古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

秘密解除 ロッキード事件

2016-08-06 | 読書
『秘密解除 ロッキード事件』(岩波書店)を読みました。
この本の要約が、週刊朝日の8月8日号に「米国に嫌われた宰相 田中角栄の孤独」というタイトルで載っていました。これを見て、要約でなく原本を見てみたいと書店で取り寄せてGETしたのです。
朝日の記事は、著者自身の要約ですから、まことにうまく要約されていました。ですから、要約を知りたければ朝日の記事を読めばいいのです。でも、全9章から生るこの本の9章は要約ではカットされていました。その9章が面白いのです。そこで、以下に紹介いたします。9章は、“考察 本当に「角栄は虎の尾を踏んだ」のか”です。
 アメリカ発でロッキード事件が明るみにでて田中角栄が逮捕されて以降、日本国内では「田中首相はアメリカを怒らせたから事件に連座させられた」という仮説が根強く幅広く流布され今や定説になっている。
 中曽根康弘もそれを信じる政治家の一人だ。
 「田中君は、国産原油、日の丸原油を採ると言ってメジャーを刺激したんです(中略)ソ連のムルマンスクの天然ガスをどうするとか、そういう石油取得外交をやった。それがアメリカの琴線に触れたのではないかと思います。」(『天地有情』文藝春秋、1996年)
 田中は、その政策によってキッシンジャーらの反感を買ったのではなく、その人となりを理由に、米政府内部の会議で、あしざまに非難され、軽蔑された。「独自の資源取得得外交」を理由に田中や日本政府が米政府に敵視されたり、やり玉に挙げられたりしたことを示す文書は、もしそれがあるのだとすれば秘密指定をとっくに解除されているはずだが、私のリサーチでは米国国立公文書館にも大統領図書館にも見当たらない。チャーチ小委員会で主席スタッフとして調査を担当したジェローム・レビンソンは「率直に言ってそれ(独自の資源取得得外交」)が動機ではない」と答えた。「日本とロッキード社の関係の追求に力を入れたのは、第二次世界大戦でアメリカの敵だった人物の中で最悪の敵だったといえる右翼の大物、児玉誉士夫へのカネの流れがあったからだ」。この言葉にウソはないとの心証を私は得ている。
 ニクソンがいなければウオーターゲート事件がああいう風に拡大することはなかったし、ウオーターゲート事件の捜査がなければ、ノースロップ社のヤミ献金が表ざたになることはなかっただろうし、上院や証券取引委員会の調査に米国民の支持が寄せられることもなかっただろう。米国で田中はニクソンと同類であるとみられた。ロッキード社からカネを受け取った世界各国の政治家の中で、田中が真っ先に逮捕された背景に、米国内でのロ社首脳の自白と米司法省の捜査協力があり、米国務省がその捜査協力を差し止めなかった事実がある。国務省の捜査協力の背景には、事実上米国の外交を取り仕切ったキッシンジャーの田中への軽蔑の念が少なからず影響した可能性は否定できない。キッシンジャーは、政策でなく、その人格の側面から田中を蛇蝎の如く嫌っており、その意味で田中は米国の「虎の尾」を踏んでいたと言える。
しかしここで私が重要だと考えるのは、「虎の尾」説が真実であるかどうかではなく、多くの日本人が「虎の尾」説を信じていること。日本で「アメリカの虎の尾」が恐れられているという事実である。
 米国に楯突けば何らかの謀略で失脚させられ、政治的に葬り去られるのではないかという恐怖、米国を敵に回すことをタブーとする思考が、少なからぬ数の日本人政治家の潜在意識の底に沈殿した。これは紛れもない事実だ。
 日本の政府や国会にいる少なからぬ数の政策決定者が、米国の虎の尾を踏めば政治的に葬り去られる恐怖や懸念、不安を抱えてきた。それはおそらく1976年以降の日本の政策判断に少なからぬ影響を与えただろう。今もその呪縛は続いているのかもしれない。
 1976年2月15日の朝日新聞社説「見落としてならないことは、米国に日本政界の弱みを握られていて、果たして日本の国益が保てるのか、という懸念が国民の間に長く尾を引くことである。米国の真相秘匿で政治生命を永らえた政治家が、仮に政権の座についたとき、米国に対して大きな負い目を持ち、いわば首根っこを押さえられる恐れが出てくる」
中曽根が米政府に事件の「MOMIKESI」を要請したのはこの社説の四日後である。
 竹下登や中川一郎も「虎の尾」におびえ続けたかもしれない。建設相だった竹下と衆院運輸委員長だった中川はそれぞれ、全日空から裏金を受け取ったとして、76年夏、特捜部から事情聴取を受け、受領を認めた。しかし、その事実は30年間伏せられた。
 中曽根は82年11月に総理大臣となり、竹下は87年11月にその後任となった。二人は、米政府と蜜月の関係だったことが良く知られているが、そういう関係をつくることが、二人にとって必要であったのでは・・・
中曽根が日本列島をソ連に対抗する「不沈空母」にすると公言したり(83年)、蔵相の竹下とともにプラザ合意で急激な円高を事実上容認したことは、米政府にとっておおいに歓迎すべき言動だったが、日本にとって本当に国益だったのかs?
 中川は83年1月に自殺した。自殺の理由は不明だったが、中川の秘書だった鈴木宗男は、次のように述べている(新潮45、2010年10月号)
「中川先生は特捜部の事情聴取を受け、秘匿された事実が、トラウマ7となり精神を苛みました」

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