムガルという3つのイスラム帝国はことのほか無力でした。
オスマン帝国はイギリスとフランスの支援を得て、クリミア戦争でロシアに勝利しますが、その代償は、それ以前にロシアに敗れて失った以上のものがありました。
オスマン帝国のスルタンは、この戦争からその後、西欧の外交官の指導で、西欧的な改革を「導入しなければならなかった」のです(タンジマート改革といい、1830年代から始まっている)。
スルタンを始め、イスラム教徒たちは、その改革が帝国内のキリスト教徒に益するものであり、イスラム教の原理から外れるものであり、その不満を口にする程度のことしかできません。スルタンは、帝国の存亡が「ヨーロッパ列強の支持」にかかっていることを知っていました。1870年まではイギリス、その90年まではドイツがその役割を果たします。
外部からの支援がないと国家がどうなるか、はムガル帝国が証明しました。
1857年、オスマン帝国がロシアに勝利したという報道が伝わると、東インド会社のインド人傭兵(セポイ、イスラム教徒もヒンドゥー教徒もいた)は、イギリス人支配者に対し反乱(対英大反乱)を起こします。
短期的にはイギリス人を海外に駆逐するまでの勢いを見せたが、明確な政治目標を欠いており、一般大衆も取り込めず、イギリスは本国からの援軍を送りこみ、反乱を鎮圧します。イギリス議会は、インドを支配していた東インド会社を解散させ、インドを本国の直接統治下に置きます。ここにムガル帝国は滅亡し、またイギリスヘの反抗の中心勢力がイスラム教徒ではなく、ヒンドゥー教徒になります(1877年、インド帝国が成立し、ヴィクトリア女王がインド帝国皇帝になる)。
イラン(19世紀半ばは力ージャール朝)やアフガニスタンのイスラム教徒も同様な状況であり、ロシアとイギリスが勢力の拡大を図り、両国はどちらかの国の傀儡になるより、生き残る術がないような状態でした。
西欧の優越で解体されていく、イスラムの力
19世紀のイスラム教指導者のジレンマは、宗教的に純粋なイスラム教を、世俗主義とどうかかわらせるかという問題でした。
イスラム教徒は、アラー(神)が世界を支配すると固く信じており、もし、変革を行うとすれば、それはコーランの規律をより厳しく遵守する方向、初期イスラムの厳しい禁欲主義にむかうことになります。
この流れで、スルタンのアブドウル=ハミト2世は、1878年(前年の露土戦争に敗北し、タンジマート改革を棚上げした)から、1908年(青年トルコのサロニカ革命の年、棚上げされていた憲法が復活された)までスルタン専制政治を復活させました。
しかしこれは、失敗します。西欧の技術を学んだ青年将校は、政治に積極的に参加することを望んだからです。結果、アブドゥル=ハミトは失脚、さらに1912年からの2次にわたるバルカン戦争と第1次世界大戦で、バルカンの領土のほとんどを失います。第1次世界大戦の終結後、オスマン帝国領は戦勝国に分割されました。
南フィリピンではアメリカ、インドネシアではオランダに、中央アジアではロシア、いずれもイスラム勢力は欧米勢力に屈辱的な従属を強いられ、曲がりなりにも独立していたイスラム国家はアフガニスタン、イラン、オスマン帝国だけとなります。
第1次世界大戦後、オスマン帝国は講和条約に抵抗し、セーブル条約を改変させ(ローザンヌ条約)一部の失地を回復します。これを指導したケマル=アタチュルクは、スルタン制を廃しトルコ共和国を樹立、(カリフ制度も廃止して)世俗国家を目指した。
彼は、女性のヴェール廃止など、イスラムの習俗の廃止(アラビア文字を止めてアルファペットの採用)といった改革を行います。彼の改革は確かに民族主義的感覚を育てますが、一方でイスラム教への愛着が社会には存在しました。ただし、近代産業の育成には、ほとんど成果を上げることができませんでした(これは現代も多くのイスラム国家が抱える問題でもある)。
このようなジレンマは、イランとサウジアラビアではさらに深刻でした。イランで、カージャール朝に代わり、パフレヴィー朝を建てたレザー=パフレヴィーの政策は、ケマル=パシャと似た方針を実行します。しかし国王権力は脆弱で、イスラム信仰がより強かったため、近代化は遅々として進まず、アフガニスタンでも事態は同様でした。
世俗主義で西欧に対抗するイスラム新進国
サウード家は19世紀以来のワッハーブ派を信奉していましたが、イブン=サウードは、ワッハーブ派の理念を実現するのではなく、自分の支配下にある諸都市の間の道路などを整備し、サウード家の中央集権体制を固めます。アラビア半島の地下に眠る膨大な石油がもたらす利益は、ワッハーブ派の理念を消滅させたのです。
イスラムの世俗主義はエジプト、シリア、イラクにおいても急速に拡大します。
この運動は、第1次世界大戦後、中東を二分していたイギリスとフランスに対する独立運動という形を取り、イラクは1932年に形式上は独立を達成した。しかしアラブの真の意昧での独立は第2次世界大戦後になります。
1850年から1945年まで、イスラム世界の人々は政治的にも経済的にも状況を変えることができません。西欧の技術や知識に付きまとう思想から、人々はイスラム教の原理や思想を隔離したのです。このため、この問に、イスラム世界から世界的に名を上げる人は一人も出ていません。経済面でも、近代的産業はイスラム世界に根を下ろすことができません。新しい事業や技術改良は、外国人の手によるものでした。
しかしそれでもイスラム社会は、ムハンマドヘの信仰は生きた信仰であり続け、その宗教儀礼は、極めて西欧化された信者の間でも遵守されます。すなわち、20世紀のアフリカ中央部や西部地域では、イスラム教への改宗が続いていたのです。
イスラム世界の新しい動き
1979年のイラン革命は、マスコミが宗教的扇動を行った良い例です。ホメイニのシャー政府弾劾の演説はひそかに放送され、民衆の支持を集め、権力を掌握します。彼は、1989年まで政権を維持し、国内ではシーア派の律法をまもらせ、対外的にはアメリカ合衆国との戦いを呼び掛けました。
イスラム教国は他の諸国と比べ、ムハンマドのイスラム教創始以来、宗教と政治は強く結びついていました。そしてこの状況が、少数派のイスラム過激派(ここの段階では、パレスチナ解放機構のことか?)の存在を生み出す一因ともなります。
彼らはパレスチナ人と結び、イスラエルヘのテロを行い、それ以外にも矛先を向けます。この混乱は外交の同様にも現れました。1973年(第4次中東戦争)以降、アメリカは、イスラエルとエジプトに武器を供与し、両国の和平実現に貢献します。
さらにイスラエルとパレスチナ解放機構との間にも、不安定ながら協定を結ばせます(1993~94)。しかし永きの平和は実現しません。
衰退の一途をたどるイスラム勢力
オスマン、ペルシア、ムガルという3つのイスラム帝国はことのほか無力でした。
オスマン帝国はイギリスとフランスの支援を得て、クリミア戦争でロシアに勝利しますが、その代償は、それ以前にロシアに敗れて失った以上のものがありました。
オスマン帝国のスルタンは、この戦争からその後、西欧の外交官の指導で、西欧的な改革を「導入しなければならなかった」のです(タンジマート改革といい、1830年代から始まっている)。
スルタンを始め、イスラム教徒たちは、その改革が帝国内のキリスト教徒に益するものであり、イスラム教の原理から外れるものであり、その不満を口にする程度のことしかできません。スルタンは、帝国の存亡が「ヨーロッパ列強の支持」にかかっていることを知っていました。1870年まではイギリス、その90年まではドイツがその役割を果たします。
外部からの支援がないと国家がどうなるか、はムガル帝国が証明しました。
1857年、オスマン帝国がロシアに勝利したという報道が伝わると、東インド会社のインド人傭兵(セポイ、イスラム教徒もヒンドゥー教徒もいた)は、イギリス人支配者に対し反乱(対英大反乱)を起こします。
短期的にはイギリス人を海外に駆逐するまでの勢いを見せたが、明確な政治目標を欠いており、一般大衆も取り込めず、イギリスは本国からの援軍を送りこみ、反乱を鎮圧します。イギリス議会は、インドを支配していた東インド会社を解散させ、インドを本国の直接統治下に置きます。ここにムガル帝国は滅亡し、またイギリスヘの反抗の中心勢力がイスラム教徒ではなく、ヒンドゥー教徒になります(1877年、インド帝国が成立し、ヴィクトリア女王がインド帝国皇帝になる)。
イラン(19世紀半ばは力ージャール朝)やアフガニスタンのイスラム教徒も同様な状況であり、ロシアとイギリスが勢力の拡大を図り、両国はどちらかの国の傀儡になるより、生き残る術がないような状態でした。
西欧の優越で解体されていく、イスラムの力
19世紀のイスラム教指導者のジレンマは、宗教的に純粋なイスラム教を、世俗主義とどうかかわらせるかという問題でした。
イスラム教徒は、アラー(神)が世界を支配すると固く信じており、もし、変革を行うとすれば、それはコーランの規律をより厳しく遵守する方向、初期イスラムの厳しい禁欲主義にむかうことになります。
