古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

菜の花忌

2008-02-14 | 読書
 12日、友人からのきれいな菜の花写真のメールを見て、「ああ今日は菜の花忌だ」と気がつきました。

 司馬遼太郎さんが亡くなったのは1996年ですから満12年、13回忌になるわけですね。当時、まだ現役でした。当日は振替休日でしたが、翌日出勤して、誰か司馬さんの死去を話題にするかと思ったのですが、誰も言及する人がいなかったので、「これほどの国民的作家が亡くなったのに」と腹を立てました。これは腹を立てる方が悪かったかなと、後で思いもしましたが、でも美空ひばりが亡くなった日は、出勤すると、お茶を入れてくれた女性が(その時は工場長だったのでお茶を入れてくれました)「ひばりが亡くなりましたネ」と話し掛けてくれました。
 勿論、「ひばり」は偉大な歌手でしたが、司馬さんも偉大な作家だったのに、と思います。
 2月1日、朝日新聞社から「週刊 司馬遼太郎Ⅲ」という本が出ました。週刊朝日に連載されているものを纏めた本ですが、巻頭の写真が「壱岐・対馬」で、自分が度々訪れた場所なので、気に入り買っておきました。「新史太閤記」の秀吉、「義経」、「翔ぶが如く」の西郷隆盛、「花神」の大村益次郎を題材に、司馬さんの担当記者だった朝日の記者が、ゆかりの地を訪ね、かつ司馬文学を紹介しています。
 読み終わって、話題はいろいろありましたが、一つだけを紹介。
 大村益次郎、長州の百姓医者だった彼を抜擢したのは宇和島藩主の伊達宗城だった。黒船来航に、宗城は宇和島藩で黒船を作ることを決意し、大村を呼んで士分に引き上げ、宇和島城下の大工嘉蔵と共に蒸気船製作を命じた。勿論、二人の作った蒸気船は宇和島の内海をちょろちょろ動く程度だったが、それにしても、黒船来航後3年で蒸気機関を作ったというから凄い!

 宇和島の殿様は、長寿の家系だったらしく、宗城の父、宗紀公は100歳を越えたという。
 【司馬さんも宗紀の長寿については、「街道を往く14 南伊予土佐の道」で触れている。
長寿の秘訣を聞かれた宗紀は言った。
<―――それは女色を遠ざけることです。
と、訪客が驚き、御前は幾歳のときから婦人を遠ざけられましたか、ときくと、
「70のときからです」と真顔で答えられたという。>】
 このくだり、10数年前に読みましたが、その時は、とても面白かった。

 でも、今回 再度読んだのですが、あまり面白くない。自分が70歳を越えたら、全然面白くなくなった。皆さんは面白いでしょうか?

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