スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

玉藻杯争覇戦&共通性

2018-02-04 19:08:09 | 競輪
 高松記念の決勝。並びは佐藤‐大槻の北日本,三谷‐山田‐南の近畿,松浦‐香川‐池田の瀬戸内で諸橋は単騎。
 三谷と南がスタートを取りにいき前受けは三谷。道中で上昇した佐藤が山田の外で併走。南の後ろに諸橋でその後ろから松浦という周回に。残り2周のホームに入るところで松浦が上昇。ホームで三谷を叩くと諸橋は池田の後ろにスイッチ。さらに諸橋の後ろに佐藤が続き,三谷が7番手の一列棒状に。打鐘で三谷が追い出しを掛けるような形になり,松浦の先行に。池田の後ろを内に斬り込んだ佐藤と諸橋で取り合い。これはコーナーで佐藤が制し,佐藤はバックでインをさらに上昇し,香川の内まで追い上げました。ところが後方から三谷も発進してきていたため,香川は佐藤とは競らずに番手から発進。松浦と香川の間に進路を取った佐藤,香川,捲った三谷の3人がもつれ合うように直線に。直線の入口では香川が先頭で頑張っていましたが,三谷がこれを捻じ伏せて優勝。三谷ラインの3番手から香川と三谷の間に進路を取った南が4分の3車輪差で2着。香川が4分の1車輪差で3着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は昨年5月の日本選手権競輪以来の優勝で記念競輪初優勝。その後,5月,6月,7月と3回の落車もあって,確たる実績を残せていませんでした。ここはメンバーから大きなチャンスと思われたところ。レース運びはあまり褒められたものではないのかもしれませんが,こういう大チャンスを逃さずに記念競輪の初優勝を決めることができたのは,まだ長期にわたる選手生活が予想される本人にとっては,今後のためにもよかったのではないかと思います。調子も取り戻してきているようですから,今後も期待していいのではないでしょうか。選手人生にとって今年は勝負の年だと思います。

 第四部定理八が示しているのは,現実的に存在している人間にとっての善悪の認識cognitioは,それを認識する当人の喜びlaetitiaないしは悲しみtristitiaという感情affectusの観念ideaであるということです。第三部定理五一が示しているのは,異なった人間が同一の対象から異なった刺激を受けることができる,いい換えれば異なった感情を惹起され得るということであり,また同一の人間が同一の対象から異なった感情を惹起される場合もあり得るということです。したがって,善悪はその人によってまちまちに認識され得ますし,同一の人間の場合でも,善bonumと認識していたものを悪malumと認識するようになったり,悪と認識していたものを善と認識するようになることが生じ得ます。端的にいえば,善悪とは現実的に存在する人間にとっては統一的なものではなく,万人にとって共通する善悪というものはありません。
 一方,第二部定理一一系では,現実的に存在する人間の精神mens humanaは神Deusの無限知性infinitus intellectusの一部であるといわれています。そして第二部定理三二により,ある観念が神の無限知性のうちにあるとみられる限りでは,それがどんな観念であろうとも真の観念idea veraです。よってある人間の精神のうちに,すなわちある人間の精神の本性naturaを構成する限りで神のうちに真の観念があるのであれば,その真の観念の形相formaは神の無限知性のうちにある真の観念の形相と同一です。よってAという人間の精神のうちにあろうとBという人間の精神のうちにあろうと,Xの真の観念の形相は同一です。そして真理veritasとは真の観念の総体のことをいうのですから,真理は統一的なものであって万人に共通するものです。
 僕はこうした共通性の観点から,善悪より真偽の方に重きを置きます。いい換えれば相対的な価値としていえば善悪より真偽の方が高い,善よりも真verumの方が高く,同様に相対的にいえば人間一般にとって有益であると考えるのです。
 真実を暴くことは正義justitiaではないといわれることがあり,これは事実なので僕は反論しません。ですが真実の方が正義より価値が高いと僕は考えます。真実を暴くのは正義ではないというのは確かでも,正義を貫くことは真実ではなく不実であり得るということにも留意してほしいです。
コメント
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