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英国の超国家EUからの離脱雑感

英国の超国家EUからの離脱雑感

 なぜ、EUは支配のための管理がメインになったのか。元々のThink Globally, Act Locallyに戻るべきでしょう。英国のEU離脱は超国家のカタチを見極めるために必要なことだと思う。感情だけで走った行動がどういう結果を導くのか。

 超国家へのグローバル化は避けられない。それをどういうカタチにするのか。あくまでも分化から統合を考える。統合を急ぎすぎると巻き戻しが起こる。

EUは出直し

 国民国家と超国家、その間の国家と都市、様々な関係

 国民の総和でない国家は都市単位で離れていく。また、スコットランドのように民族で離れていく。それを超国家でどう求めていくのか。最後に残るのは超国家を国民の関係である。これが未唯空間での仮説です。

EUの理念はThink Globally, Act Locally

 EUの官僚主義。当初からの理念の「Think Globally, Act Locally」に戻り、環境社会に挑戦していかないと。EUが超国家になるためには何が必要か、が問われている。統合よりも分化、その前提の個人の覚醒を待つしかないのか。

タイミング良く『帰ってきたヒトラー』

 『帰ってきたヒトラー』を伏見ミリオン座での上映がなかったが、満席が増えたから、急遽、上映館が増えた。7月1日に観に行きましょう。英国EU離脱でさらに関心が高まっている。冗談が知らないうちに現実になる時代。
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キンドルオアシス到着

キンドルオアシス

 4月に注文したけど、色が特殊と言うことで、8月納期だったが、繰り上がって、アマゾンから今日。送ってきた。ヤマトの宅配が何時に来るかわからないので出掛けられなかった。奥さんに見つかるとやばいので。

 キンドルオアシスがズボンのポケットに入った。ここまで小さくなったんだ。軽くなったんだ。なぜ、こういうモノがソニーから出ないのか。

 今度のキンドル8600円のも重さは変わらないです。代替機として、あれを持てばいいです。オアシスは使いこなします。一応、最上位機として、これを押さえておきましょう。何しろ、8台目ですから。ケースと一緒だと楽しいです。

 無線を切って、これだけで、本読みに出掛けましょう。読んだモノは削除します。日本のために、本を読む文化を作るのであれば、こういうモノをカタチにしていかないと行けない。その上でのクラウドを構えて、安心して本が読めるようにする。

 私のコンテンツに対して、ズレを起こす現象は相変わらずです。たぶん、現象に気づいていないのでしょう。買われたコンテンツだけで検証しているのだろう。

コンテンツを活かす力

 日本の文化がコンテンツを活かす力を持っていないから、アメリカに負けるんです。拘った人間が勝てる文化を創り上げる。

 車でも結局、ハードに固執して、ソフトが遅れてしまった。

コスト・パフォーマンス

 キンドルのカバーだけでも7000円した。オリガミよりもこっちの方がはるかに軽快です。色に拘って良かった。黒ではしっくりこなかった。

 ページ送りがボタンで出来るので思考が邪魔されない。バッテリー付きカバーは爽快です。今の日本メーカーでは無理ですね。コンテンツを理解していない。

FBに参加?している人への感想

 何もないように、何事もなかったように。そうしていると、急激な変化を求められる。

15thシングル

 それはそうと今日ぐらいに15thシングルの曲名とMVが出る予感。国民的行進曲を期待します。
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南仏の観光地フレジュスにFNのルペン

『第一次世界大戦を考える』より

植民地帝国だったフランスには、植民地にまつわる歴史が深く刻まれた街がいくつかある。数年前に、その一つである南仏のフレジュスを訪れる機会があった。地中海に面し、ローマ時代の遺跡もある風光明媚な観光地だが、第一次世界大戦期の一九一五年には、動員されたアフリカ兵とインドシナ兵のための兵舎が設営された。炎熱の地からくる彼らが前線に向かう前に、ヨーロッパの気候に体を慣らすためである。

軍事訓練も十分でなかった植民地兵は、当初から苛酷な戦闘を強いられた。しかも厳しい冬の寒さには、南仏で体を慣らしたはすなのに、犠牲になる者が続出した。想定を超える事態に衝撃を受けた軍首脳部は、アフリカ兵を冬の間は戦場には送らすに、温暖な場所で過ごさせる決定をした。すでに兵舎のあるフレジュスも、そのような場として選ばれて、それ以降、冬を越す兵士たちも次々と受け入れた。この地に住んでいた女流画家リュシー・クテュリエのように、フランス語の教師となって彼らと親交を深め、手記を残した者もいる(平野千果子『アフリカを活用する--フランス植民地からみた第一次世界大戦』人文書院、二○一四年参照)。

今日、兵舎跡には海軍博物館が開設され、一般向けの展示もなされており、当時の様子の一端を窺い知ることができる。またこの地には、より直接的な植民地兵の名残りがある。戦争中の一九一七年に建てられた、インドシナ兵のためのパゴダはその一つである。同じ敷地内には墓地もあり、今日にいたるまでインドシナ出身の人びとによって管理、維持されている。

大戦終結の後には、赤土色のモスクも建設された。戦後もフランスに残留するアフジカ兵がおり、彼らのホームシックを和らげるために、パゴダを先例として一九三〇年に完成したものである。このモスクは現在のジェンネのモスタを模しているフレジュス観光局が発行するパンフットによれば、ジェンネのモスタは練り土で黄色がかっているが、フレジュスのものは南仏の大地になじむよう、コンクリート造りの上に赤色が塗布されたという。それでもローマ遺跡の街フレジュスの赤いモスクには、奇妙な感慨をおぼえさせられたここに集って礼拝をしていたはずのアフリカ兵たちの姿を、思い浮かべることができるだろうか。

しかし、パゴダやモスクが、植民地時代の記憶を象徴するものとなっているわけでは必ずしもない。時代を下ると、この地には「インドシナにおける戦争(第二次世界大戦と、その後のインドシナ戦争)」のメモリアルも作られた。直径が百十メートルもある、巨大な円形のものである。インドシナでの戦争犠牲者は少しずつ本国に送還されており、また残された者の墓所の管理はベトナム政府が担ってきた。いずれも徐々に困難が増したため、ベトナム政府がフランス政府に何度か働きかけた結果、一九八六年に議定書が結ばれて、フランス側が引き取ることとなりだ。フレジュスはその受入地として名乗り出た。第一次世界大戦時から植民地兵の駐屯地があった街として、それにふさわしいとの判断である。

注意したいのは、この巨大なメモリアルが、フランスが海外植民地で「健闘」したことを「讃える」性質をもっていることである。植民地史にまつわる建造物も、それぞれが「記憶の場」としてもつ意味が同じでないのは、言うまでもないだろう。ちなみに二百家族ほどは、遺骸の返還を拒否している。戦場で死んだ息子たちが、自ら守ろうとした人びとの間にとどまることを望んでいるだろう、との考えからだという。

インドシナ戦争(一九四六-五四年)は、一九四九年に中国で共産党政権が成立したこともあり、冷戦に全面的に巻き込まれた。フランス政府は、植民地主義戦争を戦っているのではなく、インドシナ人民のために共産主義と戦っているのだという宣伝を強化する。戦争終結から四十年近くを経て一九九一年にソ連が崩壊したことは、あたかもそのようなフランスの戦いが正しかったと証明したかのような展開になってしまった。過去を見つめなおす作業が、一筋縄ではいかない一例である。

