古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

大東亜戦争調査会

2016-12-03 | 読書
『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』1(加藤陽子著、2016年8月、朝日出版)を読んでいて、これは今年小生の読んだ本の中のベストワンにランクされる?と思いました。
 日本が太平洋戦争に至るまでの3つの事件、リットン報告書、日独伊三国軍事協定、戦争前夜の日米交渉を採りあげて当時の外交交渉の内幕を述べた本ですが、高校生を対象とした連続講義を本にまとめたので、難しい内容を分かり易く解説しています。
 東京裁判について、戦勝国の報復裁判であって公平なものではないという批判をよく耳にします。しかし、少なくともこの戦争において数百万の日本人が犠牲になり、国富の大方を失ったわけですから、日本の失敗であったことは間違いない。どこで、日本は誤ったのか、それは誰の責任であるかを、日本人自身が明らかにすることは、裁判と言う形をとるかどうかは別にして、必要があり、それを明らかにせず、東京裁判を批判するのは間違いだと私は思います。
 この本の終章にこういう記載がありました。
『敗戦から3ヶ月後、大東亜戦争調査会という組織がつくられました。政府の公式の機関で、幣原内閣が設けた機関でした。45年10月の閣議で、次のように説明されていました。
“大東亜戦争敗戦の原因、および実相を明らかにすることは、これに関し冒したる大なる過誤を、将来において繰り返さざらしむるがために必要”
 この大東亜戦争調査会は、当初の決定では、半永久になされるものの筈でした。第1回会議で、幣原は次にようにのべています(1946年6月27日)
“今日我々は、戦争放棄の宣言を掲ぐる大旗をかざして、国際政局の荒漠たる野原を単独に進みゆくのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍にお目を覚まし、結局私どもと同じ旗をかざして、後方についてくる時代があらわるでありましょう。我々は、この際、戦争の原因および実相を調査いたしまして、その結果を記録に残し、もって後世国民を反省せしめ、納得せしむるに充分力のあるものにいたしたいと思います。”
幣原は第二回でも、こう述べていました。
“戦勝国にせよ、敗戦国にせよ、戦争が引き合うものでない、この現実なる参考を作る。「中略」将来我々の子孫が戦争を考えないとも限らない。その時の参考に今回の史料が非常に役立つような調査をせねばならぬ。”
 この戦争調査会の史料は国立公文書館に所蔵されていて、知る人ぞ知る史料でしたが、ようやく、2015年10月『戦争調査会事務局書類』(ゆまに書房)として刊行され、手軽に読めるようになりました。
 調査会は、立派な志でつくられたものでしたが、実は残念な結果になった。
46年4月、GHQの諮問機関として対日理事会が設置されます。この理事会で、イギリスとソ連が、調査会の動きに警戒感を示しマッカーサーに対し、調査会を解散させるべきと意見を述べた。「戦争の原因を考え、犯罪人を処罰するのは極東国際軍事裁判の任務だというんです。マッカーサーは、この勧告に従い調査会を解散させました。
 占領下におかれ、外交権も失っていた日本にとっては、対日理事会の報告は絶対であり、また、天皇を利用した間接統治を行いGHQによる憲法草案の線で占領改革を行いたいマッカーサーとしても、対日理事会の勧告に従う方が便利だった。』
あらためて太平洋戦争の原因に思いを馳せる本でした。

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