第三部定理二一が論拠になって証明されるのが第三部定理二五です。そして第三部定理二三が論拠になって証明されるのは第三部定理二六です。二五と二六は続いているのに,二一と二三はそうではありません。この間にスピノザは何をいっているのでしょうか。該当する第三部定理二二をみてみましょう。
「ある人が我々の愛するものを喜びに刺激することを我々が表象するなら,我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反して,その人が我々の愛するものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば,我々は反対にその人に対して憎しみに刺激されるであろう」。
第三部定理二一は,愛するものの喜びlaetitiaは自分の喜びであり,愛するものの悲しみtristitiaは自分の悲しみであることをいっていました。それに続けてスピノザは,愛するものを喜ばせるものに対して愛amorを感じ,愛するものを悲しませるものに対しては憎しみodiumを感じるといっていたのです。
この定理Propositioを証明するのは簡単です。なぜなら,愛するものの喜びが自分の喜びであるなら,愛するものを喜ばせるものが自分に喜びを齎すことになります。逆に愛するものの悲しみは自分の悲しみなのですから,愛するものを悲しませるものは自分にも悲しみを齎すでしょう。これらはそれぞれ,愛するものを喜ばせるものという観念ideaを伴った喜びであり,愛するものを悲しませるものという観念を伴った悲しみです。よって第三部諸感情の定義六により,自分が愛するものを喜ばせるもののことを愛し,第三部諸感情の定義七により,自分が愛するものを悲しませるもののことを憎むといっているのと,これらは同じことになるからです。
ここから分かるように,僕たちはあるものを愛すれば,とくにその対象が人間である場合に顕著ですが,その愛によって別の愛や憎しみが容易に発生するようになっているのです。
第二種の認識cognitio secundi generisは徳virtusあるいは至福beatitudoであったとしても,最高の徳ではないし最高の至福でもありません。それは第三種の認識cognitio tertii generisの方にあるのです。スピノザが徳とか至福ということばを用いることによって,何らかの倫理的観点をそこに導入しているのは間違いないといえるでしょう。そうであるならスピノザにとって人間の倫理の最高の目標になるのは,第三種の認識によって個物res singularisを認識し,そしてそれだけ多く神Deusを認識するということにあったのも間違いないところだと僕は考えます。
このような事情に顧慮するならば,『破門の哲学』においてフレイスタットの見解に沿う形で,『エチカ』を支える定義Definitioや公理Axiomaのすべてが第三種の認識によって齎されていると結論されているのは,理があるところだといわなければならないでしょう。そもそもスピノザ自身が第三種の認識によって多くの事物を認識しているのでないとしたら,スピノザがそれを人間にとって最高の倫理的目標であると主張すること自体が不可能であるといったとしても,それは不条理なことをいっているわけではないと解さなければならないからです。
しかし僕は,『エチカ』を支えている諸原理は,第二種の認識によって齎されている,いい換えれば『エチカ』は第二種の認識に基づくことによって記述されていると考えています。僕がこのように考える根拠は,ふたつあります。
まず,第三種の認識についてスピノザは直観知scientia intuitivaと名付けています。対して第二種の認識についてそれを理性ratioと名付けています。ですが直観というのは明らかに認識cognitioの様式を示しますが,理性というのは精神の能動actio Mentisを示そうとするならともかく,認識の様式を示すためによい命名であるようには僕には思えません。そこで認識の様式として直観に対して僕は理性のことを推論ということにします。第二部定理四〇で示されている思惟作用がある人間の精神mens humanaのうちに直観としてではなく生じるという場合,これを推論と名付けるのはさほど無理がないことだと思うからです。
僕の考えでは,スピノザの哲学ではこの場合の推論は,直観と対立的な認識の様式ではありません。他面からいうなら,直観は推論を排除しません。
「ある人が我々の愛するものを喜びに刺激することを我々が表象するなら,我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反して,その人が我々の愛するものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば,我々は反対にその人に対して憎しみに刺激されるであろう」。
第三部定理二一は,愛するものの喜びlaetitiaは自分の喜びであり,愛するものの悲しみtristitiaは自分の悲しみであることをいっていました。それに続けてスピノザは,愛するものを喜ばせるものに対して愛amorを感じ,愛するものを悲しませるものに対しては憎しみodiumを感じるといっていたのです。
この定理Propositioを証明するのは簡単です。なぜなら,愛するものの喜びが自分の喜びであるなら,愛するものを喜ばせるものが自分に喜びを齎すことになります。逆に愛するものの悲しみは自分の悲しみなのですから,愛するものを悲しませるものは自分にも悲しみを齎すでしょう。これらはそれぞれ,愛するものを喜ばせるものという観念ideaを伴った喜びであり,愛するものを悲しませるものという観念を伴った悲しみです。よって第三部諸感情の定義六により,自分が愛するものを喜ばせるもののことを愛し,第三部諸感情の定義七により,自分が愛するものを悲しませるもののことを憎むといっているのと,これらは同じことになるからです。
ここから分かるように,僕たちはあるものを愛すれば,とくにその対象が人間である場合に顕著ですが,その愛によって別の愛や憎しみが容易に発生するようになっているのです。
第二種の認識cognitio secundi generisは徳virtusあるいは至福beatitudoであったとしても,最高の徳ではないし最高の至福でもありません。それは第三種の認識cognitio tertii generisの方にあるのです。スピノザが徳とか至福ということばを用いることによって,何らかの倫理的観点をそこに導入しているのは間違いないといえるでしょう。そうであるならスピノザにとって人間の倫理の最高の目標になるのは,第三種の認識によって個物res singularisを認識し,そしてそれだけ多く神Deusを認識するということにあったのも間違いないところだと僕は考えます。
このような事情に顧慮するならば,『破門の哲学』においてフレイスタットの見解に沿う形で,『エチカ』を支える定義Definitioや公理Axiomaのすべてが第三種の認識によって齎されていると結論されているのは,理があるところだといわなければならないでしょう。そもそもスピノザ自身が第三種の認識によって多くの事物を認識しているのでないとしたら,スピノザがそれを人間にとって最高の倫理的目標であると主張すること自体が不可能であるといったとしても,それは不条理なことをいっているわけではないと解さなければならないからです。
しかし僕は,『エチカ』を支えている諸原理は,第二種の認識によって齎されている,いい換えれば『エチカ』は第二種の認識に基づくことによって記述されていると考えています。僕がこのように考える根拠は,ふたつあります。
まず,第三種の認識についてスピノザは直観知scientia intuitivaと名付けています。対して第二種の認識についてそれを理性ratioと名付けています。ですが直観というのは明らかに認識cognitioの様式を示しますが,理性というのは精神の能動actio Mentisを示そうとするならともかく,認識の様式を示すためによい命名であるようには僕には思えません。そこで認識の様式として直観に対して僕は理性のことを推論ということにします。第二部定理四〇で示されている思惟作用がある人間の精神mens humanaのうちに直観としてではなく生じるという場合,これを推論と名付けるのはさほど無理がないことだと思うからです。
僕の考えでは,スピノザの哲学ではこの場合の推論は,直観と対立的な認識の様式ではありません。他面からいうなら,直観は推論を排除しません。