スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京中日スポーツ賞金盃&メカニズム

2018-02-21 20:38:46 | 地方競馬
 第62回金盃。キャッスルクラウンは騎手への連絡が不十分であったために本田正重騎手から瀧川騎手に変更。僕の推測ですが,本田騎手は52キロでの騎乗が困難であるのに,負担重量のことが知らされていなかったということでしょう。また,本橋騎手は腰の捻挫のためキープインタッチは笹川騎手に変更。真島大輔騎手は体調不良のためキスミープリンスは山本聡哉騎手に変更。御神本騎手は4レースの騎乗後に風邪でウマノジョーは町田騎手に変更。
 発馬してすぐにシャドウパーティーは控えました。先手を奪ったのはグルームアイランドで2番手にアサクサスターズ。1周目の正面に入って3番手にサブノクロヒョウとキングニミッツ。5番手にクラージュドール,レーザー,ユーロビートの3頭。8番手にキープインタッチとオリオンザジャパンでここまでは集団。差が開いて中位をキスミープリンスがぽつんと追走。また差があってエンパイアペガサス,モズライジンの順で続きその後ろにタマモネイヴィーとウマノジョー。大きく開いてキャッスルクラウンとシャドウパーティーが並んで最後尾という隊列に。最初の1000mは65秒3のスローペース。
 2周目の向正面でも目立った動きはなく,3コーナーではグルームアイランドとアサクサスターズは差が詰まり,キングニミッツとは一時的に差が開きました。その後ろにクラージュドール,オリオンザジャパン,タマモネイヴィーでコーナーを通過。直線に入るとキングニミッツの外に進路を取ったクラージュドールが前の2頭も抜いて先頭に。これに大外からウマノジョーが襲い掛かりましたが,ウマノジョーが外によれ加減だったこともあり,クラージュドールには及ばず,直線先頭のクラージュドールが優勝。ウマノジョーが1馬身差で2着。クラージュドールに抜かれるときには気難しさを出したのかもたついていたキングニミッツが,抜かれた後で盛り返し,2馬身半差の3着。
 優勝したクラージュドールは前々走のオープンが南関東転入13戦目での初勝利。南関東重賞はこれが初勝利。ただこの馬はJRAで1600万を勝っていて,転入後は南関東重賞だけでなく重賞でも入着がありましたから,ここは優勝候補の1頭。今日はいい位置を取り,あまりコースロスなく回ってきた鞍上の手綱捌きが大きくものをいっての優勝だったと思います。これからも勝ったり負けたりということになるのでしょうが,一般的な評価よりは力がある馬とみられ,馬券には組み込んでおきたい馬というのが僕の評価です。父はキングカメハメハ。母は2004年にローズステークス,2005年にクイーンステークスを勝ったレクレドール。4代母がロイヤルサッシュ。Courage d'Orはフランス語で金の勇気。
 騎乗した船橋の森泰斗騎手は昨年のロジータ記念以来となる南関東重賞25勝目。金盃は初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は第56回,57回に続き5年ぶりの金盃3勝目。南関東重賞は15勝目。

 意志voluntasと自由libertasが調和してそれらが必然と対置されるという認識cognitioが主流なのは,人間にそうした意志の主体を還元するからです。端的にいうと,「人間は自由な意志によって働くagereものである」という言明を,自分自身について表象したときに真verumであると錯覚してしまうため,それがすべての人間にとって真であるとも思い込んでしまうのです。その結果として生じるのが第三部定理四九備考でいわれている事柄です。
                                
 これが,同一の害悪を受けた場合,いい換えるなら同じ程度の悲しみtristitiaを与えられた場合に,それを与えた対象が自然であると表象するimaginari場合より,人間であると表象した場合の方がより強い憎しみodiumを感じるメカニズムです。すなわち,自然現象は必然的にnecessario自分に被害を与えます。よってそれは自然そのものによっては避け得なかったことと表象されます。人間についてもまた本当はそれと同じなのですが,人間を自由な意志の主体であると表象する限りでは,人間は意志によって被害を与えたと表象されることになります。よってそれはその人間によって避けることが可能であったと表象されます。このゆえに人間は,害悪を被ったときには自然よりも人間の方を強く憎むことになるし,逆に恩恵を受ける場合は人間の方をより強く愛することになるのです。
 実際には第一部定理三二にあるように,意志というのは自由な原因ではなくて強制された原因です。なおかつ第三部定理二にあるように,精神mensが意志を駆使することによって自分の身体corpusをある運動motusや静止quiesに決定するということも不可能です。つまり「人間は自由な意志によって働くものである」という命題は偽の命題です。いい換えれば自然が必然的に恩恵や害悪を与えるのと同じ自然法則で,人間も恩恵や害悪を与えているのです。これは自然法則というのは自然のうちで唯一であるということ,他面からいえば第一部定理一四系一により神Deusは唯一であるということと,第四部定理四により人間は自然の一部Naturae parsであるということからも明白でなければなりません。この定理Propositioの意味として,人間は受動passioを免れ得ないということがあるので,憎しみを感じるのは仕方ありませんが,その憎しみを弱めることは可能なのです。
コメント
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