スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部諸感情の定義二八&フェルメールの絵画

2016-02-16 19:18:32 | 哲学
 第三部定理二五から,人間は自分自身および自分が愛するものを正当以上に表象しやすいということが,また第三部定理二六からは,それとは逆に人間は自分自身および自分が憎んでいるものに対しては正当以下に表象しやすいということが出てきます。これはスピノザが第三部定理二六の直後の備考Scholiumで示していることでもあります。
                                     
 このとき,自分自身について正当以上に表象するimaginariことによって感じる喜びlaetitiaは,高慢superbiaといわれ,第三部諸感情の定義二八に定義されることになります。
 「高慢とは自己への愛のため自分について正当以上に感ずることである」。
 これは慧眼であると僕は思っていますが,スピノザはこの感情affectusについては狂気の一種と規定しています。なぜなら,この喜びというのは,第一に表象imaginatioにおいてのみ達成できることを,現実的に実現することができると勘違いしているからです。そして第二に,そのことによってそれがあたかも実現されているかのように表象して,かつそれを誇っているからです。実際にはこの感情は,そうした表象像imagoに表象の動揺が生じないがためにその人間のうちにあり続けていられるのにすぎないのです。これでみれば分かるように,実に高慢という感情を有する人間は,スピノザの表現を借りるならば,目を開きながら夢を見ているのと同じなのです。要するに高慢という感情は,妄想と同種です。その妄想を事実と思い込む限りにおいて,これを狂気の一種とスピノザは規定しているのです。
 何らかの意図があったと推測しますが,スピノザはこの感情をほかの場所でもかなり否定的に記述しています。ことによるとスピノザが最も忌み嫌った感情が高慢であり,忌み嫌った人間が高慢な人間であったのかもしれません。

 僕には絵画という芸術を鑑賞するための能力が欠如していますから,フェルメールの絵画と永遠aeterunusという概念conceptusとの間にどういった関係があるのかということは推し量りかねます。なのでこちらの点については,マルタンが『フェルメールとスピノザ』で示している事柄を説明しておくにとどめます。
 マルタンによれば,フェルメールの絵画の特徴として,何らかの日付のある時代には還元できない要素が含まれているのだそうです。これ自体はプルーストがフェルメールの「デルフト眺望」という作品を評したときの表現だそうです。マルタン自身ではなくプルーストのいい回しの方をここで例示したのは,この表現がマルタンのフェルメール評をもっとも簡潔にいい表していると思うからです。基本的にマルタンは,フェルメールの絵画の対象となっているものは現実的に存在する可滅的なものであったとしても,絵画自体の方はそうではなく,ある普遍性を帯びていると認識しているのです。
 ですから,マルタンがそのようにフェルメールの絵画を鑑賞するのであれば,その絵画の中に永遠性aeternitasを見出すことは僕には理解できます。なぜなら,現実的に存在するとは一定の持続duratioのうちに存在するという意味ですが,普遍性を伴って存在するとは,時間tempusによっては限定することができない永遠のうちに存在するという意味であるだろうからです。つまりフェルメールの絵画は,描かれた対象とは無関係に,いい換えるなら描かれた対象が現実的には存在しなくなったとしても,永遠から永遠にわたって存在し続けるものだというのが,マルタンの基本的な認識cognitioだということになります。
 さて,もしもフェルメールの絵画というものが,確かにマルタンが認識したような性質を有したものだとしてみましょう。このとき,それをスピノザの哲学と関係づけて説明するなら,他面からいえばスピノザの哲学と近似的なものであると説明するなら,その根拠となるのは二点だと僕は考えます。
 このうちのひとつはいうまでもなく第二部定理八系です。そこではスピノザは,個物の存在を,ただ現実的に存在するものとしてだけでなく,永遠なものとしても説明しているからです。
コメント
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