goo

食卓に見る「ふつうの家庭」

未唯へ。「ふつうの家庭」というのどんな家庭でしょうかね。会社の人と「ふつうの家庭」について話をしていると、どうも我が家は「ふつう」ではないとのことでした。

その時に話したのは、我が家の食卓の風景です。本当は、このブログで写真をアップしたいけど、それをやると奥さんの肖像権?を侵すことになります。ある種の芸術です。

食卓の上にあるのは、奥さん用のパソコンが2台とマニュアルとマウスとインターネットとプリンターと電源ケーブル、黄な粉のパッケージ、保険証を含むさまざまな書類、缶詰のフタ、卵にかける専用しょうゆ、ふたの開いたソース、各種タッパー、ペットボトル、茶碗、割り箸、お皿とボトルと湯のみ、テレビのリモコン、カレーの空箱、電卓、DSのハコ5つ、各種小物にハコなどです。

ここで、図書館借りた本を置くと、見つからない時があります。食べる時には、奥の方へ延ばすと連鎖反応でバランスを壊すので、島で海岸線に並べる要領で食器を並べます。

家族全員、この風景に違和感を感じていないし、そのために病気になることもありません。だから、普通です。

マンガではミサト(エヴァンゲリオン)もノダメ(カンタービレ)の部屋もごちゃごちゃです。それが個性になっています。私にとっては彼女らの魅力だと思っています。また、それを片付けるシンジ(エヴァ)とかシンイチ(カンタービレ)が出てきます。

私の仮説の一つに、「仲のいい夫婦」の子どもは不幸になるというものがあります。「仲がいい夫婦」と思い込んでいる両親は、それを子どもの前で演出します。その呪縛に陥っている子どもは結婚した時に、その関係を相手に期待します。

その時点で、両親が役を演じていたと分かればいいのですが、本当に仲がいいと思い込んでいると、必ず破局します。存在しないものを見ていてはいけません。

同じように、「ふつうの家庭」概念で育った人が、さまざまな普通の人と一緒になると大変です。一生懸命、「ふつう」にしようとして、軋轢を繰り返して、我が家の食卓では病気になるでしょう。

そんな既成概念を持たずに、そこで集まった人で、新しい「ふつう」を作ればいい。

朝青龍の報道を見ていると、どうみても「うつ」の人への対応ではありませんね。広大なモンゴルで、家族がパオに中で過ごしてきたのとは大違いです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )