スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&第四部定理五七備考

2018-02-13 18:59:41 | 将棋
 宇都宮で指された昨日の第43期棋王戦五番勝負第一局。対戦成績は渡辺明棋王が5勝,永瀬拓矢七段が1勝。
 振駒で渡辺棋王が先手になり矢倉。永瀬七段は雁木に。この戦型は増えていて,それは後手の矢倉対策として優秀だという認識が主流になっているからですが,この将棋は序盤で先手がうまく立ち回りました。
                                     
 先手が1筋の位を取った局面。後手は馬を作っていますが持ち歩の数が大差ですでに先手がよいと思われます。
 ここで後手は☖4五歩と取って☗同桂☖4四銀右☗3三歩の攻めを呼び込みました。
 苦しいながらもここは☖4二金左と逃げておかなければいけなかったのだろうと思います。しかし☖同桂☗同桂成☖同銀の交換に応じたために☗2五桂☖4六歩に☗1四歩☖同歩☗1二歩☖同香☗1八飛と持ち歩を生かした端攻めを喰らうことになりました。
 ☖2四銀と端を受けたところで☗1三歩☖同香☗同桂成☖同銀と清算されてから☗4四歩。銀を見捨てられないので☖同銀と取って☗7一角の両取りに☖6二飛と受けたものの☗同角成☖同金☗8二飛☖7二桂☗6三歩☖6一金☗8一飛成☖4三角☗6二歩成☖同金☗6四香と流れるように攻められました。
                                     
 土俵際に追い詰められた感のある第2図以降,後手は腰の重い粘りを発揮して容易には土俵を割らなかったのですが,かといって土俵の中央まで押し戻すということもできず,先手が押し切りました。
 渡辺棋王が先勝。第二局は24日です。

 希望spesは喜びlaetitiaの一種で不安metusは悲しみtristitiaの一種です。よって希望は恐怖metusより人間の現実的本性essentia formalisに適合します。つまり自己の有を維持するのに役立ちます。しかし希望も不安もその定義Definitioから必然的にnecessario混乱した観念idea inadaequataとともにある感情affectusです。よってあるものに希望を感じようが恐怖を感じようが,そのあるものに対しては必然的に虚偽falsitasです。しかしその虚偽である希望を真verumと錯覚すれば,すなわち誤謬errorを犯した場合は,その希望を否定する者,あるいは不安を抱かせる者と闘争することが勇気animositasと錯覚されることになります。なぜなら勇気は,自己の有を維持することを希求する欲望cupiditasであり,それは能動的な感情でなければならないのですが,誤謬を犯している無知の人は虚偽を真理veritasと妄信しているのですから,それが能動的な欲望であると錯覚するからです。つまり,自身の希望に関して誤謬を犯す人は,その誤謬の対象が戦い得る相手である限り,必然的に勇気についても誤謬を犯すようになっているのです。そしてこのメカニズムが,こうした無知の人に新たな感情を呼び起こすことになります。
 第三部諸感情の定義二八は,自己への愛philautiaのために自己を正当以上に感じることを高慢superbiaといっています。勇気について錯覚し,希望を砕き恐怖を呼び起こす相手を否定する,要するに排他的思想を有する人は,この高慢の条件を満たしているとはいえません。ですがこのような無知の人は,実際には高慢という感情にも隷属しているのです。なぜなら,自己を正当以上に感じていなくても,相手のことを正当以下に評価するなら相対的に自己を過大評価しているのと何ら変わるところがないからです。スピノザも第四部定理五七備考で次のようにいっています。
 「他人について正当以下に感ずる者もまた高慢と呼ばれるということである。したがってこの意味において高慢は,人間が自己を他の人々よりすぐれていると思う謬見から生ずる喜びであると定義される」。
 これが排他的思想を有する人に著しく妥当することは明白でしょう。なぜならその人は,排他的思想の対象者より自分が優れていると思い込んでいるのであって,しかもその思い込みの要因は虚偽による謬見であるからです。
コメント
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