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古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

藤前干潟から金城埠頭へ

2017-05-21 | 旅行

 

5月20日は今年最初の夏日。駅ちかウオーキングに行きました。築地口から藤前干潟を通って名古屋港金城ふ頭駅まで約9㎞のウオーキングです。地下鉄の中で、隣に座った女性がウオーキングの案内を見ていました。横眼遣いで見ると、駅ちかの案内図ともう一つ別の案内図です。駅ちかは築地口スタートですが、もう一つの方は次の名古屋港スタートです。私は築地口で下車しましたが、女性の方はまだ乗っている。どうやら、もう一つの方のウオーキングに参加するらしい。9時半地下鉄築地駅の④出口から右へ歩き始めました。1kmぐらいで中の島川緑地。

そこから緑地の中の散歩道をあるいて十一屋川緑地です。

この辺りは緑地が綺麗に整備されています。

 「今日は暑くなりそうだ」と思いながら歩きます。

4kmで稲永東公園に着きました。今日は公園内でチェックポイント通過証を配っていました。これをゴールで示すと完歩を認めてくれるのです。公園でコンビニ調達の弁当を取りました。

公園を過ぎると藤前干潟に出た。この日型までは、2,3年前にシニアウオーキングで来たことがあるが、今日はここから先を、伊勢湾沿いに埠頭まで歩くコースです。

藤前干潟は、庄内川・新川・日光川の3河川が合流する河口部に位置し、潮が最も引いたときには238ヘクタール(東京ドーム50個分)の干潟が現れます。年間を通じて100種類を超える水鳥が飛来し国指定鳥獣保護区・ラムサール条約湿地に登録されています。

 野鳥観察館を覗いた後海沿いの道を歩き始めました。約4㎞弱のコースですが、暑さで少々へばりました。

 

途中で「この道でよかったかな」と道に立っているスタッフに確認すると「私たちは駅ちかではないのですが」。「ゴールは金城ふ頭駅です」。「では、この道をまっすぐ行ってください」。12時半やっと金城ふ頭駅に着きました。3時間歩きました。9kmを3時間ですから、いつものペースです。

鐡道館は、新幹線を中心に在来線から超伝導リニアまで39両の実物車両を展示。模型やシミュレータで高速鉄道技術の進歩を学べます。

入館料は1000円ですが、ウオーキング参加者は800円でした。しかし、草臥れていたので「場所はわかったから今度にしよう」とパスして帰ることにしました。

名古屋駅に戻り、地下鉄で東区図書館に行き、雑誌など眺めた後、3時過ぎ帰宅しました。

日課の水泳は疲れていたので、今日はやめました。

 


水泳大会をあきらめてウオーキング

2017-04-30 | 旅行
 
断腸の思いでした。4月29日、安城市のマスターズ水泳大会を棄権することにしたのです。この日を目的に練習してきただけに、棄権せざるを得ないのは、まことに残念でした。すっかりくさくさしたので、気分を治すべき、ウオーキングに行くことにしました。駅ちかウオーキングが、中村公園駅から名城公園駅までのおよそ8km半のコースで開催されていたのです。
「お天気もよさそうだし」と9時半中村公園駅までいきました。③出口で受付して歩き始めました。出口を出ると、アオキスーパー、それに豊国神社の赤い大鳥居(約24m)です。鳥居から神社までの参道で9の日の市が始まるところでした。毎月9の付く日に売店の屋台が並んで野菜とか五平餅などが売られています。まだ9時半ですから、準備が始まったばかりのようでした。1kmほど歩いて中村公園。公園は、秀吉と清正の生まれた地ということで、秀吉清正記念館という博物館があり、ご両人にゆかりの史料を展示する。



公園は、豊国神社(明治18年創建)を中心にして日本風回遊式林泉庭園です。公園の東側に、常泉寺、妙行寺という日蓮宗のお寺がある。秀吉と清正の誕生地だということなので行ってみる。
妙行寺には、清正が名古屋城の余材を用いて建立したもので、清正の銅像があった。
常泉寺は秀吉の銅像や「秀吉お手植えの柊の木」があっら。
両寺の間に木下長嘯子の邸宅跡がある。

木下長嘯子は、秀吉の妻「ねね」の甥で、文人。若狭小浜城主で関ケ原後京に隠棲。
秀吉や清正もいいけど、もっと近代的な話題はないかな?と名古屋競輪場に行ってみる。中村公園の北側です。この日は競輪はやっていないが中を覗くことは出来る。1週400m、最大傾斜は34度。
競輪の行われていない日も他の競輪場レースの車券は購入できるとか。


競輪場を出て大通りを栄生に向かう。公園北口から本陣通りを歩く。3丁目から斜め北東に曲がり栄生に出た。
中村公園から2.4km歩いて、トヨタ産業技術記念館に来た。元トヨタ紡織の工場跡地を博物館にしたものです。以前(4~5年前)に来たことがあるが、すっかり綺麗に整備されていた。展示は紡織関係と自動車関係の2部門に分かれている。時間的に両方見るのは無理なので、紡織関係のみ見た。原綿から糸を紡ぎ、糸から布を創る原理をお姉さま方が説明し、昔の織機の原理と運転を見せてくれたあと、近代の紡織機の運転デモをデモしてくれた。ここを見学し、いつも思うのは、時間をたっぷりとってみたいということだ。入場料はシニア料金は無料で、出退場自由の入場券を貰えるから何度でも見られるのだが、残念なことに、いつもちょこちょこっとで帰ることになる。今日も同様で12時、帰ることにする。ここまで歩いてかなり草臥れているからだ。この後、駅ちかのコースでは、「ノリタケの森」と円頓寺商店街を歩いて名古屋城に行く予定になっているが、3kmぐらいコースカットして「メグール」バスで名古屋城にいくことにする。正面のバス停ですわって「メグール」を10分ほど待つ。右隣の建物の間を名鉄や新幹線が通り過ぎるのが見えた。

バスに乗ると、10分ほどで名古屋城。
最初に能楽堂を見る。

これも大分前に見たが、久しぶりに見る。
夕方「能楽堂のシャンソンの夕べ」があるようだ。今日ここにくることを決めていたらチケットを購入しておくのだが、購入していない。
能楽堂のあとは名古屋城。今日は西北隅櫓を公開している。天守ははいっているが、ここは入っていない。西北隅櫓、別名清洲櫓は、清洲城の天守閣を解体した材料を使って作られている。
堀の向こうに我が家が見えたので、写真を撮ったが、前の建物に遮られ一部しか映っていなかった。
清洲砦を降りて名城公園駅を目指す。お堀の周りをぐるっと回って名城公園に入り、2㎞弱歩いてゴールの名城公園駅に向かう。
ゴールしたのは、1時半。
いつも駅ちかウオーキングは、12時半ゴールしているから、1時間余分に歩いている.公称のコース距離は8.4kmだったが、途中3kmほどショートカットしてこれだ。コース距離には、公園の中や博物館の中を歩く距離は省いている。それらの距離を加えると多分10kmぐらいは歩いているだろう。珍しく抽選で記念品が貰えた。サントリーのアルコールフリーの飲料1管だった。
さて、名城公園のゴールの痕は家に帰ればいいのだが、公園に大津通りに接して最近「トナリノ」なる建物が作られた。
ジョガーのためのシャワールームやロッカーを創り、1Fに喫茶室(スタバ)やあ2Fに軽食堂などを作ったという。そういえば最近公園周辺の道を歩いていると走っているジョガーを見かけることが多い。「トナリノ」の効果であろうか。
大賑わいだったが、スタバで、アイス珈琲をいただいて3時帰宅しました。