この流れで、スルタンのアブドウル=ハミト2世は、1878年(前年の露土戦争に敗北し、タンジマート改革を棚上げした)から、1908年(青年トルコのサロニカ革命の年、棚上げされていた憲法が復活された)までスルタン専制政治を復活させました。
しかしこれは、失敗します。西欧の技術を学んだ青年将校は、政治に積極的に参加することを望んだからです。結果、アブドゥル=ハミトは失脚、さらに1912年からの2次にわたるバルカン戦争と第1次世界大戦で、バルカンの領土のほとんどを失います。第1次世界大戦の終結後、オスマン帝国領は戦勝国に分割されました。
南フィリピンではアメリカ、インドネシアではオランダに、中央アジアではロシア、いずれもイスラム勢力は欧米勢力に屈辱的な従属を強いられ、曲がりなりにも独立していたイスラム国家はアフガニスタン、イラン、オスマン帝国だけとなります。
第1次世界大戦後、オスマン帝国は講和条約に抵抗し、セーブル条約を改変させ(ローザンヌ条約)一部の失地を回復します。これを指導したケマル=アタチュルクは、スルタン制を廃しトルコ共和国を樹立、(カリフ制度も廃止して)世俗国家を目指した。
彼は、女性のヴェール廃止など、イスラムの習俗の廃止(アラビア文字を止めてアルファペットの採用)といった改革を行います。彼の改革は確かに民族主義的感覚を育てますが、一方でイスラム教への愛着が社会には存在しました。ただし、近代産業の育成には、ほとんど成果を上げることができませんでした(これは現代も多くのイスラム国家が抱える問題でもある)。
このようなジレンマは、イランとサウジアラビアではさらに深刻でした。イランで、カージャール朝に代わり、パフレヴィー朝を建てたレザー=パフレヴィーの政策は、ケマル=パシャと似た方針を実行します。しかし国王権力は脆弱で、イスラム信仰がより強かったため、近代化は遅々として進まず、アフガニスタンでも事態は同様でした。
世俗主義で西欧に対抗するイスラム新進国
サウード家は19世紀以来のワッハーブ派を信奉していましたが、イブン=サウードは、ワッハーブ派の理念を実現するのではなく、自分の支配下にある諸都市の間の道路などを整備し、サウード家の中央集権体制を固めます。アラビア半島の地下に眠る膨大な石油がもたらす利益は、ワッハーブ派の理念を消滅させたのです。
イスラムの世俗主義はエジプト、シリア、イラクにおいても急速に拡大します。
この運動は、第1次世界大戦後、中東を二分していたイギリスとフランスに対する独立運動という形を取り、イラクは1932年に形式上は独立を達成した。しかしアラブの真の意昧での独立は第2次世界大戦後になります。
1850年から1945年まで、イスラム世界の人々は政治的にも経済的にも状況を変えることができません。西欧の技術や知識に付きまとう思想から、人々はイスラム教の原理や思想を隔離したのです。このため、この問に、イスラム世界から世界的に名を上げる人は一人も出ていません。経済面でも、近代的産業はイスラム世界に根を下ろすことができません。新しい事業や技術改良は、外国人の手によるものでした。
しかしそれでもイスラム社会は、ムハンマドヘの信仰は生きた信仰であり続け、その宗教儀礼は、極めて西欧化された信者の間でも遵守されます。すなわち、20世紀のアフリカ中央部や西部地域では、イスラム教への改宗が続いていたのです。
イスラム世界の新しい動き
1979年のイラン革命は、マスコミが宗教的扇動を行った良い例です。ホメイニのシャー政府弾劾の演説はひそかに放送され、民衆の支持を集め、権力を掌握します。彼は、1989年まで政権を維持し、国内ではシーア派の律法をまもらせ、対外的にはアメリカ合衆国との戦いを呼び掛けました。
イスラム教国は他の諸国と比べ、ムハンマドのイスラム教創始以来、宗教と政治は強く結びついていました。そしてこの状況が、少数派のイスラム過激派(ここの段階では、パレスチナ解放機構のことか?)の存在を生み出す一因ともなります。
彼らはパレスチナ人と結び、イスラエルヘのテロを行い、それ以外にも矛先を向けます。この混乱は外交の同様にも現れました。1973年(第4次中東戦争)以降、アメリカは、イスラエルとエジプトに武器を供与し、両国の和平実現に貢献します。
さらにイスラエルとパレスチナ解放機構との間にも、不安定ながら協定を結ばせます(1993~94)。しかし永きの平和は実現しません。
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