第一次世界大戦開戦百周年に当たる二〇一四年、フレジュスが別の意味で注目を浴びる事態が起きた。地中海をはさんでアフリカ大陸に向き合う南仏には、非ヨーロッパ系の人口が多い。それへの忌避感をてこに、極右政党の国民戦線(FN)は従来からこの地で支持を広げていた。それがこの年三月の市町村議会選挙で、若干二十六歳のFNの市長が誕生したのだ(南仏を中心に十一の都市がFNの市長を輩出した)。続く五月のヨーロッパ議会選挙でもFNは躍進し、フランスで第一党にまでなった。フレジュスを含むフランス南東部の選挙区からは、FNの創設者ジャン=マリ・ルペンが継続して選出されたルペンは一九八四年以来、反ユダヤ主義的発言によって議員資格を剥奪されていた一時期を除いて、ヨーロッパ議会議員)。

ヨーロッパ議会選挙では比例代表制だが、ルペン率いるFNの名簿はフレジュスでは四十パーセント以上を得票している。高い棄権率を勘案しても、フレジュスにFNの市長が誕生したことも合わせ、結果としてこの年の二つの選挙は、フレジュスがFNの大きな支持基盤であることを、改めて認識させたと言ってよいだろう。

こうした選挙結果は、大戦期の植民地兵とは何ら関係していないし、ここから植民地支配の歴史に向き合う姿勢を云々するつもりは毛頭ない。そもそも支配の記憶をとう継承するのかは困難な課題である。南仏には、フランスのために戦ったアフジカ兵の記憶を掘り起こそうと活動する市民団体があることも、記しておこう。とはいえ、フランス社会で排除の対象となる人びとの出自は、戦争を戦った兵士たちの出自に少なからず重なっている。大戦当時を振り返ると、二〇一四年のフレジュスにみられた光景には、複雑な感を禁じ得ないのも確かである。

ちなみにルペンは、選挙運動の過程でパゴダも訪れている。インターネット上には、パゴダの僧侶と肩を組むルペンの写真も掲載されていた。ルペンのょうな立場のものが、すべての非ヨーロッパ系の人を排除しているわけではないし、また非ヨーロッパ系の人がすべてFNのような政党に敵対しているのでもない。非ヨーロッパ系の人口が増えたことは、単純な二項対立の見方にも、注意を促している。

かつてこの街で乗ったタクシーの運転手は、筆者にFNに投票していることをほのめかした。FNの支持率が高まっている今なら、もっと自信をもってFNに投票している、と語っただろうか。パゴダやモスクに快く案内してはくれたものの、フレジュスには観るべきものがもっと他にあると、やや不満げに強調したのを思い出す。その意味でも、ぽつんと建つ赤いモスクを前に奇妙な感慨をおぼえたことが、折に触れて蘇るのである。
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OCR化した5冊

『ラスト・ライティングス』

 62 「ぴったりの言葉」という体験。これは、「意味すること」の体験と同じことなのか。
 66 それを夢と呼べ!
 68 それを夢と呼べ。それは何も変えはしない。
 110 不治の病いは規則であり、〔規則の〕例外ではない。
 150 私がこのノートでこれほど多くの疑問文を用いているのは、偶然ではない。
 184 しかし、私の痛みは隠されている、と言うのは正しいだろうか。
 185 たとえば、未来は隠されているのか。
 190 ライオンがしゃべれるとしても、我々にはライオンが理解できないだろう。
 194 このようにして、彼は私にとって謎でなくなるかもしれない。
 201 人々が皆同じ表情であったなら、それでもう我々は彼らに順応できないだろう。
 217 我々はどうやってこの概念に到達したのか。それは本来どうでもいいことである。
 260 しかし、ここで我々は、自分たちの概念についての誤った像をこしらえている。
 261 「振り」という概念は実践的な目的に寄与する。
 263 振りをしているケースがどのように見えるかは、たとえば演劇によって示される。
 273 意味にまつわるこうした概念には、かなりの不確定性が存在する。
 283 (君はとにかく、いま用いている言語から出発しなければならない。)
 284 使い方を区別することには様々な目的がありうる。
 289 恰いかのすべてが--と君は言いたいのだ--意味とイコールであるわけではない。
 291 意味、機能、目的、有用性--互いに関連した概念。
 295 自分たちの言語内で気まぐれな言葉を用いる人々に私が出会うとする。
 329 気まぐれなものが何であるかは、人間本性が決定する。
 395 私はいま、文法上の区別を探している。

『自由主義は戦争を止められるのか』

 行き詰まる寛容と自律

 英米協調論の挫折

 「大東亜共栄圏」への批判

 「大東亜共栄圏」への対応

 「大東亜共栄圏」の分業論

 批判しながら支える

 言論弾圧との攻防


 「国に争臣無ければ危し」

 戦後を構想する

 戦後の出発

『中国近代の思想文化史』

 中華人民共和国への展望

 清末民国を通して

 社会進化論と「中国」意識

 立憲志向とその批判の流れから

 倫理革命・汎労働主義・ジェンダー・整風運動

 中華人民共和国

 「米ソ冷戦」構造下で出発した建国事業

 思想文化統制、農業の集団化と大躍進、中ソ関係の悪化

 簡体字・ピンイン・普通話

 毛沢東と文化大革命

 「天の半分を支える」--ジェンダー

 文革の終焉と「改革開放」政策

 天安門事件とその後の高度市場経済発展

 鄧小平の南巡講話と市場経済の高速発展

『ラトヴィアを知るための47章』

 主要都市ガイド

 リーガ案内

 ロシア帝国とラトヴィア人地域

 ラトヴィア人の強制移住

 ラトヴィア社会

 EU加盟国としてのラトヴィア

 冷戦終結後の歩み

『第一次世界大戦を考える』

 民族自決のうねりと新たな火種

 「民主主義の戦争の矛盾

 世界性・総体性・持続性

 南仏の観光地 フレヅュス

 戦間期を生きた哲学者の問い
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キンドルオアシスの配送状況

EU離脱後

 イギリスはEUになじまない。ラトヴィアにとって、EUとNATOは欠かせない。


 これでアメリカは孤立主義を避けることになる。孤立することの怖さを米国国民は感じるから。

帰ってきたヒトラー

 伏見ミリオン座で「帰ってきたヒトラー」を上映中。なんというタイミング。愛さん経由で観に行こう。

オアシスの配送状況

 オアシスの配送状況は、今日、市川の配送センターに出荷されたので、到着は明日です。ネットで時間を確認しておきましょう。何しろ、奥さんにばれると、また、文句を言われる。何しろ、「8台目のキンドル」だから。

 『本棚システム』を本格的に起動させましょう。
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戦間期を生きた哲学者の問い「現実性のない平和主義」

『第一次世界大戦を考える』より

 現在から過去を振り返るという意味の「歴史」において、「もしも・・・・・・であったら」と論じたくなる誘惑に対しては、確かに慎重でなければならない。だが二方で、その歴史の渦中を実際に生きている人間たちは、絶え間なく「もしも・・・・・・なら」と考えたり、願ったり、あるいは恐れたりしているということも、また事実ではないだろうか。その願いや恐れが、やがてどんな運命に見舞われたか、私たちは知っている(知るために学ぶことができる)。しかし、「歴史」を考えようとする営みが私たちに与えてくれる様々な視界には、いったんその運命を方法論的に棚あげにして、まだ開かれていた「未来」に向かってそれら一つ一つの思考や行為が何を求めようとしていたのかを眺める--もちろんそれは限定的なフィクションでしかないが--、そんな景色も必ず含まれているぱすだ。

