スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

熊野古道賞&第四部定理四の意味

2008-01-11 18:44:55 | 競輪
 新年の記念競輪は3開催がほぼ連続で行われますが,第二弾の和歌山記念は今日が2日目の優秀レース熊野古道賞でした。
 雨中のレース。白戸選手は単騎含みであったようですが,昨日の想定通りに,終始稲垣選手ラインの3番手からのレースでした。
 前受けは渡部選手で中団が小嶋選手,後方から稲垣選手の周回。残り2周のホームから稲垣選手が上昇,バックで渡部選手を叩き,白戸選手まで出きりました。打鐘から小嶋選手が叩きに出ましたが,これを突っ張って稲垣選手の先行。苦しくなった小嶋選手ですが,バックに入ると再度踏み直し,稲垣選手の前まで出ましたがそこで一杯。後方待機になった渡部選手も捲り上げて直線勝負。渡部選手の番手から井上選手が抜け出して1着,渡部選手が2着で,このライン3番手の野田選手も大外から迫りましたが,小嶋選手の番手から出た山内選手がこれを制しての3着でした。
 レースのポイントとなったのは,白戸選手の動きだったような気がします。打鐘前に稲垣選手が前に出たところ,少し離れて3番手追走。この結果,前との間隔がやや開いたため,小嶋選手も一気に出て行けなかったのではないでしょうか。それでもバックからまた踏み直して,一旦は先頭まで出たのは小嶋選手の力の証明。こうした展開そのものが後ろになった西国勢に向きました。

 第四部定理四の全体の意味,また現在の考察と関連して注意しておくべきことをまずは考えておきます。
 まず,冒頭の,人間が自然の一部分Naturae parsでないということは不可能であるという点に関しては,これを文字通りに理解します。僕の考えでは,スピノザの哲学というのは,どんなものもそれ自身のうちにあるesse in seかそれともほかのもののうちにあるかのどちらかであるという第一部公理一により,一切の超越性を認めない徹底した内在論です。人間が自然の一部分ではないというのは,人間が自然を超越し得るという意味の超越論であって,こうした考え方は当然のこととして認められないといっていいと思います。ただしこのとき,人間というのは,人間の身体corpusと人間の精神mens humanaの両方を含んだ意味であると理解しますので,この点には注意が必要かもしれません。
 残りの部分は同じことをいっていると思います。第一部公理四により,ある人間が自分の本性naturaのみによって理解される変化Xを受けるなら,Xの認識cognitioはその人間の本性の認識に依存しますが,このことは,第三部定義一により,その人間の本性が妥当な原因causa adaequata,すなわち十全な原因になっているという意味だからです。
 第三部定義二によれば,人間が十全な原因である場合に能動的であるといわれるのですから,十全な原因であるような変化だけを受けることが不可能であるとすれば,人間は受動的である場合もあるという意味になります。よってこの定理Propositioが証明されれば,人間は常に能動的であるということはできない,いい換えれば理性の特徴により,人間は常に理性的であるということはできないということが証明されることになるのです。
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