『ラトヴィアを知るための47章』より EU加盟国としてのラトヴィア 冷戦終結後の歩み
国内基盤の整備とEU、NATO加盟への模索
9月6日、ソ連国家評議会による国家承認に続いて、日本をはじめとして国家承認が続き、1991年9月17日には国際連合の加盟を果たした。ソ連の崩壊は、同年の12月である。
独立を「回復」したものの、実際には、旧ソ連軍(ロシア軍)が、国内に駐留したままであった。このロシア軍が撤退を終えたのは1994年末であったが、ソ連の早期哨戒レーダー基地が置かれていたスクルンダから完全にロシア軍が完全に撤退するのは、ようやく1999年になってであった。欧州安全保障協力会議(CSCE)派遣団の監視下で、それの解体が最終的に確認されている。この撤退問題の解決に際しても、バルト三国は協力してその要求をアピールした。
1993年にようやく実施にこぎつけた議会(セィマ)選挙であるが、多くのロシア語系住民が選挙権をもたず、選挙に勝利した中道穏健派の「ラトヴィアの道」は、農民同盟との連立で組閣した。単独政権をもてない不安定な政治状態は、以後も繰り返される。加えて、総人口のおよそ3分の1を占めるロシア語系住民の国籍取得の問題も、簡単に解決されるものではなかった。
この戦間期独立時代から数えて第五次となるセイマによって選出され第5代大統領として就任したグンティス・ウルマニスの祖父と、ラトヴィアの初代首相で戦間期最後と位置づけられている第4代大統領であったカーリス・ウルマニスは従兄弟の間柄である。1939年リーガ生まれのグンティスは、幼少期、追放された両親とともにシペリアに暮らした経験をもっていた。続く第6代大統領はヴィッチエ=フライベルガで、彼女もリーガ生まれであるが亡命した両親とともにドイツ、モロッコを経て、カナダヘ移住、長くモントリオール大学教授であった。この二人のような経歴は、多くのラトヴィア人が共有する経験でもあった。
EU、NATOへの加盟と国内の課題
「ヨーロッパヘの回帰」を目指したラトヴィアは、市場経済への移行のためにIMFからの経済援助を得て、急速な経済改革を進めた。ロシアヘの過度な輸出入の依存からは脱したものの、エネルギーは、ほとんどをロシアに負っている状態である。1993年には、独自通貨ラッツを導入した。1993年に設立された最大の商業銀行バルティヤ銀行は、急速に拡大したが、1995年には破産、銀行危機をもたらした。1998年のロシアの金融危機や2008年にリーマンショックでも大きな影響を被り、予定より遅れた2014年1月1日からユーロを導入した。
EU、NATO加盟に向けての歩みは、概ねエストニア、リトアニアとともに歩むものであった。1994年2月には、NATOとの「平和のためのパートナーシップ」を締結、1995年1月にはEUと自由貿易協定を調印、同6月にはEUとの準協定である欧州協定に調印、1998年1月にはアメリカと「パートナーシップ憲章」に調印、2004年3月にNATO加盟、同5月1日にEUに加盟、これは、EUの第5次拡大として10か国が加盟した。いわゆるEUの東方拡大によって、バルト三国はロシアとEUとの境界の役割を担うことになった。2007年12月には、シェングン協定加盟国となった。これ以降、日本からヨーロッパのシェングン協定加盟国に最初に入国した国での通関手続きにより、ラトヴィアにも入国できるようになった。
EUやNATOへの加盟交渉のプロセスにおいて、国内政治の不安定、社会、経済、環境などで様々な問題が浮上もしてきた。これらの問題は、後述の章で言及されるので、ここでは詳細については述べない。
しかしながら、EU・NATO加盟後、これまで以上に重要な課題となっているロシアとの関係については簡単に触れておきたい。ロシアとの国境画定条約の締結までには時間を要した。ロシアとの関係は、1993年にロシア軍(旧ソ連軍)が撤退し、国境の画定に向けての交渉が進められてきたが、その条約の調印には時間を要した。2007年3月に両国の首相が国境条約にようやく調印、12月に批准書が交換され、国境は画定された。
EU加盟をめぐる交渉のプロセスで大きな課題となっていたのが、ロシア語系住民の問題であった。この前章でも触れたが、それは、ソ連時代の過去の負の遺産が大きいだろう。実際、2014年初めの統計では、住民の61・4%がラトヴィア人、26%がロシア人、3・4%がベラルーシ人、2・3%がウクライナ人であり、首都リーガではラトヴィア人は45・7%と半数には達しておらず、ロシア人が38・3%、ペラルーシ人4%、ウクライナ人3・5%とロシア語系住民がラトヴィア人の割合と措抗している状態である。一方、同時期の統計で国籍取得者をみると、ロシア語系住民ではかなりの割合で、ラトヴィア国籍を取得していないことがわかる。その割合は、ロシア人では、32・2%、ウクライナ人では53・5%、ベラルーシ人では52・5%にも上っていたが、年々少しずつその割合は減少してきてはいる。