 ようやく世界大戦の悪夢が終わったと思った二十年後に、別の、もっと底のない悪夢となる世界大戦が始まることを「知らないで」、考えてみよう。そんな試みをこのところ思い続けているのは、一九三〇年代、四〇年代に起こった数々の決定的な出来事を経て、厳しく「現実性のない」ものだったと裁断されるに至った戦閣期の平和主義の思考について、理解したいからである。

 ハンナ・アーレントは『全体主義の起原』(一九五一年)でこう記した。「たとえば戦後の平和主義のょうな政治的結論は、戦争の体験からではなく、戦争への一般的不安から生じたのだ。現代の戦争の構造への不安に導かれ、その不安に動かされた洞察だったならば、現実性のない平和主義でなく次のような結果をもたらしたはすだ。すなわち、そのもとではもはや人間が生きられないような状態を打破ること、このことを戦争の必要を認める唯一の基準として承認することである」(邦訳第三巻、大久保和郎+大島かおり訳、一九七四年、みすす書房)。

 換言するなら、「現実性を欠いていない平和主義」とは、「ある唯一の戦争の基準を認めることができる平和主義」だということになる。そして彼女は、第一次大戦の「体験」からそのような平和主義を成立させることに、ヨーロッパは確かに失敗したのだと言う。かくして大戦後の「現実性のない平和主義」の無為の目の前で、「もはや人間が生きられないような状態」が実現されうることを我々は体験してしまったではないか、と。

 言うまでもなく、アーレントの著作が大胆であるのは、この「唯一の基準」を断言していることに存する。けれども、この「唯一の基準」--「そのもとではもはや人間が生きられないような状態を打破ること」--ほどに明白でありながら、しかし「体験」ではなく共有することが可能な「定義」として完成されることの困難なものがあるだろうか。その困難の前で立ち尽くす「一般的」なる態度が、決定的に有害でありうる危険は、確かに私たちの現在にとっても無関係なものではない。それゆえにこそ、そこに生じたことがある「無為」 への告発は、それ自体がいまだ解決されていない一つの人間学的事実の証言として、アーレントの決断の後においても、忘れ去られるべきではない。

 恐らくは「戦争の必要を認めることができる平和主義」というものをめぐって襖悩した哲学者に、アーレントと同世代のジョルジュ・カンギレムがいる(カンギレムの方が二年早く、一九〇四年に生まれている)。ミシエル・フーコーの恩師」として最もよく知られる彼は、地方農家の少年として第一次大戦を経験し、戦後のパリのジセで、前線からの帰還兵でもある教師エミール・シャルティエ、つまり哲学者アランの愛弟子となった。

 よく知られた著書『マルス--裁かれた戦争』(一九二一年)に象徴されるょうに、アランは自らの第一次大戦での経験を哲学的に分析し尽した結論として、包括的平和主義、すなわち絶対的な反戦平和主義を提起することになる。そこから三〇年代半ばに向けて、今日から振り返るなら、「戦前」期の国際関係の変転を背景としつつ汎ヨーロッパ的に展開されることになる反戦反ファシズム運動の熱心な支持者として、青年カンギレムは、師アランと行動を共にし続けることとなった。だが、「総統」ヒトラーによるドイツの独裁が確定的となった後、三五年頃を境に、彼は次第にその反戦主義運動から離れ、やがてフランス政府がナチス・ドイッヘの宥和政策を全面的に掲げた四〇年以降は、対独レジスタンスの闘士として激しい戦闘に加わる道を選ぶこととなった。

 このカンギレムの選択は、第一次大戦の折に「ドイツ軍国主義の暴力から共和国の理念と平和を守る戦い」への参戦を選んだ、多くのフランス平和主義知識人たちのそれの反復だったのだろうか。だとすれば、そのカンギレムの眼前にあった、一九一四年にそれらの知識人たちとは全く異なる動機から四十六歳で従軍を志願し、「軍神マルスは腹部ではなく胸部に住みついている」(アラン『裁かれた戦争』白井成雄訳)という独自の「戦争する人間」の哲学を前線での「体験」から持ち帰ったアランは、しかし「現実」との対峙にやはり「失敗」したのだと理解するべきなのだろうか。アランの、戦争が「避け難い未来」であったという決定論を拒絶し、「意志すること」を呼びかける、「もし戦争に否と言うなら、それは断固として否なのだ」(同)という哲学は、ごのような「現実」をも生み出すことはできない思考に過ぎなかったのだろうか。

 カンギレムは、レジスタンスの仲間の多くを失いながら、生き残った身として戦後のフランスにおける哲学教育の中心的役割を担い、前述のようにフーコーやドゥルーズといった二十世紀の重要な一世代の哲学者たちに影響を与える存在となった。晩年には、「総じて私は自分が十分に消化できていないと思うものについては、多く喋らないのです」といった発言もしている、多くの弟子たちによって「厳格」、「慎重」の語で形容されているこの哲学者は、アランの平和主義と自らの青年期の思考との関わり、特にその具体的な反戦運動からの離脱と対独闘争への参加という行為について、生前多くを語ることはしなかった。そして、その行為はいわばある種のブラックボックスとなってしまった。

 しかし、このブラックボックスの内奥を覗くための手がかりが全くないわけではない。たとえば、一九三三年、ドイツ軍国主義に対して戦争は避けられないと主張する人々に抗して、まさにアランの腹心の一人として包括的平和主義を主張しているさなかに、二十九才のカンギレムがエッセイに記していた次のような言葉。「ならば、ひとが自らの仕掛ける戦争を正当化するのは、殆どすべての場合、敵における革命の不在である。そこから次のように結論できるのではないか? 反抗への断固たる意志というものは、平和主義者にとっても、彼らの説と両立可能なものであると。革命は戦争ではない。革命とは、主戦論者のプロパガンダの議論においてすら、戦争の反対物である」。

 「平和主義と革命」と題されたこのエッセイの結論部では、「戦争に対する反逆という約束と武器が与えられていない人民には平和はない」とも述べられている。やがてカンギレムが「闘士」となるのは、先にも述べた通り、彼の属する国家であるフランスのヴィシー政権が、ナチス・ドイツと歩みを揃えることが確定してからである。ならば「反逆/革命」というキーワードは、「平和主義」と「戦闘」という二つの要請の狭間に置かれていた場面での、彼の行為を説明する一つの糸口を与えてくれるものとも読める。

 但し、繰り返すなら、生前のカンギレム自身は、この糸口を使って自らの行為を声高に説明したことはなかった。彼の行為は「経験」としては確認されるが、何らかの「定義」として残されることが叶わなかったのかもしれない。

