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精神的に落ち込んでいる時は宗教書です

未唯へ。まだふらついています。11時には寝る体制に入ったのですが、まるで寝られない。1時と2時半と5時にはトイレです。本当に寝れたのか不明です。

火曜日に発生した「めまい」からなかなか脱却できません。本当に気持ちが悪いですね。

こういうときは宗教書ですね。というわけで、『すらすら読める正法眼蔵』188.84ヒロです。何しろ、道元のライフワークの『正法眼蔵』はプロでも難しいのだから、読めるわけがありません。私も10年ぐらい前にチャレンジしたけど、とてもじゃない。なぜ、すらすら読めるかというと、「宗教書」として見るのではなく、「哲学書」と見れば、少しはわかりやすいということです。
道元の時代には「哲学」用の言葉がなかったので、よけいに難しくなったというのは、なかなか意味のあることです。アインシュタインの相対性原理にしても、その前にリーマンが数学理論を作っておいたから、記述しやすかったみたいなことなんでしょうかね。気になった部分をアップします。

 迷いと悟りの様相
  自分のほうから宇宙の真理を悟ろうとするのは迷いであり、宇宙の真理のほうからの働きかけでもって自分を悟らせてもらえるのが悟りである。
  われわれが身心を集中して物を見、身心を集中して声を聴く場合、いくらしっかりと認識しようとしても、鏡に影が映るようにはいかない、水に月が映るようにはいかない。

 自己をならうこと
  仏道をならうことは、自己をならうことだ。自己をならうことは、自己を忘れることだ。自己を忘れることは、宇宙の真理に目覚めさせられることだ。宇宙の真理に目覚めさせられることは、自分の身心と他人の身心を脱落させることである。悟りの痕跡すらとどめずにおいて、その痕跡なき悟りを長く長く顕在化させるのである。

 それと例が興味深いですね。
  人が悟りを得るのは、水に月が宿るのと同じ。月は濡れないし、水は傷つかない。広く大きな光ではあるが、一尺、一寸といった小さな水に宿り、月の全体や天の全体が、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。
  魚は水を泳ぐが、いくら泳いでも水の果てはなく、鳥は空を飛ぶが、いくら飛んでも空の果てはない。

寝られなかったけど、母の居る老人介護施設での振舞のヒントは得られました。「今ある生だけが正しい」ということです。あまりにも自然です。
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