新生ラトヴィアの象徴として独立回復後、早くから計画されていたのが国立図書館の建設であった。「灯の城」として2014年に開館したラトヴィア国立図書館の建設計画の構想は、独立の「回復」後まもなく立ち上がった。20年以上も待ち望まれていたこの建物は、旧市街と向かい合うダウガヴァ河の対岸で目を引く。この期間、何度も訪れた金融危機は、建物の完成を遅らせていった。これは、これまで市内に点在していた国立図書館を一つの建物の中に設置するというものであった。
ラトヴィア国立図書館は、そもそも、1918年の独立宣言後の1919年に設立されたものであった。現在は、ラトヴィア大学の大学図書館に属しているミシニュシュ図書館を、ライブラリアンのヤーニス・ミシンシュ(1862~1945年)が、1885年に故郷に私的公共図書館として開設したことが始まりである。彼と19世紀後半のラトヴィア人の民族覚醒運動のリーダーの一人であるクリシュヤーニス・ヴァルデマールス(1825~1891年)と共に、ラトヴィアで出版された書物、ラトヴィア語で書かれた書物、ラトヴィアやラトヴィア人について著わされた書物等を意欲的に収集していったのである。かれが、初代のラトヴィア国立図書館の館長となった。彼が集めた書物は、現在でも大変貴重なラトヴィアの歴史的、文化的、さらには、民族のアイデンティティとしての財産となっている。
このアイディアは、新しい国立図書館に現代的な要素を取り込みながら伝えられている。
ラトヴィア人にとって民族的な象徴としての「灯の城」への図書の移送は、市内に散在していた図書館から有志、特に学校の生徒たちが、新しい図書館まで並び、手から手へと渡しながら図書を移動させるという象徴的な行事が実施された。このことからも、この図書館が単なる新建物としての図書館以上の大きな意味をラトヴィア人にとってもたらしたことがわかるだろう。また、EUの議長国としてのラトヴィアでの行事が多くここで開催されることもラトヴィアという国家にとっての国立図書館の重要性を示している。
国内基盤の整備とEU、NATO加盟への模索
9月6日、ソ連国家評議会による国家承認に続いて、日本をはじめとして国家承認が続き、1991年9月17日には国際連合の加盟を果たした。ソ連の崩壊は、同年の12月である。
独立を「回復」したものの、実際には、旧ソ連軍(ロシア軍)が、国内に駐留したままであった。このロシア軍が撤退を終えたのは1994年末であったが、ソ連の早期哨戒レーダー基地が置かれていたスクルンダから完全にロシア軍が完全に撤退するのは、ようやく1999年になってであった。欧州安全保障協力会議(CSCE)派遣団の監視下で、それの解体が最終的に確認されている。この撤退問題の解決に際しても、バルト三国は協力してその要求をアピールした。
1993年にようやく実施にこぎつけた議会(セィマ)選挙であるが、多くのロシア語系住民が選挙権をもたず、選挙に勝利した中道穏健派の「ラトヴィアの道」は、農民同盟との連立で組閣した。単独政権をもてない不安定な政治状態は、以後も繰り返される。加えて、総人口のおよそ3分の1を占めるロシア語系住民の国籍取得の問題も、簡単に解決されるものではなかった。
この戦間期独立時代から数えて第五次となるセイマによって選出され第5代大統領として就任したグンティス・ウルマニスの祖父と、ラトヴィアの初代首相で戦間期最後と位置づけられている第4代大統領であったカーリス・ウルマニスは従兄弟の間柄である。1939年リーガ生まれのグンティスは、幼少期、追放された両親とともにシペリアに暮らした経験をもっていた。続く第6代大統領はヴィッチエ=フライベルガで、彼女もリーガ生まれであるが亡命した両親とともにドイツ、モロッコを経て、カナダヘ移住、長くモントリオール大学教授であった。この二人のような経歴は、多くのラトヴィア人が共有する経験でもあった。
EU、NATOへの加盟と国内の課題
「ヨーロッパヘの回帰」を目指したラトヴィアは、市場経済への移行のためにIMFからの経済援助を得て、急速な経済改革を進めた。ロシアヘの過度な輸出入の依存からは脱したものの、エネルギーは、ほとんどをロシアに負っている状態である。1993年には、独自通貨ラッツを導入した。1993年に設立された最大の商業銀行バルティヤ銀行は、急速に拡大したが、1995年には破産、銀行危機をもたらした。1998年のロシアの金融危機や2008年にリーマンショックでも大きな影響を被り、予定より遅れた2014年1月1日からユーロを導入した。