 第二次大戦後、カンギレムは同時代人たちにょるアラン批判に反論し続け、一九五一年のアランの死に際しては、その枕元にありた。五二年の追悼論文「アランにおける芸術的創造に関する考察」の末尾には、「我々は、アランは真正なる哲学者であると考える」という一文が記された。「芸術的創造」をその本性の一つに備える人間性は、「いまはまだそこにないもの」を生み出すことができるはすだ。カンギレムは、アランの観念論=理想論を、そのような主張として提示している。アランにとってもまた、「意志すること」とは「唯一のこたえ」であった。そして恐らくは、それゆえにこそ、そこには困難があった。いくつも連なる「未曾有」の出来事の渦中で、彼女・彼ら哲学者たちには何が見えたのか。彼らは何を考え、恐れ、願ったのか。その切実さをわすかでも知6たいと思う。なせなら困難があったことが事実として確認できるとしても、それは決して「歴史」にとっての結論ではないはすだからだ。
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「民主主義の戦争」の矛盾 米国の参戦

『第一次世界大戦を考える』より

 第一次大戦開戦から二年八ヵ月を経過した一九一七年四月、アメリカ合衆国が連合国側に立って参戦した。このことは二百万人の大援軍を英仏の西部戦線に供給しただけでなく、この戦争の世界史的な意義を変容させる大きなインパクトを持った。

 第一にアメリカの参戦は、戦争の影響する地理的な範囲を拡大した。「ヨーロッパの戦争」に中立を保ってきたアメリカだが、実はこの間、二つの地域で深刻な国際紛争に関わっていた。ひとつは中米・カリブ海であった。米西戦争(一八九八年)以来、この地域に介入を強めていたアメリカは、現地の人々に民主政を授けるのだと称して。ニカラグアやハイチ、ドミニカに海兵隊を送り、一六年にはメキシコの反米勢力と大規模な地上戦を繰り広げていた。

 もうひとつの係争地域は東アジア(中国)だった。時のウィルソン政権は、中華民国の自立と民主化を基本方針としたが、この領土保全プランは日本の「特殊権益」論といずれ衝突せざるを得なかった。事実、一九一五年の対華二十一ヵ条要求問題にあっては、アメリカはこれに強く反発し、中国をめぐる日米の外交上の熾烈をきわめた。西半球からアジア・太平洋地域にまたがる覇権を築こうとするアメリカの参戦は、この大国の営みと各地の紛争を欧州の大戦に接合し、戦争を字義通りグローバルなものにした。

 第二にアメリカの参戦は、大戦にある種の規範的な性格を植えつけた。ウィルソン大統領は欧州列強の同盟網や力の均衡に基づく旧来の平和論を批判し、多国間の協調を軸とする「民主的な国際秩序」をつくろうとした。国際連盟の創設や民族自決主義の唱導は、そうした戦争目的の具体的表現であった。言うなれば、ここに語られた「理想」は、欧州列強同士の勢力争いの次元を超えてグローバルに展開する戦争に、より普遍的な理解の枠組みを与えるものだった。ただし、理想を旗印にした戦争は、もとより敵国の悪を殲滅するまで終われないという怖さもある。アメリカ参戦後の世界は、容赦なきイデオロギー戦争の時代に突入していったのである。

 このょうに、むき出しの地政学的な権力政治と人類普遍の理想が混在する戦争の様態は、今日に至るまでアメリカが関わった多くの国際紛争に見られるもので、むしろ、「民主的な国際秩序」に宿るこの矛盾こそが現代史の動力源だつたかもしれない。すなわち、第一次大戦後もアメリカはハイチやニカラグアを軍政下に置きつづけ、あるいは、親米の独裁政権を支援した。その結果、この地域が反米ナショナリズムの豊穣な培地となったことは周知のところである。まぺ東アジアでは、多国間合意(九カ国条約)に基づくワシントン体制が発足したが、この新秩序は一九二〇年代中葉に、民族自決(国権回復)を求める中国ナショナリズムが台頭するや、脆くも自壊の道をたどっていく。満洲事変にいたるこの過程の先に次の世界大戦が胎動していたことは言を俟たない。第一次大戦がアメリカ流の理想主義を内包したことは、必ずしも、その後の世界に平和をもたらしたわけではなかった。

 最後に、大戦が惹起した国内問題にも少し触れておこう。戦時下のアメリカは他の交戦国と同様、総力戦体制を敷いた。だが、それは「民主主義の戦争」の大義に反する国家動員にも見えた。特に一九一七年五月の選抜徴兵法には批判があり、奴隷制を禁じた合衆国憲法修正第十三条の言う「意に反した苦役」にあたるとする訴えも起こされた。他方、米政府によれば、徴兵は強制ではなく、自発的な奉仕や義務の感覚を組織するのだという。連邦最高裁もまた市民が軍務に従う相互的義務は憲法の認めるところだと判決したのである(『アーヴァー対合衆国』一九一八年)。

 この修正十三条と同様の身体的自由権の規定は日本国憲法第十八条にもある。今のところ日本で徴兵制を否定する論拠のひとつとなっているが、かつてアメリカでは、市民の「奉仕」は苦役ではないというロジックで、約二百八十万人が徴兵された事実は記憶してよい。
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文革の終焉と「改革開放」政策

『中国近代の思想文化史』より 中華人民共和国への展望

  中華人民共和国への展望

  清末民国を通して

  アヘン戦争後の開港以降、「西洋との遭遇」が急増し、変法運動期ころには新聞雑誌メディアの形成とあいまって「中国」意識が広く形成され始める。ついで革命諸派を孫文が糾合した中国同盟会を中心として、革命か立憲君主制かの論争を経るが、清朝主導の遅々たる立憲準備と革命軍の前のめりの蜂起とのいわば速度の開きで実現した辛亥革命。議論の深化の余裕もなくアジア最初の共和国、中華民国はこうして実現した。急造であるだけに軍閥勢力間の抗争が絶えず、国民革命を経て蒋介石による南京での国民政府が成立して、ようやく政治的統一と「経済建設」の時代を迎える。

  だがまもなくの満洲事変以降、日本の侵略がエスカレートし始め、日中戦争の全面化にいたる。I・Ⅱにおいて、以上のような清末から抗日戦争、さらには「惨勝」後の国共内戦に突入し、中華民国政府の台湾移転にいたるまでの苦難に満ちた道のりを、思想文化の面から駆け足で辿った。一九四九年一〇月一日、北京天安門で「中華人民共和国が成立!」という毛沢東の湖南音の一声が響き渡る様子がラジオ放送され、建国を祝賀する赤刷の『人民日報』が発行された。この年には国家の正式な総合報道機関として新華社も成立、メディアも新たな激動の道のりを伝えることになる。

  社会進化論と「中国」意識

  ここまでの流れで浮かび上がった思想の流れは、一つには西洋との遭遇によって受けた知的刺激、西洋文化の受容という初期グローバル化の過程と無縁ではない。「進化した」存在として西洋という他者を認知し、自ら固定的な「華夷」の弁別から変容をとげた。その方法としては、初期には「中体西用」方式があり、これは長くその後の東西文化併存や調和論のもととなる。やがて改革論者による経典の新たな読み替え、「伝統の創造」による儒学更新の企てがなされる。日清戦争後の康有為や譚嗣同らあたりで一つのピークをなし、「通」「公」「仁」といった概念が使われ、そしてそれはメディアの働きをも示した。

  一九世紀末から強まった列強進出の脅威にむきあい、厳復らにより社会進化論が紹介される。さらに二〇世紀初頭の科挙廃止後からまず日本留学が増えるなかで、「外の目」をより意識し、生存競争で「淘汰」され、「劣敗」民族となることを恐れるというかたちで社会進化論的歴史観をも内在化していく。侵略側の列強とは逆方向からながら、たとえば大阪の人類館事件での「野蛮な先住民と同列に扱うな」という抗議のありかたや「東方・東亜の病夫」論にもそれは確認される。

