古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

宇和島紀行(1)

2009-05-05 | マラソン
ゴールデンウィークの旅の報告、ご笑覧ください。(少し長くなってごめんなさい。)

30日夜11時10分の伊予鉄高速バス「八幡浜行き」に乗車しました。

夜行バスは16年ぶりぐらいです。昔はマラソンのたびに夜行バスを使ったのですが、最近の遠距離旅行は、JRのジパング料金の3割引で出かけるのですが、今回はGW中でジパングが使えないので、久しぶりの夜行バスです。

エンジンの音がやかましくて、なかなか眠れません。でも、運転手の「吉野川SAです。休憩しますが5時20分までにお戻りください」、マイクの声に、はっと気がつくと、時計は5時5分。いつの間にか寝入っていました。「吉野川って言ったから、瀬戸大橋でなく、明石海峡大橋を渡って来たんだ」。運転手に「このバスは明石海峡大橋を渡ってきたの?」と聞くと「そうです」。トイレ休憩の後、再び走り出し、松山に7時10分過ぎ、終点・八幡浜には10分遅れの8時45分に到着しました。古くからの港町ですが、最近は森進一の港町ブルースですね。

『・・・明日はいらない 今夜が欲しい
港 高知 高松 八幡浜』



バスを降りると、JRの駅の隣でした。駅で時刻表を見ると、普通電車よりも特急の方が多い。8:59の「特急いしづち」に乗って30分。宇和島駅です。ホームに入る電車の窓から、今夜の宿の看板が大きく見えました。

宇和島は、ごく最近まで、日本国の街道のゆきつく果てと言われていた。司馬遼太郎の「街道を往く」では、

『いまでも国鉄のレールは宇和島駅で終わっている。昭和30年代にはじめて宇和島へ行ったとき、駅の構内のむこうで線路が果てているのを見て、つよい感動を持った。日本中の鉄道がなんらかの形で循環しているものだとおもっていただけに、宇和島という町は鉄道文明の上からみても最涯であることを感じたのである。(南伊予・西土佐の道)』

注:高知県の窪川までを結ぶ予土線が昭和49年に開通し、宇和島駅は四国を循環する鉄道路線の一環となった。


駅を出ると、駅頭にSLがある。勿論、JRのレールの最涯てという意味ではない。「汽笛一声新橋を・・」の鉄道唱歌を作詞した大和田建樹の出生の地であることに因んでいる。

駅前のホテルに荷物を預けて、早速、宇和島城に出かけました。

『日本で現存する12城・・・北から。弘前城、松本城、犬山城、丸岡城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城・・・』この12城が、再建でないお城と言われます。考えてみると私は、宇和島城はまだ行ったことがなかったが、他の11の城は、総て訪れている。

宇和島の城、是非機会を作って訪ねてみたいと考えたのが、今回の旅のきっかけでした。


お城に近づくと急坂になります。何かトレーニングをやっていたらしく、三々五々、女子学生の集団が降りてきた。私を見ると、口々に大きな声で「オハヨウゴザイマス」と挨拶する。古い町に伝わる良風美俗かな?

 城は慶長年間、藤堂高虎によって築かれた。その後、伊達政宗の長子秀宗が入城し宇和島伊達藩が始る。政宗が、徳川に遠慮して、秀吉に仕えていた秀宗を廃し、仙台伊達家を次男に継がせたので、幕府は宇和島10万石を秀宗に与えたという。

藤堂高虎は築城の名手と言われ、高虎縄張りの城は各地にある。今治、津、伊賀上野・・

あたかも、日本庭園に小堀遠州作という庭園が多いように、城は高虎の普請が多い。そういえば、小堀遠州は、確か、藤堂高虎の女婿だった。

最初に突き当たるのが、桑折(こおり)長屋門。門を通して後ろの石垣が見える。

そう、この城は石垣と石の階段が圧巻でした。天守閣までの坂道は良い運動になります。

天守から降りてきたら、山里倉庫(城山郷土館)という建物が目についた。中に入ってみたら、観光客は他にいなかったので、管理人と思しき男性が、丁寧に展示品の説明をしてくれた。昔、三の丸の武器倉であった建物で、現在は古い民具や古写真を展示している。(続く)