古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

終生、ヒトのオスは飼わず

2016-05-21 | 読書
東区の図書館で新着雑誌をチェックしていたら「米原万理さんがなくなって10年になる」という記事を見つけました。そこで、「米原さんの著書を読んでみるか」と、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(第33回大宅壮一ノンフィクシヨン賞受賞)と「終生、ヒトのオスは飼わず」を借りてきました。「終生、ヒトのオスは飼わず」は彼女の「私の死亡記事」という作品のタイトルです。ユーモアたっぷりに彼女の人生を記していますので、彼女を良く知らない方のため、全文引用して紹介します。
『米原万理さんが2025年10月21日未明に息を引き取った。享年75.死因は狂犬病と推定されるが、息を引き取る直前の極度の呼吸困難を不審に思った医師が遺体を解剖に回したところ、肺に大量の猫の毛が詰まっていて、「まるで掃除機の集塵容器のようであった」とのことである。
 2週間前の10月6日早朝、米原さんは同じホームの仲間たちと食べ歩きの旅の途中で立ち寄った香川県丸亀市にて野良犬たちに前夜に食べ残したビフテキを配ったところ、一匹に手を軽く噛まれたのが命取りになった。かってパサパサのサンドイッチ2人前を飲み物なしに平らげて「つばき姫」の異名を得た米原さんは、決し食べ物を残す人ではなかったのだが、四国入りしてから魚続きであったため、無性に肉が食べたくなりビフテキを注文したものの、口に合わず、宿の前にたむろする野良犬たちのことを思いだしたのであった。意識がなくなる直前に言った「やはり四国は魚料理は美味いけど、肉は・・・」が最後の言葉となった。前世紀末、日本における狂犬病は絶滅したのだが、大量に輸入されるペット経由で瞬く間に広まり、本年中の狂犬病による死者は、これで7人目となる。
 米原さんは少女期の5年間を両親の赴任先であったチェコのプラハ市で過ごし、旧ソ連外務省直営のロシヤ語学校に通った。日本的な和を貴ぶコミュニケーシヨンには終世なじめず、「舌禍美人」と呼ばれる性格も災いして大学院卒業後、就職できず、フリーのロシヤ語通訳者となるも、冷戦時代の日ソ関係に翻弄されて収入は極めて不安定であった。そのため仲間たちとともに互助組織ロシヤ語通訳協会を立ち上げて事務局長、会長を歴任し、「えっ勝手リーナ」とあだ名された。
 前世紀91年に起こったソ連邦崩壊前後のロシヤ語需要激増の波に乗ってテレビ等の同時通訳者として稼ぎまくり、鎌倉に「ペレストロイカ御殿」を建設。通訳現場で拾ったネタをもとにしたエッセイで続けざまに文学賞を受賞した。しばらくは通訳業の産業廃棄物を出版業界に流して甘い汁を吸っていたが、ネタ切れになった頃チェコ時代の体験をもとにノンフィクシヨンと小説を著して、それぞれ文学賞を授けられる。以後、原稿書きに追われる日々が続いたが、「締め切りを守らなくても死にゃしない」とうそぶいて確信犯的に締め切りを引き伸ばし、「人生は生き直せないが、原稿はゕき直せる」と豪語して毎回ゲラを真っ赤にして返しているうちに編集者たちに忌避され、本が売れなくなったのを機に全く執筆の依頼が来なくなった。
 それで、かねてから独身の通訳仲間たちと計画していたグループ・ホームを自宅をベースに、NPO[アルツハイム]としてを立ち上げ代表に就任。ホームの財政を支えるため、犬の散歩屋と猫のシャンプー屋を開業するも。加齢とともに野良犬や野良猫を保護する癖が強まり、最近はその数98頭に達して近隣から臭気や吠えをめぐり苦情が絶えなかった。現在アルツハイム」に残された犬猫たちの里親を募集中である。なお。通夜は10月23日18時~、葬儀は24日正午~、いずれも「アルツハイム」にて。喪主は故人の遺言に従い、養子の無理さんと養女の道理さんが勤めるが、両名とも猫であるため、念のため人間を代表して妹の料理研究家、井上ユリさんも名前を連ねる。』
小生の追伸。井上ユリさんは、作家井上ひさしさんの夫人。米原万理さんは2006年10月25日死去。