  他者認識にみあう「中国」意識が明瞭となっていくなかでのナショナリズムの生成にあって、文化的には国民統合のシンボルとして伝説上の黄帝や古代の孔子がことさらに喚起されてきた。さらに日本で議論された種々の学説を吸収したうえで中国の近代知として「編集する知の技法」を磨いた梁啓超は、「漢満」を同じく「黄色人種」とし、そのうえでマジョリティである「漢」人を中心にした「中華民族」の概念化に、楊度ともども寄与する。これは孫文からやがて一九八〇年代の費孝通による多元一体民族論(後述)にまでその継承をみることができる。

  孫文らの「排満」革命論においても社会進化論にたち、漢族の優位性が説かれた。その一方で、列強の侵略に対する反帝国主義も醸成された。章炳麟の場合は、侵略を正当化する社会進化論への批判を仏教や道家の思想をも駆使して行ない、インドなどの被圧迫民族との連帯を説く抵抗的民族主義思想の可能性を亡命者の集まる東京において示した。

  だが中華民国建国に際しては、非「漢」地域をも統合して大幅に版図を拡大していた清の規模を継承するためにこそ、漢を中心とする「中華民族」が必要とされ、そのために「排満」論は革命後に急速に消えゆき、民族統合のためにも康有為提唱の「虚君共和制」などが議論された。

  立憲志向とその批判の流れから

  こうした「中華民族」、国民国家形成の動きとともに憲政が模索された。とりわけ変法の頓挫後に日本に亡命した梁啓超は保皇立憲や「開明専制」を追求する。そこから「梁啓超系」と呼ぶ知識人グループの存在がみてとれた。中華民国政界での政党活動とその挫折を経て、第一次世界大戦で荒廃したヨーロッパヘの旅行以降、梁啓超は東方文化を再評価し、学術へ専念する過程で新儒学にも近づく。一九二九年の梁の死後も梁啓超系による立憲活動などが続いた。

  中華民国で『新青年』が象徴的雑誌メディアとなった五四新文化運動以後、憲政派の主流となったのは胡適を中心に、多くは米英留学組の流れだった。こちらは概ね西洋化論・個人主義・自由主義を唱えた。抗日戦争期、胡適自身は訪米の任を負って不在だったが、そのグループに連なる欧化論者と清末からの梁啓超系人脈とが交錯する流れのなかで憲政要求がされ、それは胡適に近い儲安平や羅隆基らの戦後の公論活動につながる。そして梁啓超系で「国共」中間論を唱えた張東孫らから、さらに梁漱浪らも加わる幅広い政論空間を形成した。近年の研究、ことに日本や欧米では胡適から儲安平らの欧化論的な流れが高く評価されている。

  だがこの流れとかかわり、中国王朝の独裁のありかたに「自由放任の民」を見出していた論者が少なくなかったことも看過できない。たとえばそれを根拠に開明専制(梁啓超)、無政府さもなくば専制(劉師培)、「形を変えた封建」としての代議制反対(章炳麟)などの異なる主張がされた。もともと儒家の究極的理想は「無為にして治まる」ことで、それは『老子』の道家思想にも通じていて、そうした系譜が改めて喚起されているともいえる。

  さらにいえば、そうした喚起は新文化運動期のアナキズム的な社会主義の受容にもつながったであろう。だからこそ陳独秀は老荘思想からくる「中国式の無政府主義」による民衆の噸惰放縦を憎み、ユートピア的なアナキズムの色彩を払拭してボリシェヴィキヘ転じようとした。陳独秀とは挟を分かつ胡適も同様に無政府を批判して「有政府」「好人」政府を構想した。

  だがこの「中国式の無政府主義」は梁漱餌ら郷村建設論者により、むしろ郷村の共同体性にセーフティネット機能を期待する根拠とされ、西欧モデルによる立憲制の導入への批判となった。

  倫理革命・汎労働主義・ジェンダー・整風運動

  新文化運動では古典にみえる三綱五常のような上下・ジェンダー秩序や賤工思想をも厳しく批判し、ロシア革命が刻印された「労工神聖」、汎労働主義コミューンを志向した。古代理想のユートピア「大同」の呼び起こしや読み替えも社会主義理論にとってかわられ、五四新文化運動からうまれたアナキスト的なユートピア実験は間もなく失敗した。

  ジェンダー観点からの無差別、男女平等に与しようとしたのは新文化主流派の胡適ら、そして魯迅兄弟らも同様であった。清末にあっては「国民の母」という生殖主体の観点からジェンダー問題が浮上し、そのためにも女性の身体の近代化として纏足廃止が主張され始める。女性の公共領域での認知、意識はこの新文化以降であった。だがそれも家を継ぐ男子を多く産むという負担の軽減のためには、社会進化論の先に現れた、人間の「数より質」を選別する優生思想を受容することになる。そういう意味ではやはり民族・国家の生殖管理という位相に議論は向きがちで、女性の自由よりは民族・国家観点にたった産児制限が知識人層から意識され始め

  都市の知識人と農民との文化・経済の絶望的なまでの落差に知識人たちが向き合い、「民間、農村へ」という理念を実践するのは、多くが抗日戦争期の避難・移動においてであった。出身階級を、また家族愛を超えた出会いや「同志」感情も体験する。ある意味では新文化運動期の「労工神聖」の果てに共産党の根拠地で「知識人の労農化」が志向されるまでになり、毛沢東は「思想改造」をも求めた。延安での整風運動では自己批判の要請から、心身の拷問を伴う非理性的大衆運動にまでにいたったこのスタイルが、文化大革命の一つの側面になっていったのはたしかであろう。

  同時に戦時生活はとりわけ女性に苦難を強いた。抗日・革命に貢献する新賢妻良母論が蒸し返し的に唱えられ、農村が主の共産党系根拠地でも都市女性のフェミニズムは抑圧された。それどころか日本軍の転戦・占領地域での中国女性への戦時性暴力は凄惨を極め、さまざまな形態でいわゆる慰安婦・慰安所が作られていき、被害者のカムアウトも困難であった。

  「惨勝」した戦後の議論のなかでは、かつて厳復が苦悶した近代化と公平化の問題が、あらためて極めて切実な問題として認識される。戦中の議論を経た戦後構想においても、共産党系だけでなく「中間路線」派においても、資本主義を手放しに発展させて格差を生み出すことに対しては、驚くほど拒否的であったのである。

  中華人民共和国

  以上のように中華民国までをみてくると、抗日戦争で「東亜の巨人が立ち上がった」(沈同衡)あと、国共内戦を経て、「ソ連一辺倒」を選択して成立した中華人民共和国(以後は中国と略称)はどうみえるだろうか。そのさらなる激動の歴史を展望しながら、ごく簡単にみておこう。

  一九四九年九月、臨時憲法としての「中国人民政治協商会議共同綱領」で中国は一律平等な「各民族の友愛が合作する大家庭」と表現された。これまでに議論されてきた中華民族を家族のような親密圏に位置づけようとしている。少数民族については一九五〇年から国家による民族識別工作が始められ、マルクス主義を受容した社会学・人類学者の費孝通も参加した。建国時のモンゴル・回・チペット・ウイグル・苗・瑶・彝・朝鮮・満洲から五三年の第一回全国人口調査で三八に、その後も追加されて五五に確定、漢族をいれて五六民族とされている。

