古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

21世紀の資本主義論(2)

2016-05-16 | 読書
 資本主義経済の危機は、貨幣経済の危機であることを著者は主張する。
 新古典派経済学にはミクロ経済学はあってもマクロ経済学はない。なぜならば、市場の「見えざる手」が円滑に働いているかぎり、家計や企業のミクロ的な経済行動と、このような行動の結果の集計としてのマクロな経済状態の間にはつねに均衡が保たれているはずだからである。したがって、新古典派の想定する理想的な経済状態では、マクロ的な経済状態はミクロ的な経済状態のたんなる集計値にすぎず、大量の非自発的失業や加速的なインフレーシヨンといった「マクロ経済に固有な現象」など存在する余地もない。
 マクロ経済学がミクロ経済学のたんなる集計版ではない独自性を持つとしたら、それは現実の市場経済が、新古典派の想定する世界とはかけ離れた世界であるからだ。市場の「見えざる手」が円滑に働かないからこそ、我々はミクロ的な経済行動のたんなる足し合わせに還元できないマクロ経済学という現象を経験することになるのだ。
 マクロ経済学とは、「見えざる手」の働かない世界に関する経済学である。
もちろんミクロ経済学の教科書にも「市場の失敗」の例は数多く解説されている。が、市場の失敗に関するこれらの研究をそのままマクロ経済学と同一視はできない。
 実は我々が生きている市場経済が大量の失業や加速的インフレといったマクロ的現象に繰り返し見舞われるのは、それが正真正銘の「貨幣経済」であるからなのである。
マクロ経済学とは、結局、貨幣経済の不均衡に関する経済学にほかならない。
マクロ経済学という学問がはじめて市民権を得たのは、1936年ケインズが「雇用・利子および貨幣の一般理論」を出してからである。マクロ経済学は、ケインズ経済学の別名でもある。
市場経済の中では、貨幣を媒介とするモノを売り買いすること自体が、無限の将来に向けての投機そのものである。市場経済の中で生産し、交換し消費するすべての人間が投機家である。投機は危機を生み出す。市場経済とは本来的に危機を内在させる社会である。
アダムスミスの理論が思考せずに済ませていたことが、「投機」の問題で、「投機」について思考するとは、アダム・スミスが思考せずにすませていたことを思考し直すことだ。
多数の投機家が、たんに生産者と消費者のあいだに仲介するだけでなく、お互い同士売り買いし始めると、市場はまさにケインズの「美人コンテスト」の場に変貌する。そこで成立する価格は、実際のモノの過不足の状態から無限級数的に隔離し、究極的にはすべての投機家が予想しているから市場価格として成立するということになる。市場価格は実体的な錨を失い、ささいなニュースやあやふやな噂をきっかけに乱高下を始めてしまう。
20世紀末に突然襲った金融危機とは、ケインズの「美人コンテスト」原理による金融市場の本質的不安定のひとつの例である。こうした金融危機は、21世紀のグローバル市場経済においてもくり返し起こるだろう。しかし、この種の危機がバーツやレアル、円やユーロの危機にとどまっている限り、グローバル市場経済の根底を揺り動かすような危機にはなりえない。真の危機は、基軸通貨としての「ドルの危機」である。