スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

理性の導き&自由と必然と意志

2018-02-19 19:11:02 | 哲学
 『スピノザ―ナ15号』の矢島直規の論文は,副題が「ヒュームのスピノザ主義」となっている通り,ヒュームDavid Humeの哲学についての論考です。僕はヒュームは読んだことがありませんので,ここから記すことのうち,ヒュームの哲学に関する事柄は,すべてこの論文に沿ったものだと理解してください。矢島のヒューム解釈が正しいかどうかも僕には不明ですが,スピノザの哲学との関連では興味深く思えるところがあったので,これは何回かに分けて紹介します。
                                       
 矢島によれば,第一種の認識cognitio primi generisが十全adaequatumではないということ,つまり混乱した観念idea inadaequataであるということでスピノザとヒュームは一致しています。しかしその認識が,習慣の基礎として位置づけられるなら,他面からいえば多くの人びとの間で共有されるようになると,それは十全な認識へと変化するというのがヒュームの考え方だそうです。これに対してスピノザは,人間をして十全な認識へ導くものは理性ratioであり,この部分でヒュームとスピノザの間には相違があると指摘しています。いわば習慣と理性の対立が,ヒュームとスピノザの対立であると矢島はみているわけです。
 矢島の論文を読む限り,なぜヒュームが理性を否定し,習慣を重視するのかは僕には何となくわかります。ですがそれは次回にして,ここでは理性の導きについて,僕の考え方を示しておきたいです。
 人間を十全な認識に導くのが理性であるというのがスピノザの考え方だというのは正しいと僕は考えます。第二部定理四一第二部定理四二がその論拠です。ただし僕は,理性の導きによって第一種の認識が十全になる,いい換えれば第一種の認識が第二種の認識cognitio secundi generisになるとは考えません。理性の導きは理性にのみ関連するのであって,第一種の認識とは別だと考えるからです。
 矢島のいい方だと,Xの混乱した観念が理性の導きでXの十全な観念idea adaequataになるといっているように解する余地があります。僕はそれは否定します。Xの混乱した観念がXの十全な観念になるのではありません。Xの混乱した観念とは別に,Xの十全な観念が発生するのです。

 第三部定理四九証明で示されていることが,この定理Propositioをスピノザの哲学に沿って解釈した場合の意味,いわば真の意味になります。そしてこれを解するにあたって最も注意しなければならないのは,スピノザが自由なものというとき,それが自由な意志voluntasによって働くagereものを意味していないということです。これは第一部定理三二から明白といわなければなりません。そこでいわれていることを第一部定義七に該当させるなら,意志は自由に働くものではなく,強制されて作用するものであるということになるからです。
 実はここのところに,スピノザが必然を多様な意味で用いている理由のひとつがあるのではないかと僕はみています。第一部定義七は,確かに自由なものと強制されたものとしての必然を対置させています。しかしそれは,意志の自由libertasと強制された必然を対置しているのではありません。むしろ自由と強制された意志は対置されるのです。一方,スピノザは自己の本性naturaの必然性necessitasのみによって存在しまた働くもののことを自由というのですから,この意味においては必然は自由と調和します。すなわち自己の本性の必然性のみによる自由と,強制された必然的なものとしての意志は対置するのです。
 このように分かりにくくなっているのにはたぶん理由があります。それはおそらくスピノザは,自分は自由と意志を対置するものと解するけれども,一般には自由と意志は調和的で,それが必然と対置されると認識されていると解していたからです。実際,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizやヤコービFriedrich Heinrich Jaobiが神学的観点からスピノザの哲学を否定するとき,スピノザの哲学では神Deusが必然的なものに貶められていて,自由な意志の裁量の余地がないというのが大きな理由でした。つまりかれらは自由と意志が調和し,それが必然と対置すると認識していたのです。そしておそらく,現在でもこのような認識cognitioのあり方の方が多数派を占めているのではないかと僕は思います。ですからスピノザは一般的認識に見合うように自由と必然が対置するといういい回しもしていますが,僕は,スピノザの哲学では自由と必然が調和し,それらが意志とは対置すると解しておくのがよいだろうと考えています。

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