古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

街中の寺社めぐり

2013-12-17 | 旅行


12月13日、今年最後の住宅シニアクラブのウオーキングでした。
とても寒い日になりましたが、総勢11名がそろいました。9時半、出発。今日は13日の金曜日でしたが、仏教や神道には関係ないと、街中の寺社めぐりです。
地下鉄の東別院駅の4番出口を出ると東別院の交差点。目の前に名古屋テレビの社屋が見えます。その北隣が、下茶屋公園です(上写真)。東別院の回遊式庭園で、池の周りに、枝ぶりの見事な樹木が多い。庭園を通り抜けると、東別院。この辺りは、かつて織田信秀(信長の父)の居城、古渡城であったが、尾張藩主二代光友公がその敷地1万坪を寄進して真宗大谷派名古屋別院となった。
別院を出て西北に行くと、栄国寺という寺があった。ここで1664年キリシタン200余名が処刑され、光友公はその菩提を弔って、この寺、浄土宗の寺だが、創建した。

切支丹塚、それに、ここには朝鮮通信使が訪れたらしく記念碑がある。
直ぐ西側に妙善寺という寺がある。七面女神像が有名です。尾張藩第二代、徳川光友公の腫物平癒のため、尾張茶屋家二代目、茶屋長以が自ら七面女神像を刻し祈祷、平癒の後、光友公はこの話を聞いて長以の至誠を感じ、神像を城中に迎え拝しました。その後元禄六年(1693年)に松原の控屋敷を挙げて寺地として七面宮を建立、元禄九年(1696年)にお堂は落成して女神像は遷宮されたという。
妙善寺の西北、通りから少し入り込んで日置神社があります。

桶狭間合戦の直前、信長はここで“敦盛―― 人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、” 死のうは一定(いちじょう)・・・と舞ったと伝えられます。
通りに戻り北へ歩くと、大須の門前町。立派な仏壇屋が並びます。
大須の交差点に行くと、左手に七寺(ななつでら)が見えます。

延暦6年(787)、紀是広によって七堂伽藍が建立された故事にちなむ名。
天平七年、僧行基により開創。清洲越しで大須へ移り、尾張徳川藩の祈願所として栄える。太平洋戦争の空襲で焼失、現在に至るとか。
更に西へ、堀川の東通りにぶつかり南へ転ずる。
松重閘門がある。

名古屋市有形文化財。中川運河と堀川を結ぶ水路の水位調節を目的に設計されたが、現在は使われていない。
松重橋東から東へ、松原小学校から南。みちなりに南へ。闇之森八幡社という面白い名の神社があった。
かつて神域には大木が鬱蒼と茂り、それは月の光も射さぬと句に詠まれるほどで、いつしか闇の森と呼ばれるようになった。
 紳馬の像がある。創建は長寛年間。源為朝が石清水八幡宮を勧請したと伝えられるが、千種区の城山八幡もそうだが、八幡社と称せられる所にはなぜか馬の像がある。
 来年は午年だから、記念写真を撮ろうと、うまの前でシャッターを押す。

 お昼時だ。近くの公園で昼食をとる予定だったが、寒い!金山まで歩いて駅構内のベンチで食べようと、20分ほど歩いてゴールの金山駅。5㎞ほど歩いたことになる。
お日様が射してきたので、お弁当を広げる。食べ終わって、駅校内のドーナッツ&珈琲の店に入り、おしゃべりして今年最後のウオーキングを終えました。
 寒かったが、名古屋市内には、こんな神社仏閣が密集しているところがあると、認識させられました。