古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

憲法1条と9条

2016-07-21 | 読書
 憲法1条と9条、無関係と思っていました。それが密接な関係があると教えられ、溟を開かれた思いです。。
『憲法の無意識』(柄谷行人著、16年4月岩波新書)を読んだのです。
戦後憲法の9条(戦争放棄)は1条(天皇象徴制)のために必要なものであり、2次的なものであった。当初(制定時)は1条の方が重要だったのが、現在に至って1条と9条の重要性が逆転した。何故逆転したのか。
 その理由は1条(象徴天皇制)が定着したからです。昭和天皇の時代には、それはまだ定着していなかった。戦前、天皇が立憲君主の制約を超えて政治にかかわったことは、はっきりしていますし、そもそも終戦の決断を天皇がしたことは確かです。さらに戦後の被占領下でも、彼は占領軍のいいなりになっていたわけではない。むしろ能動的にふるまった。天皇の関心は皇室の維持にあり、重要だったのは日本の安全保障でした。そのため米軍による安全保障をマッカーサーに求めた。
 新憲法発布後も、「象徴天皇」にとどまることなく、さまざまな政治的介入をしています。
 1947年9月、米側にメッセージを送り25年から50年あるいはそれ以上、沖縄を米国に貸し出すという方針を示した。これにより、沖縄では現在に至るまで在日米軍基地の74%が集中する「軍事植民地」状態が続いています。従って、憲法1条が真に定着したのは1989年、明仁天皇の即位後です。
 1989年は天皇が逝去しただけでなく、奇しくもソ連圏の崩壊が始まり、その後に湾岸戦争がはじまりました。 この時、日本の中東派兵をめぐって9条が問題になりました。

 連合国軍総司令官マッカーサーは、日本を占領統治するために、天皇制の維持をはかり、それに対する連合軍諸国の反対を説得するために9条を持ってきたのです。マッカーサーが独自に考え出したことというわけではない、誰かアドバイザーがいたのだと思います。彼が日本を統治するためには天皇制が必要だった。日本で政治権力を握った者は、藤原氏以来、必ず天皇の権威に基づき統治しようとした。マッカーサーもその故智に学んだのです。
マッカーサーは、天皇制を守るために、9条を作ったのに、今や天皇が9条の庇護者になっているのです。
 第二次世界大戦後、占領軍は天皇制ファッシズムの基礎となったものを徹底的に除去しようとした。陸海軍の否定、農地改革、財閥解体など。その一方で、マッカーサーは、天皇制を残そうとした。その時、」彼はかつての日本の権力者の知恵を受け継いだ。実際、日本史をふりかえると、戦後憲法におけるような天皇の在り方は、近代以前の天皇制の常態であった。
 明治憲法は、戦後憲法と違って、自主的に作られ、外から強制されていないといわれますが、事実ではありません。明治憲法をつくったのは、外に対して、日本が近代国家であることを示すためでした。それによって、幕末に締結された不平等条約を廃棄するためです。その意味では、明治憲法も外部への強い緊張に強いられて作られたのです。
 更にいうと、明治憲法を作ったのは、憲法にかかれていない存在、つまり元老たちです。おまけに彼らは一枚岩ではない。たとえば、伊藤博文と山形有朋の対立があります。それは条文そのものからは見えないが、条文における矛盾、あるは曖昧さに現れています。
 天皇に関しても、どうにでも読める。憲法の解釈として、天皇主権説も天皇機関説も成り立つのです。興味深い事実があります。天皇機関説の美濃部達吉は戦後、枢密顧問官として新憲法草案の審議に加わりましたが、国民主権に基づく新憲法作成に反対しました。理由は、明治憲法の下でも議会制民主主義は可能であり、明治憲法に基づく以上「国体」を変えるような新憲法はあり得ない。彼は審議に反対し、採決では棄権しました。