  「米ソ冷戦」構造下で出発した建国事業

  抗日戦・内戦を経たばかりの中国はさらなる戦争に加わる。T九五〇年、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮と略称)と大韓民国(韓国と略称)のあいだで朝鮮戦争(五三年に休戦協定成立)がおこる。韓国軍を米軍が支援すると、中国人民義勇軍を送って北朝鮮を支援したのである。ここでも多くの死傷者をだし、北朝鮮との「血を分けた」関係が始まる。その間、一九五二年、米国主導において中華民国(台湾)と敗戦国日本のあいだで単独講和の日華平和条約が結ばれ、賠償も放棄される。中国は米ソの冷戦構造下で反米帝国主義の「抗米援朝」を掲げながらの建国事業にかかることになる。

  一九五三年の全国協商会議で毛沢東は「過渡期における総路線」にそった国家の工業化と農業・手工業・商業等の社会主義化の遂行を訴えた。延安で毛沢東に面会していた梁漱滉も会議に参加したが、農民に依拠し、農村を根拠地としてきた共産党が大都市に移り、都市に重点をおいて以来、農村は「空虚」となり、労働者と農民の格差が開き、農民の生活はなおも苦しい、と注意を喚起した。だがこれに毛沢東は怒り、「梁漱涙の反動思想」として批判する。

  実際、ソ連の技術・経済援助を頼みとして重工業優先策がとられ、工業化が急速に進み、五六年には総生産額で工業が農業を追いぬく。その「ソ連一辺倒」ぶりは、たとえば呉耘の漫画「人類の幸福のための道を歩む」(『漫画』月刊、五九期、一九五五年)では「ソ連は原子力を平和建設に用いた最初の国、世界で初めて原子力発電所を建設」したと絶賛する。もちろんチェルノブイリ事故などは夢想だにされていない。民国以来の科学信奉の流れを汲んでいた。

  重要都市の計画でも「ソ連に学べ」を国是とし、ソ連の専門家を顧問として招いた。大躍進の年から翌一九五九年にかけて、天安門広場周辺を中心に、人民英雄記念碑・人民大会堂・中国革命博物館・中国歴史博物館などの建国十周年記念の首都十大建築がソ連式の壮大な構えで作られた。政権交代を象徴するそれら建築の配置により、古都のイメージも変貌し始める。人民英雄記念碑の設計者として梁啓超の息子の梁思成の名がとどめられたのは歴史の奇縁だろう。

  思想文化統制、農業の集団化と大躍進、中ソ関係の悪化

  上述の梁漱溟への批判にも現れた思想文化統制は、米軍による凄惨な住民虐殺にも及んだ朝鮮戦争参戦時の戦時体制下で強まる。一九五〇年からの「反革命鎮圧」運動では親友でも家族でも鎮圧に情は無用と叫ばれた。五一年には映画『武訓伝』が階級闘争史観の欠如により、また五四年には兪平伯が『紅楼夢』をリアリズム文学の観点からでなく評価したという理由で批判され、兪平伯が学んだ胡適のプラグマティズム、さらに胡適思想の全面批判にまで発展していったのである。作家の主体性を重視する文芸批評家として晩年の魯迅からも信頼されていた胡風にいたっては、「胡風反革命集団」として断罪され、文革終焉後の七九年まで獄中に繋がれ、多くの人たちも巻き添えになった。

  そこへ知識人問題では粗暴な思想改造のおしつけを見直そうと、一九五六年、共産党から「百花斉放・百家争鳴」が呼びかけられた。だがこれもうたかたの自由であった。

  一九五七年、予想以上の共産党批判の風潮に対して反右派闘争が発動され、粛清へと転じた。文芸関係者、知識人ら五五万人以上が、多くの場合に根拠なく「右派分子」と断定され、本人はもとより、その親族まで大打撃を被った。当時、知識人は全国に五〇〇万人程度だったといい、一割以上もの貴重な人材が難に遇ったことになる。党に期待し、不信も表明した費孝通をはじめ、本書でみてきた多くの知識人たち、王立命、『光明日報』編集長となった儲安平、瀋光旦、作家の丁玲、儒家を階級闘争史観で画一的に断罪することに反対した馮友蘭らも批判された。

  このころ、一九五六年のソ連の党大会でスターリン批判が始まりフルシチョフの平和共存新路線が提唱されると、中国は次第に対ソ批判を強める。一九六〇年のソ連による中国からの技術者一斉引き揚げで対立は決定的になり、六三年から公開非難にいたる。こうした冷戦構造の様相は後述する一九六六年からの文化大革命とは切り離せない。

  先にみた工業重視の一方で、農業でも「合作社」の組織が急がれ、五六年末までにほぼ集団化された。一九五八年、大躍進政策と急速な土地の公有化を背景に人民公社が誕生する。だが農民を中心に千万単位の餓死者をだして大躍進政策は失敗し、六一年には調整政策をとる。このような結果に関して、「理想主義やユートピア主義から専制主義に転化する」「毛沢東の落とし穴」(銭理群『毛沢東と中国』下、三一四頁)だという指摘がある。為政者の「偽りの約束」と点数をあげるための官僚の「偽りの報告」との共犯ともいえよう。

  なお、胡適の自由主義の流れは一九四九年以来、胡適・雷震・殷海光らが創刊した雑誌『自由中国』にその良質の継承がみられ、台湾での国民党の独裁に抗した。五八年に胡適が台湾に居を移すと、またもや反対党の「偶像的」指導者として期待がかけられた。それに応えることはなく、六〇年に蒋介石総統三選に連名で反対したことから雷震は捕らえられ、雑誌は停刊となった。

  簡体字・ピンイン・普通話

  建国と同時に、文字は世界共通の表音文字化に向かうべきだと考え、毛沢東は現行の漢字をもとにした民族形式をとるようにと一九五一年に指示を出した。五四年にはラテン字母(ローマ字)採用にふみきり、「注音字母」に代わるラテン字母方式の原案が作成された。五七年に「ピンイン方案」として批准、五八年に正式公布された。このピンイン方式は、多くの問題点をもちながらも、何よりもアルファベット二六文字で漢字の発音を表記しつくせるという簡便さがあり、共通語の普及に寄与し、電報メディアから近年のコンピューター入力に対応しえた。

  また漢字の簡略化も表音化と平行して推進された。銭玄同らによる簡略化や識字運動の蓄積から、五六年に五一七字、五四の偏旁(へんやつくり)の簡略化を定めた「漢字簡化方案」が正式に公布され、新聞・雑誌・書籍に用いられるようになり、五九年までにさらに整備される。その結果、略字の平均画数はほぼ半減し、その後も改革は続いて、三、四千字といわれる常用漢字の八〇%は簡略化された。

  この文字改革の目的である共通語の普及運動も本格化し、漢語地域の四分の三を占める北方語系で普及度が高い「官話」を新共通語の基礎と定めた。五六年、「官話」をベースに、北方方言から語彙を、現代口語の代表的な著作から文法規範をとった「普通話」が制定された。民国では未達成の共通語は、強力な政権のもと、ようやく形成・定着にむかった。

  毛沢東と文化大革命

  「プロレタリア階級」の大旗を掲げ、反党反社会主義の「学術権威」のブルジョア的な反動の立場を徹底して暴き出し」、「文化領域における指導権を奪取せよ」([五・一六通知]六六年)との指令のもと文化大革命(以下、文革と略称)が発動された。

