古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったか

2016-05-05 | 読書
『日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったか』(岩瀬昇著、文春新書2016年1月)という珍しい本を本屋で衝動買しました。
『歴史にもしはないが、日本が満州国を立てたその時代に、大慶油田が発見されていたら、日中戦争は短期でおわっていたかもしれない。いや、大慶油田は、ロシヤ、モンゴルとの国境にちかく、当時日本が調査したジャライノールからは東南へ約660kmも離れていたから難しかったかもしれない。しかし、満州南部の阜新地域は、後に中国三大油田のひとつになったから山ひとつ越えた近距離にある。遼河油田の発見は、大慶に遅れること10年。満鉄・関東軍の油兆調査からは、たかだか30余年後。先進技術を導入し探鉱作業をおこなっていたら、発見できていた可能性高い。
 日本軍の石油探鉱の20年後、1959年、ハルピンとチチハルの間で大慶油田が発見され、さらにその10年後、阜新から山一つ越えた遼河の平原で遼河油田群が発見された。(今日、中国は世界第5位の産油国になっている。)なぜ日本はそのような大油田を発見できなかったのか。油田の発見は、その時代の炭鉱技術と掘削技術のバックアップがあって初めて実現する。満州の石油探鉱は軍事機密であったので、米国のコントラクターを使うわけにいかなかった。
 昭和10年代、「もし」満州の地で石油を発見してとしたら、英米の干渉を「面従脵背」で受け入れ、中国本土からは撤兵し、満州・朝鮮・台湾を版図として、ゆっくり帝国の建設ができたかもしれない。』
という内容の本でした。
 戦争中の、石油の調達計画についてもの述べられていますが、その杜撰さに驚きます。飛行機も軍艦も油がなければ動かない。その石油の8割を開戦時アメリカからの輸入に頼っていた。アメリカが日本への石油輸出を禁じた時、逆上し、南方の生産地を抑えれば何とかなるというつもりで開戦したが、南方油田は奪取したものの石油を運ぶタンカーが米軍の飛行機・潜水艦の攻撃で壊滅してしまった。
 海軍には「商船護衛」という概念がなかった。艦隊決戦という思想はあっても、補給路を断つという戦略思想は全くなかったという。
このことは、改選前から想定されていた。猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』によると、昭和15年、近衛内閣に設置された「総力戦研究所」で、メンバーの前田(日本郵船)は、日米開戦となった場合の船舶消耗率を計算したところ、南方で油田を確保しても輸送ができなくなる、と指摘した。
でも、この本での筆者が歴史を振り返り、主張するのは、「戦争でなくても、平時においても、石油が入ってこなければ日本はやっていけないので、そういう事態に対応する策は考えておかないといけない。
戦争になれば油が入ってこない事態がおきるのだから、平和の維持こそ日本の基本的国策でないといけない。」ということ。
 話は別ですが、海岸線に50余基の原発が並ぶ日本は、ミサイルで原発を狙われると、おしまいですから、戦争が出来ない。戦争を開始させない政策を最優先すべきでしょう。

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