スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

十川信介の『夏目漱石』&攻撃性

2018-02-11 18:55:32 | 歌・小説
 『ドストエフスキイの生活』はドストエフスキーの伝記です。あるいは評伝です。小林秀雄はドストエフスキーの生い立ちがドストエフスキーの作品の理解には欠かせないと考えたので,自身で評伝を欠いたのでした。作家論と作品論の分類でいけばこれは作家論に属し,僕自身の志向からは外れます。ただ,夏目漱石の作品に関しても,漱石の生い立ちがその理解には欠かせないと考える評論家は多くいます。『決定版夏目漱石』を書いた江藤淳や『夏目漱石を読む』の吉本隆明などはその代表といえるでしょう。
 僕の志向とは異なるのですが,こうした評論を読む場合には,漱石の伝記があれば便利でしょう。漱石は幼少期から青年期にかけてはドストエフスキーよりもっと複雑な生い立ちをしていて,個々のエピソードとしては有名なものもあり,それは知っているという場合でも,それが時系列としてどの順序で漱石の身に生じたのかということについてはよく分からないという場合もあるであろうからです。
                                     
 一昨年の11月に岩波新書から発売された十川信介による『夏目漱石』は,そういう場合に便利な一冊です。伝記としてコンパクトにまとまっていて,価格も手頃なものなので,僕は漱石の伝記としてはこれを推薦しておきます。
 ただ,伝記とはいってもこれもまた『ドストエフスキイの生活』と同様に,評伝でもあります。漱石は作家なので,作品についても触れられていて,そうした部分に関してはそこに十川による判断が挟み込まれているのは当然で,それは読者も簡単に理解できるでしょう。ただそれとは別に,純粋な伝記として読めそうな部分の中にも明らかに十川の価値判断が入り混じっている部分もあります。
 こうしたことは伝記を読むという場合に一般的に気を付けなければならないことですので,そのような判断がどう差し込まれているのかの具体的な一例は,後の機会に説明することにします。

 同一の不安metusを多くの人びとが共有し,その恐怖metusが同一のあるいは似通った希望spesによってそれらの人びとのうちで第四部定理七の様式によって除去され,かつそれが偽であるということを認識しない,いい換えれば誤謬errorを犯している場合に,その不安と希望が個人であれ集団であれ人間に向かっているときには,そうした個人あるいは人間集団に対する排他的思想は強力化します。そしてその攻撃性を増加させます。
 単に同一の不安を共有している人数が多いだけで,その不安を抱かせる個人あるいは人間集団に対する排他的感情は強化されるということはすでに示しました。これは善悪という規準によって強化されているのです。すなわち排他的感情を有している人が善bonumで,それを共有しない人が悪malumであるという観点から強化されるのです。さらにこの場合には真偽の観点が加わっています。それが強力化の大きな要因になります。すなわち誤謬を犯すことにとって排他的思想を有する無知の人は,自身が真verumで自身の希望を打ち砕く者が偽であるとみなします。したがって,自らが誤謬を犯した上で,誤謬を犯しているのは相手の方であると思い込んでいるのです。よって相手の行いのすべては誤りであって,自分たちの行いが正しいと妄信してしまうのです。この場合,互いが互いにそのように思い込むというケースがあり得るのは確かなことで,そこにはもう両者が一致することができる妥協点すら見出すことが不可能なほどに対立が激化することになるでしょう、
 その対象が個人であれ国家Imperiumであれ民族であれ宗教religioであれ,排他的思想を有する人が相手に対する攻撃的な態度を取るケースが生じるのは,概ねこのようなメカニズムに従っているのではないかと僕は考えています。このゆえに,僕は無知の人として希望によって恐怖を打ち消すことを,全面的には肯定しません。不安に苛まれているより希望に満ち溢れている方がまだましではありますが,それはその当人にとってまだましであるというだけにすぎません。誤謬を犯した上で誤謬を犯しているのが相手方であると思い込み,相手方に対する攻撃性を激化させるという側面を見落としてはならないと思います。
コメント
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