  労働者と農民、都市と農村、精神労働と肉体労働の「三大差別」の消滅、また欧米中心主義に抗し、非西欧近代の可能性を示すかのような「洋奴(西洋の奴隷)哲学」批判という、いわば人類未達成の大いなる理想を掲げた文革に、当初は「魂にふれる革命」として胸を躍らせた知識人も少なくなかった。自らを「毛沢東時代の産物」とよぶ文学者、銭理群はこう語る。毛沢東思想は中国人の思考・感情・行動・言語のありかたを根本的に変革した。「この毛沢東文化は、長期にわたって、組織的、計画的に伝播がなされ、中国では、民族の集団的無意識、新たな国民性となった」(銭理群『毛沢東と中国』上、二七頁)、と。

  文革中は『毛沢東選集』やその章句の抜粋等を中心とする『毛沢東語録』といった毛沢東著作を除く出版は減り、毛沢東のカリスマ化か進む。毛沢東は「ことば」の政治家として傑出し、「帝国主義と全ての反動派は張り子の虎である」などと中国的キャッチコピー用法が秀逸である。世界の学生運動界も魅了されたほどで、それによって人民に精神的高揚をもたらし、人海作戦で治水事業等では大きな成果を上げ、核兵器や人工衛星など、軍事がらみの国威発揚にかかわる科学技術部門の研究開発でも進展をみせた。冷戦構造下でいわゆる「西側」との外交を絶ち、頼りとしたソ連とも挟を分かち、第三世界との連帯を掲げたなかでの「自力更生」型の近代化を追求する一つのありかただったといえる。

  だが多くの知識人にとっては災難で、やがて「牛鬼蛇神」として「牛棚」(牛小屋)と呼ばれる収容所に送られ、人間扱いされなかった。そもそも労働者や貧農・下層中農階級出身者と革命功労者をエリート「紅五類」とし、それ以外のほとんどの人々、基準の曖昧な「右派」や「反動」のレッテルを貼られた人たちを「黒五類」などと決めつけたこと自体、常軌を逸していた。それに加え、認定された階級が身分制化し、子弟や近親者までが婚姻・就職・就学等の面で、日常的に差別を受ける。周囲で自殺に追い込まれた例を目撃した人は多く、誰もが深い傷を負った。

  一九六六年から六九年まで高等教育機関は学生募集を停止した。青年・学生の組織、紅衛兵は造反し、「四旧」(古い思想・文化・風俗・習慣)打破で、膨大な文物や名勝旧跡を破壊し、全国を無料で経験交流して回る「大串連」夭交流)の間、完全に教育環境から離れた(これについては「よき思い出」とする人たちが少なくない)。六七年には中共中央によって学生の学校への復帰、授業再開が指示され、労働者や解放軍が学校に進駐した。五四以来の平民教育運動の流れにあった「社会が学校」という理念は、文革を始動した毛沢東の六六年の「五七指示」で「軍隊は大きな学校」とされたことに象徴されるように、軍事的な方向に大きく振れる。

  ただ、大学教授の下放(幹部や知識人が工場や農村に入って働く)は、出身大学を離れて農民や労働者と接する初めての機会でありえたし、都市の学生・文化人の遠方への下放は、少数民族に対する認識をいくらかでも喚起したという点では意味をもったといえよう。

  「天の半分を支える」--ジェンダー

  一九四九年の共同綱領に継いで五四年公布の中華人民共和国憲法でも、政治・経済・文化・社会・家庭の各生活上の男女平等原則が明文化された。「天の半分を支える」存在として女性は公的に認知され、新しい出発をしたのである。

  一九五〇年の新婚姻法では婚姻の自由はもちろん、重婚・蓄妾、親の決めた婚家に多くは世話係の労働力として少女が売られる童養娘制度、売買婚を禁止し、男女の自由意思に基づく結婚と離婚が保障された。おりからの「増産節約」方針により「祖国により多くの富を作りだそう!」と、質素な結婚式が「先進的」として奨励され、証人には多く毛沢東の肖像が使われ、実際に貧しい層ではこれで結婚が可能になった。

  数年後の『中国婦女』雑誌社による調査でうかびあがった新しい「社会主義の新型家庭婦人」像は、「家庭において良き主婦、子どもの良き母親、夫の良き助手となるべきのみならず、社会活動の積極的な参加者であるべき」というもので(『新型的家庭婦女』一九五六年)、新しい「革命の伴侶」というよりはむしろ労働強化型スーパー・ウーマンが求められたことになる。

  多くの女性が実際に家の外での労働に参加することになったのは大躍進期で、政策による各種の労働動員であり、初めて姑に気兼ねすることもなく女性同士、集団で働くことに喜びを感じたという女たちもいれば、逆に望まない労働への動員に不満な女たちもいた。いずれにせよ、大躍進が失敗すると、今度は調整政策を背景に「女は家庭に帰れ」と要求されたのであり、自立的な労働とはいえなかった。人民公社運動では、生活と生産の高度な集団化のために、食事や保育も社会化が試みられ、公共食堂や保育所が設置され、新しい経験をする。

  生殖政策については、一九五〇年代、ひとたびは人海戦術のため人口を抑制しない「人手論」が優勢で、馬寅初の人口抑制のための「人口論」は批判された。しかし一九六二年には計画生育が再開され、六五年には三割、七一年には七割の夫婦が産児制限をするようになったという。そして七八年からは一人っ子政策がとられ、優生保育が強調された。だが人口年齢比の問題の深刻化から、二〇一六年には解除されるにいたった(「二人っ子」政策へ)。

  文革期には「鉄の娘」という性差を抑圧した雄々しい女性イメージが新しいとして追求されたが、文革が終焉するとやがて消えていき、急速な市場経済化、グローバル化後はむしろ女性の商品化、生産からの離脱現象すらおこり、あらたな問題となってきている。

 米国の一九七二年のニクソン大統領訪中、それに継ぐ同年の日中国交正常化等によって中国の孤立という環境も変化し始めていた。権カナンバー2の周恩来、そして毛沢東が七六年にあいついで死去し、江青ら「四人組」の打倒で文革体制が清算された。

 一九七八年末には、「改革開放」路線への転換を遂げて返り咲いた部小平体制がスタートした。近代化には大量の人材が必要となり、教育改革が急務とされ、学校をとりまく環境も一〇年ぶりに正常化する。

 思想・学術界での変化としては、共産党内部でも、文革の責任を全面的に江青ら「四人組」になすりつけることなく、毛沢東と党と民衆の責任をも問うた上で、人間性の回復を唱える動きもでる。八〇年代には王若水が思想・政治・経済面での「社会主義の疎外」論や「人はマルクス主義の出発点である」という「人道主義」を提起したのである。

 マルクス主義的教条主義が反省される一方、文革で全面否定された孔子、儒家をはじめとする古典思想が再評価される。中国哲学界では、文革の反省として学術の政治利用への批判がなされ、さらには、社会主義中国の学界に大きな影響を与えていたスターリン下のジダーノフの唯物・唯心「両軍の対戦」史観も単純化として批判され、中国哲学の独自性の承認が主張されだした。‐そうした流れの中、八四年に孔子は完全に名誉回復された。それ以降、八五年から八七年にかけて、文学での「尋根」(ルーツつまりナショナル・アイデンティティ探し)ブームや「文化熱」が起きる。梁漱誤、馮友蘭らは総合文化の創造のために優れた文化伝統を掘り起こそうとする民間文化団体、中国文化書院を北京で結成した。

