北國新聞会館で指された第43期棋王戦五番勝負第二局。
永瀬拓矢七段の先手で角換り。先手の早繰り銀に後手の渡辺明棋王が腰掛銀で対抗。戦型自体が後手に分のあるもので,中盤はリードしていたのではないかと思います。
先手が歩を打った局面。ここは☖同桂か☖同銀の二択と思われますが☖同銀の方を選びました。となると先手は☗2五桂の一手で☖2四銀。ここも先手は☗3三歩と打つほかないと思います。後手は☖同桂☗同桂☖同王と進めました。最後は☖同銀もあるのでしょうが,後手の対応は素直なもので,このように応じて悪くないと判断していたのだと推測します。そしてその推測が正しければ,誤算あるいは見落としがあったということでしょう。
先手が☗5一角と打って王手を掛けたのに対しても☖4二銀と最も素直に応じました。
ここで先手は角を逃げずに☗2五歩と打ちましたが,後手はこの手を軽視していたのではないかと思います。
☖3五銀と逃げて☗1五角と打たれるのはひどいので論外。☖5一銀と角を取りたいところですが☗2四歩☖同歩☗3五角と飛車取りに打たれていけないようです。4六の飛車は第1図の少し前に,先手が反撃に出る直前に9六から回ってきたものですが,後手はそのあたりの攻め方にすでに問題があったのかもしれません。
☖2五同銀は消去法で選ばれたような手。それでも先手は☗1五角の王手を入れて☖2四桂に☗2五飛と銀を取りました。
ここも☖5一銀と角を取ってしまうと☗3五銀と飛車取りに打たれて後手がいけないようです。なので☖3四銀と飛車取りに上がって受けたのですがそこで☗4二角成と切られました。
これを☖同王と取ると☗2四飛と飛車の方を切られて王手飛車を喰らいます。なので☖同金としましたが☗2二銀とただのところに打つのがうまい一手。これも☖同王だと同じ手順で今度は飛車金両取りを喰らいます。よって☖4三王と逃げましたが☗5五桂☖同金☗同飛で飛車が生還しました。
第3図まで進むと互いの玉の危険度と駒の損得の差で先手がはっきりとよくなっています。この将棋はここから後手がよく追い込みましたが届かず,先手の勝ちになりました。
永瀬七段が勝って1勝1敗。第三局は来月11日です。
第四部定理四五は,単に憎しみodiumが善bonumではあり得ないといっているのではなく,決して善ではあり得ないと強調されています。したがってこの強調部分に重きを置けば,憎しみは単に有益ではあり得ないのではなく,絶対に有益ではあり得ないということになります。このゆえにスピノザは憎しみを一律に否定すると僕は解します。そして憤慨indignatioもまた憎しみの一種であるがゆえに,不安metusとは異なり総じて否定的に記述されることになるのです。よって憤慨には正当も不当もなく,むしろそれは一律的に有害で否定されるべき感情affectusであるということになるでしょう。
なお,ここでいわれている憎しみは,人間の人間に対する憎しみだけを意味しています。人間以外のものが憎しみを感じるといっていいかは不明ですが,そのことは眼中に置かれていません。また逆に,人間が憎しみを感じるのだとしても,それは人間に対する憎しみにだけ重点が置かれているのであって,人間以外のものに対する憎しみについていわれているのではありません。このことはこの定理Propositioの直後に示されている短い備考Scholiumから分かります。
「私がここならびに以下において,憎しみを人間に対する憎しみとのみ解することに注意されたい」。
これはどういうことかというと,それが決して善ではあり得ないということ,あるいは絶対に有益ではあり得ないということが,何にとって善ではなくまた何にとって有益ではあり得ないかということと関係します。いうまでもなくそれは,人間にとって善ではあり得ないし,人間にとって有益ではあり得ないということです。要するにスピノザはそのことをここで示したかったのであり,そのために憎しみを人間による人間に対する憎しみに限定しているのです。注意しなければならないのは,第三部諸感情の定義七により,外部の原因の観念を伴った悲しみtristitia, concomitante idea cause externaeはすべて憎しみといわれるのですから,人間は人間だけを対象として憎しみを感じるわけではありません。したがってもしも人間が人間以外のものに対して憎しみを感じるなら,それは必ずしも善ではあり得ないとはいえないことになりますし,同様に有益であり得ないとも断定できないことになります。
