スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

南三条②&善と有益

2018-02-23 19:01:45 | 歌・小説
 「南三条」は,シチュエーションだけでいえば長い人生の中のほんの5分とか10分の短い場面が切り取られています。ただその間の出来事が,歌い手である女のある恋物語と連関しています。女がそれを歌うことでこの楽曲のダイナミズムは成立するのですが,そのダイナミズムは聴き手の中に生じるだけでなく,歌い手自身の中にも発生しています。というより,歌い手にとってその短い時間の中でそれまで思い込んでいたことが覆されるために,聴き手にとってもどんでん返しが生じたかのように思えるようにできているのです。
                                     
 女は地下鉄の駅に向かう人通りの多い通路を歩いています。そのときに,かつては知り合いであったけれども今は縁遠くなっている女がその女を見つけるのです。

     突然袖引かれ見れば
     息をきらしてる笑顔
     なんてなつかしい,と汗かいて
     忘れたい忘れないあの日の女


 見つけた方の女は,歌い手である女を見つけて,少し遠くの方から走ってきたのでしょう。「なんて懐かしい」ということばからも,その女が歌い手に会いたいと思っていたことは分かります。けれども歌い手にとってはこの女は,忘れたいけれども忘れられないような女であったわけです。

     流れてゆく人の流れ何ひとつも知らなくて
     ただ二人は親しそうに見えるだろう


 聴き手はしかし,この時点ですでにこのふたりの間にはかつて何事かがあったのだということは分かります。それが何であったのかということは,歌い手がそう思い込んでいたことなのですが,でも事実はそれとは違っていたのです。

 スピノザは第四部定義一で,我々が我々にとって有益と確知するcerto scimusものが善bonumであるといっています。このいい方は,我々にとって共通する善があるということを仄めかしているといえますが,実際に意味しているところは,ある人間が自分にとって有益であると確知するものがその人にとっての善であると解しておくのがよいでしょう。第四部定理八では,善は人間にとっての喜びlaetitiaの認識cognitioであるという意味のことがいわれ,何に対して喜びを感じるのかということは,その喜びが受動passioである限り,第三部定理五一によって人それぞれであるからです。したがって,ここで確知するといわれていることについても,それは真に認識するあるいは十全に認識するという意味ではなくて,それが有益であることが確実であると思う,いい換えればそれについて疑いを有さないという意味に理解しておくのがよいだろうと思います。
 よって,ある人間がXについて,それが自分にとって有益であると疑わないのであれば,それはその人にとっての善です。逆にいえばその人が善であることを疑わないようなものは,その人が自分にとって有益であるということを疑っていないようなものです。ですからそれが真に認識されていようが誤って認識されていようが,善であり得ないものは有益ではあり得ません。したがって第四部定理四五は,憎しみodiumという感情affectusが善ではあり得ないということをいっているのですが,同時にそれは有益ではあり得ないということも意味しているのです。
 なおかつ,これは定理Propositioですから,第二種の認識cognitio secundi generisに基づいていわれているのです。なので憎しみが善ではあり得ないということは真理veritasのひとつなのです。つまり憎しみが有益ではあり得ないということも真理のひとつであることになります。そして真理というのは万人に共通します。したがって憎しみという感情が善ではあり得ないということ,いい換えれば有益ではあり得ないということは万人に共通するのです。要するにAという人間がBという人間を憎むとき,それはAにとってもBにとっても善でも有益でもあり得ないというだけでなく,AでもBでもない人間にとっても善でも有益でもあり得ないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする