スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

デイリー盃ロジータ記念&精神と知性

2017-11-09 19:28:45 | 地方競馬
 金沢から1頭,笠松から1頭が遠征してきた昨晩の第28回ロジータ記念
                                     
 押して先手を奪いにいったアップトゥユーがすぐに抜け出しての逃げ。2番手にはスターインパルス。3番手にステップオブダンスとギンチャン。5番手がヤマミダンス,6番手がアムールリアンとなり,この後ろはダムールベルン,グラスサファイヤ,ガロの3頭。その後ろのミスアンナまでは差がなく続き,差が開いてシェアハッピー。この後ろも差が開いてローレライとアペリラルビー。また差が開いてイクノチャンが殿追走。ハイペースでした。
 向正面でアップトゥユーにスターインパルスが早くも並び掛けていきました。この時点ではアップトゥユーの方に余裕があり,差を詰められてからまた引き離すとスターインパルスはずるずると後退。追い掛けてきたのはステップオブダンス,アムールリアン,グラスサファイヤ。3コーナーを回るとアップトゥユーは手が動き始めたもののステップオブダンスは余裕の手応えで追走。そのまま楽な手応えで先頭に立つと直線も後続の追い上げを許さず快勝。2番手に上がったグラスサファイヤの外からシェアハッピーが伸び,末脚で優ったこちらが差して2馬身半差で2着。グラスサファイヤは半馬身差の3着。
 優勝したステップオブダンスユングフラウ賞以来の勝利で南関東重賞2勝目。同じ条件の重賞で3着。そのときの勝ち馬と2着馬は揃って後に古馬相手の重賞を勝っていますので,差をつけられていたとはいえ価値がある内容。能力通りに走れば負けられないところでした。それ以来のレースだったことが懸念材料ではありましたが,能力を出せる仕上がりになっていたということでしょう。レースぶりから着差以上の強さがあったのは間違いなく,今後も活躍できる器だと思います。父はゴールドアリュール。半兄に2009年に毎日杯を勝ったアイアンルック
 騎乗した船橋の森泰斗騎手鎌倉記念以来の南関東重賞24勝目。第27回から連覇でロジータ記念2勝目。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞6勝目。ロジータ記念は初勝利。

 聖書には神Deusが物体的なものとして記述されている箇所があります。スピノザはそういう箇所については,理性ratioに従う限りでは比喩的に解釈しなければならないという意味のことを『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で述べています。ただし聖書において神が物体的なものとして記述されていること自体は,スピノザはたぶん全面的には否定しないと思われます。というのも,理性は真理veritasを教えるのですが,聖書は神への服従obedientia,obsequium,obtemperantiaを教えるものなので,神を物体的に表現するexprimereことによって読者に神への服従を強いることが可能である限りにおいては,むしろそれは有益である筈だからです。
 ウェルテルの記述から離れて,スピノザの哲学においてこれを考える場合には,もうひとつ重要なことがあります。神は身体corpusを有しません。身体とは物体corpusであり,物体は延長Extensioの様態modusですが,神は様態ではなくて実体substantiaであるからです。これはすでに説明しました。すると,これと同じような意味において,神は精神mensないしは知性intellectusではないということになります。なぜなら,知性は観念ideaの集合体であって,観念とは思惟の様態cogitandi modiです。したがって神が知性であると主張することは,神が思惟の様態であると主張しているのと同じことです。しかし神は実体であるから知性ではないのです。第二部定理五から分かるように,観念すなわちそれが集積されて形成される知性に対しては神は,思惟の属性Cogitationis attributumとしてみられる限りにおいて原因causaです。原因は結果effectusと異なったものであるがゆえに原因であるのです。よって神が知性であると主張するなら,神の知性と人間の知性には本物の犬と星座の犬との間にあるような相違がなければなりません。よって,神は身体ではないといわれるの同じ意味において,神は知性ではないともいわれなければならないのです。
 なおこのことは,第二部定理一三にあるように,精神を構成するMentem constitutens観念の対象が身体であるということ,すなわち精神と身体とは同一個体であるということからも明白です。同一個体の間では原因と結果の秩序ordoと連結connexioは同一であるのですから,神が身体ではないのであれば神が精神でないということが同時に出てくるからです。神は身体ではありませんし,精神でもないのです。
コメント
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