 ただ、儒教へは高い評価ばかりが現れたわけではない。八一年の中国共産党による「歴史決議」でも「長期にわたる封建専制主義の思想、政治面における害毒」が指摘されており、この「封建専制主義」批判が、清末から注目されていた中国の独裁、中国封建社会の長期的持続性の分析とともに、学術界でもあらためてとりあげられるようになった。八○年代以降、導入がはかられたサイバネティック論・システム論・情報理論の「三論」を駆使した金観濤による中国史における封建社会の「超安定システム」論は伝統文化システムの核心を政治とイデオロギーの結合、一体化構造とみなし、科学主義に立ち批判して評判となった。新文化運動期の胡適らに近い。この金観濤が主編となり、ニュー・アカデミーの雑誌『走向未来』を創刊している。

 内省的な美学・哲学・歴史書で注目され、工業社会化と民主化のための法治の確立をまず説くモダニスト、李沢厚は八〇年代前半、知識青年の間でスター的な存在ですらあった。歴史的に沈澱されてきた「中国の文化―心理構造」はその短所・長所を分析して「創造的な転換」をはかるしかない、と指摘する。

 まさにこうした時代の伝統学にたちかえった民族アイデンティティ創出の要求に応える民族論が、反右派闘争と文革での失脚から名誉回復した費孝通によって出された。その「中華民族的多元一体格局〔構造〕」(一九八八年)説とは、数千年の歴史過程で形成され、近百年来の中国と西洋列強との対抗のなかで出現した「自覚した民族実体」として構想された民族概念である。多元の起源をなす多くの孤立分散した民族が接触、混淆、連結、融合し、同時に分裂・消長し、完全に融合しながらも個性をもった多元的統一体となった、とする。

 この民族大融合論は多元的と謳うが、「血統」的大融合論を前提とした予定調和的な多元一体論であり、強調されているように凝集のはたらきをするのは漢族であり、その点からいってもまさに同化主義的な梁啓超モデルの民族論の一つの到達点ともみなしうる。費孝通みずから称したような「豊かで多彩な長大歴史絵巻」を提示しえたという高揚感を、この論からは読みとれるのである。そうした八○年代的な「文化熱」が過ぎ去り、天安門事件の試練を受けたのち、費孝通はもともと手がけた農村社会、郷村論の延長で郷鎮企業論などに関心を移した。

 もう一つ、この時代を考えるのにはずせないのが、テレビ受像器が世帯普及率二二%の八一年から、八八年には一億ヱ(○○万台、五〇%に達する増加をみせ、テレビが「主要な情報源であり、主要な娯楽の形態となった」(『人民日報』)と宣言されたころに放映されたテレビ番組「河殤--たおれし黄河を弔う」である。これは蘇暁康と王魯湘が製作した総合ドキュメンタリーで、NHKの黄河水源を探索する大型シリーズ番組『大黄河』の一種のパロディでもあった。「テレビと思想界の精鋭がテレビというマス・メディアを通じて理論的情報を伝えるという一つの試み」(蘇暁康、一九八九年)という、思想性の強い実験番組である。

 黄河流域に早熟な文明として成立し、長年、持続された中華文明が、西洋近代文明の衝撃によって激痛を伴う衰退に至った、という筋書きである。抗日戦や中国革命を語らない「新しい歴史観」を提示し、顧問格の金観濤・劉青峰夫妻ら近代化推進論者にして気鋭の青壮年研究者や作家に行なったインタビューを次々と挿入しつつ、短い言葉と映像カットの積み重ねというテレビ文体の工夫によって、伝統が近代化の障害となっている点を視覚的に焼き付け、閉鎖的精神構造を突き崩そうとする。

 科学主義的な装いのこの番組で強調されるのは何よりも高度な古代内陸文明としての黄河文明の衰退の運命であり、その停滞性、西欧的な近代の頓挫の主因を「海洋文明の欠如」に求める。実際には東アジアでの海洋朝貢交易、海洋文明はあったのに、あえて一面的な把握を示す点からいえば、東洋を歴史以前と規定したヘーゲルの歴史哲学の反復であろう。だがこの場合は五四の「全面的西洋化論」を継承しつつ、「反政府的」に利用したのである。

 好評でアンコール放映もされたが、中華文明の全面否定、歴史的虚無主義だといった批判が、天安門事件にまでつながった。「文化熱」の最後の打ち上げ花火となったといってもよい。

 なお、ちょうどこのころ台湾では蒋経国総統が三八年にわたった戒厳令を解除し(一九八七年)、新党結成も解禁され、言論・結社・言語の自由が保障された。一九四七年の二・二八民衆蜂起事件以来の恐怖政治も終わり、一九九〇年代の「静かな革命」といわれる民主化を達成した。
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豊田市図書館の18冊

302.38『ラトヴィアを知るための47章』

914.6『野坂昭如 男の詫び状』

302.19『沖縄への短い帰還』

215.1『甲信の戦国史』武田氏と山の民の攻防

780.69『オリンピックと自衛隊 1964-2020』

159.4『パラレルキャリア』新しい働き方を考えるヒント100

317.3『公務員の教科書 道徳編』扶桑時・トラブルに巻き込まれないために

017.02『日本占領期の学校図書館』アメリカ学校図書館導入の歴史

547.48『Web制作の最新常識』現場のプロが教える

375.31『「主権者教育」を問う』

154『<愛国心>に気をつける!』

493.9『はじめてであう 小児科の本』

304『分断社会・日本』なぜ私たちは引き裂かれるのか

147『すべての縁を良縁に変える51の「気づき」』

910.26『戸井十月全仕事』「シャコタン・ブギ」から「五大陸走破」まで 世界を駆け抜けた作家の軌跡

309.1『自由主義は戦争を止められるのか』⇒岡崎と同じモノを借りてしまった。

809.4『恥をかかないスピーチ力』

289.3『世界で一番貧しい大統領と呼ばれたホセ・ムヒカ』心を揺さぶるスピーチ
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EU離脱

胸の違和感

 胸の違和感がとれない。午前3時過ぎからスーと。結局、半年以上掛った、カテーテル手術は何の関係もなかったみたい。だから、午前中、ずっと寝ていた。その間にEU離脱が決まりました。

EU離脱

 やっと決まったみたい。これで米国大統領選とギリシャ情勢がどうなるかです。

 国の方向が半々のままでは、イギリスは先に進めない。いずれかで決着をつけて、次の「分化と統合」の世界をめざす。そのための実験です。

 ギリシャはEUというドイツの方を見るのではなく、トルコなどの地中海沿岸諸国との連携を目指すべきです。これで堂々と進めていける。

 日本とイギリスでの変革がたぶん、最終だろうから。

がんばっても18冊しかない

 全然、集まらない。金曜3時に固執するのは止めて、偶然に任せよう。それと、偶然が示唆する世界。

 豊田市図書館には期待しないようにします。だから、3時に通りすがりに新刊書を取っていくだけ。構えない。

 このタイミングで、8月初旬だったキンドルオアシスの予定が早まって、明日には来るというメールがあった。読む方にシフトセヨと言うこと。これが仕掛けられた偶然です
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