尾張名古屋のNOZUEです。
「わが人生の歌語り」、第1回から第5回までのアンコール放送が、8日の日曜日から今日まで毎朝4時から放送されました。これを聴くために、5日間、朝4時に起きました。
今朝は、特に懐かしい歌が放送されました。
「湖畔の宿」
「蘇州夜曲」
「南の花嫁さん」
「誰か故郷を思わざる」
「新雪」です。
昭和15~17年頃の歌ですが、戦時にこんな美しいメロデイの歌を生み出した日本人は、「捨てたものじゃないな」と思いました。
放送では、「誰か故郷を思わざる」を、オリジナルの霧島昇でなく、冠二郎がうたっていたのが珍しい。語り手の五木寛之さんが、冠二郎に特にこだわりがあったのでしょう。
戦時の歌と言えば、昨日は「麦と兵隊」(徐州々々と人馬は進む・・・)が放送されていましたが、日本の軍歌というのは、何か哀切なメロデイがあります。
軍歌ではないのですが、「明日はお立ちか」も昨日の放送にありました。これは、オリジナルは勝太郎ですが、珍しや、天道よしみがうたっていました。
「明日はお立ちか お名残おしや・・」という歌です。
この歌には個人的な思い出があるのです。
昭和45年、愛知県の労働組合役員の中から3名(三重県から1名)の中の一名に選ばれて、米国国務省招待の米国見学に出掛けることになりました。
当時のD社の社長(創業者)がとても喜んでくれて、お祝いに円頓寺(えんどうじ)の料亭につれていってくれました。
宴なかば「おまえ、歌を歌え!」と言います。明治27年生まれの社長の知ってる歌でないと、と私が歌ったのが、この「明日はお立ちか」です。私が小さい頃、親父がよく口ずさんでいた歌でした。
社長が、すっかり喜んで一緒に合唱してくれました。
5日間で24曲の懐メロを聴きました。私は五木寛之さんとは4歳違いですが、ほぼ同世代といえるでしょう。すべて、私にはおなじみの歌ばかりでした。
その中で、(上記の曲以外で)オリジナルと違う歌手がうたった曲を下記します。
影をしたいて 五木ひろし
花嫁人形 山崎ハコ
別れのブルース 青江三奈
それぞれに、味のある歌い方でした。良い歌は、世代が変わっても歌い継がれます。
「わが人生の歌語り」、第1回から第5回までのアンコール放送が、8日の日曜日から今日まで毎朝4時から放送されました。これを聴くために、5日間、朝4時に起きました。
今朝は、特に懐かしい歌が放送されました。
「湖畔の宿」
「蘇州夜曲」
「南の花嫁さん」
「誰か故郷を思わざる」
「新雪」です。
昭和15~17年頃の歌ですが、戦時にこんな美しいメロデイの歌を生み出した日本人は、「捨てたものじゃないな」と思いました。
放送では、「誰か故郷を思わざる」を、オリジナルの霧島昇でなく、冠二郎がうたっていたのが珍しい。語り手の五木寛之さんが、冠二郎に特にこだわりがあったのでしょう。
戦時の歌と言えば、昨日は「麦と兵隊」(徐州々々と人馬は進む・・・)が放送されていましたが、日本の軍歌というのは、何か哀切なメロデイがあります。
軍歌ではないのですが、「明日はお立ちか」も昨日の放送にありました。これは、オリジナルは勝太郎ですが、珍しや、天道よしみがうたっていました。
「明日はお立ちか お名残おしや・・」という歌です。
この歌には個人的な思い出があるのです。
昭和45年、愛知県の労働組合役員の中から3名(三重県から1名)の中の一名に選ばれて、米国国務省招待の米国見学に出掛けることになりました。
当時のD社の社長(創業者)がとても喜んでくれて、お祝いに円頓寺(えんどうじ)の料亭につれていってくれました。
宴なかば「おまえ、歌を歌え!」と言います。明治27年生まれの社長の知ってる歌でないと、と私が歌ったのが、この「明日はお立ちか」です。私が小さい頃、親父がよく口ずさんでいた歌でした。
社長が、すっかり喜んで一緒に合唱してくれました。
5日間で24曲の懐メロを聴きました。私は五木寛之さんとは4歳違いですが、ほぼ同世代といえるでしょう。すべて、私にはおなじみの歌ばかりでした。
その中で、(上記の曲以外で)オリジナルと違う歌手がうたった曲を下記します。
影をしたいて 五木ひろし
花嫁人形 山崎ハコ
別れのブルース 青江三奈
それぞれに、味のある歌い方でした。良い歌は、世代が変わっても歌い継がれます。