永瀬拓矢七段の先手で角換り。先手の早繰り銀に後手の渡辺明棋王が腰掛銀で対抗。戦型自体が後手に分のあるもので,中盤はリードしていたのではないかと思います。
先手が歩を打った局面。ここは☖同桂か☖同銀の二択と思われますが☖同銀の方を選びました。となると先手は☗2五桂の一手で☖2四銀。ここも先手は☗3三歩と打つほかないと思います。後手は☖同桂☗同桂☖同王と進めました。最後は☖同銀もあるのでしょうが,後手の対応は素直なもので,このように応じて悪くないと判断していたのだと推測します。そしてその推測が正しければ,誤算あるいは見落としがあったということでしょう。
先手が☗5一角と打って王手を掛けたのに対しても☖4二銀と最も素直に応じました。
ここで先手は角を逃げずに☗2五歩と打ちましたが,後手はこの手を軽視していたのではないかと思います。
☖3五銀と逃げて☗1五角と打たれるのはひどいので論外。☖5一銀と角を取りたいところですが☗2四歩☖同歩☗3五角と飛車取りに打たれていけないようです。4六の飛車は第1図の少し前に,先手が反撃に出る直前に9六から回ってきたものですが,後手はそのあたりの攻め方にすでに問題があったのかもしれません。
☖2五同銀は消去法で選ばれたような手。それでも先手は☗1五角の王手を入れて☖2四桂に☗2五飛と銀を取りました。
ここも☖5一銀と角を取ってしまうと☗3五銀と飛車取りに打たれて後手がいけないようです。なので☖3四銀と飛車取りに上がって受けたのですがそこで☗4二角成と切られました。
これを☖同王と取ると☗2四飛と飛車の方を切られて王手飛車を喰らいます。なので☖同金としましたが☗2二銀とただのところに打つのがうまい一手。これも☖同王だと同じ手順で今度は飛車金両取りを喰らいます。よって☖4三王と逃げましたが☗5五桂☖同金☗同飛で飛車が生還しました。
第3図まで進むと互いの玉の危険度と駒の損得の差で先手がはっきりとよくなっています。この将棋はここから後手がよく追い込みましたが届かず,先手の勝ちになりました。
永瀬七段が勝って1勝1敗。第三局は来月11日です。
第四部定理四五は,単に憎しみodiumが善bonumではあり得ないといっているのではなく,決して善ではあり得ないと強調されています。したがってこの強調部分に重きを置けば,憎しみは単に有益ではあり得ないのではなく,絶対に有益ではあり得ないということになります。このゆえにスピノザは憎しみを一律に否定すると僕は解します。そして憤慨indignatioもまた憎しみの一種であるがゆえに,不安metusとは異なり総じて否定的に記述されることになるのです。よって憤慨には正当も不当もなく,むしろそれは一律的に有害で否定されるべき感情affectusであるということになるでしょう。
なお,ここでいわれている憎しみは,人間の人間に対する憎しみだけを意味しています。人間以外のものが憎しみを感じるといっていいかは不明ですが,そのことは眼中に置かれていません。また逆に,人間が憎しみを感じるのだとしても,それは人間に対する憎しみにだけ重点が置かれているのであって,人間以外のものに対する憎しみについていわれているのではありません。このことはこの定理Propositioの直後に示されている短い備考Scholiumから分かります。
「私がここならびに以下において,憎しみを人間に対する憎しみとのみ解することに注意されたい」。
これはどういうことかというと,それが決して善ではあり得ないということ,あるいは絶対に有益ではあり得ないということが,何にとって善ではなくまた何にとって有益ではあり得ないかということと関係します。いうまでもなくそれは,人間にとって善ではあり得ないし,人間にとって有益ではあり得ないということです。要するにスピノザはそのことをここで示したかったのであり,そのために憎しみを人間による人間に対する憎しみに限定しているのです。注意しなければならないのは,第三部諸感情の定義七により,外部の原因の観念を伴った悲しみtristitia, concomitante idea cause externaeはすべて憎しみといわれるのですから,人間は人間だけを対象として憎しみを感じるわけではありません。したがってもしも人間が人間以外のものに対して憎しみを感じるなら,それは必ずしも善ではあり得ないとはいえないことになりますし,同様に有益であり得ないとも断定できないことになります。
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