EU、NATO加盟に向けての歩みは、概ねエストニア、リトアニアとともに歩むものであった。1994年2月には、NATOとの「平和のためのパートナーシップ」を締結、1995年1月にはEUと自由貿易協定を調印、同6月にはEUとの準協定である欧州協定に調印、1998年1月にはアメリカと「パートナーシップ憲章」に調印、2004年3月にNATO加盟、同5月1日にEUに加盟、これは、EUの第5次拡大として10か国が加盟した。いわゆるEUの東方拡大によって、バルト三国はロシアとEUとの境界の役割を担うことになった。2007年12月には、シェングン協定加盟国となった。これ以降、日本からヨーロッパのシェングン協定加盟国に最初に入国した国での通関手続きにより、ラトヴィアにも入国できるようになった。
EUやNATOへの加盟交渉のプロセスにおいて、国内政治の不安定、社会、経済、環境などで様々な問題が浮上もしてきた。これらの問題は、後述の章で言及されるので、ここでは詳細については述べない。
しかしながら、EU・NATO加盟後、これまで以上に重要な課題となっているロシアとの関係については簡単に触れておきたい。ロシアとの国境画定条約の締結までには時間を要した。ロシアとの関係は、1993年にロシア軍(旧ソ連軍)が撤退し、国境の画定に向けての交渉が進められてきたが、その条約の調印には時間を要した。2007年3月に両国の首相が国境条約にようやく調印、12月に批准書が交換され、国境は画定された。
EU加盟をめぐる交渉のプロセスで大きな課題となっていたのが、ロシア語系住民の問題であった。この前章でも触れたが、それは、ソ連時代の過去の負の遺産が大きいだろう。実際、2014年初めの統計では、住民の61・4%がラトヴィア人、26%がロシア人、3・4%がベラルーシ人、2・3%がウクライナ人であり、首都リーガではラトヴィア人は45・7%と半数には達しておらず、ロシア人が38・3%、ペラルーシ人4%、ウクライナ人3・5%とロシア語系住民がラトヴィア人の割合と措抗している状態である。一方、同時期の統計で国籍取得者をみると、ロシア語系住民ではかなりの割合で、ラトヴィア国籍を取得していないことがわかる。その割合は、ロシア人では、32・2%、ウクライナ人では53・5%、ベラルーシ人では52・5%にも上っていたが、年々少しずつその割合は減少してきてはいる。
新生ラトヴィアの象徴として独立回復後、早くから計画されていたのが国立図書館の建設であった。「灯の城」として2014年に開館したラトヴィア国立図書館の建設計画の構想は、独立の「回復」後まもなく立ち上がった。20年以上も待ち望まれていたこの建物は、旧市街と向かい合うダウガヴァ河の対岸で目を引く。この期間、何度も訪れた金融危機は、建物の完成を遅らせていった。これは、これまで市内に点在していた国立図書館を一つの建物の中に設置するというものであった。
ラトヴィア国立図書館は、そもそも、1918年の独立宣言後の1919年に設立されたものであった。現在は、ラトヴィア大学の大学図書館に属しているミシニュシュ図書館を、ライブラリアンのヤーニス・ミシンシュ(1862~1945年)が、1885年に故郷に私的公共図書館として開設したことが始まりである。彼と19世紀後半のラトヴィア人の民族覚醒運動のリーダーの一人であるクリシュヤーニス・ヴァルデマールス(1825~1891年)と共に、ラトヴィアで出版された書物、ラトヴィア語で書かれた書物、ラトヴィアやラトヴィア人について著わされた書物等を意欲的に収集していったのである。かれが、初代のラトヴィア国立図書館の館長となった。彼が集めた書物は、現在でも大変貴重なラトヴィアの歴史的、文化的、さらには、民族のアイデンティティとしての財産となっている。
このアイディアは、新しい国立図書館に現代的な要素を取り込みながら伝えられている。
ラトヴィア人にとって民族的な象徴としての「灯の城」への図書の移送は、市内に散在していた図書館から有志、特に学校の生徒たちが、新しい図書館まで並び、手から手へと渡しながら図書を移動させるという象徴的な行事が実施された。このことからも、この図書館が単なる新建物としての図書館以上の大きな意味をラトヴィア人にとってもたらしたことがわかるだろう。また、EUの議長国としてのラトヴィアでの行事が多くここで開催されることもラトヴィアという国家にとっての国立図書館の重要性を示している。