山崎川の桜

2017-04-03 | 旅行
4月2日、朝起きて今日も駅ちかウオーキングに行こうと思い立ちました。今日は暖かくなりそうです。寒い日が続き桜が待ち遠しい日がつづきましたが、名古屋の桜名所、山崎川が今日の駅ちかのコースです。今日は桜がみられるだろう。10時5分前出発駅の川名駅に行きました。地図を貰い、3番出口を出てUターン、八事方面に歩き始めました。中京高校脇を過ぎると1km、香積院(こうじゃくいん)。

道元直筆の観音画像が伝わり、天井画が有名だが、庭だけ見てパス。

飯田街道に出て隼人が池に出る。消防訓練で子供がホースで放水の練習をしていた。

 半僧坊まで歩き、右折すると、新福寺に出る。ここには宮本武蔵の碑がある。

名古屋では笠寺観音にもあるそうだ。続いて昭和美術館に出た。
茶器を中心とする美術館だ。ウオーキングの案内地図を見せると、入場500円と掲示されている。普段は600円だから100円の割引。パスして歩き続けると石川橋に出た。すぐ山崎川沿いの散策道に出る。満開ではないが咲いていた。新瑞橋までの2.8㎞の両岸に600本のソメイヨシノが咲いている。今年初めて桜を堪能した。


1kmほど歩くと東山荘。


3600坪の敷地に自然林を配置した林泉庭園。建物は国の登録有形文化財になっている。
庭園を見てから山崎川に戻りパロマスポーツパーク(瑞穂公園)まで。


その後は、地下鉄新瑞橋駅まで歩きゴール。12時半だった。およそ7kmを2時間半で歩いたことになる。「健脚賞」のバッジを貰い名城線の地下鉄に乗り、ドーム前で下車。日課の水泳1000mを泳いでから帰宅しました。
















25日も駅ちか

2017-03-26 | 旅行
 .25日、駅ちかウオーキングに出掛けました。今池駅から星ヶ丘駅までのウオーキングで、8.7kmのコースです。直線距離ではそんなにないと思いますが、いろいろ立ち寄る箇所があり、およそ9kmです。時速3kmで歩くと3時間。10時半スタートで13時半ゴールと見積もり、10時半今池駅に行きました。受付は9時半から11時ですが、朝、野暮用があり10時に家を出たのです。
 3番出口を出てUターンしてすいどう道緑道を歩きます。木曽川から名古屋へ水を引く地下水道の上が緑地として整備されているのです。桜の並木が続くのですが、残念なことにまだ桜は咲いていません。1km半あるいて若水通りに来たとき突然あでやかな桜の花が目に入りました。汗ばんできたので、ここでセーターを一枚脱ぎました。
名電高東を東に行き、天満通り2丁目を南に曲がるとセブンイレブンがありました。
「お弁当を買っていこう」と立ち寄り、お握り、あったかいお茶など購入し、外に出てから、受付でもらった地図を落としたことに気づきました。
「しまった!」と思いましたが順番のついた案内標識がところどころにありますし、地図を見ながら歩いている人も多いので「皆について行けばいい」とそのまま歩きました。
「水の歴史資料館」が目の前にありました。平成26年9月に開館した施設で、水道事業の歴史の展示があり、尾張藩時代の水道の歴史も展示されていました。
 3㎞過ぎると覚王山日泰寺の裏手に出ました。

 日本で唯一、お釈迦様の遺骨を安置する超宗派の寺院です。参拝後すぐ東にある揚輝荘に入る。松坂屋初代社長の伊東次郎左衛門の別邸、平成19年、名古屋市に寄贈され、現在南北に分かれた約3000坪の敷地に残る建造物と庭園が保存公開されている。北園は無料、南園の聴松閣は有料です。無料の北園のみのぞいてから外に出る。

 参詣道を歩いて地下鉄の覚王山駅に出る。大通りを東へ、末森通りを本山まで歩きました。ここまで5㎞です。名大に向かう路を少し歩くと桃巖寺。この辺りは住宅のシニアクラブ・ウオーキングで歩いたことがあります。

曹洞宗の寺院で、開基は天文年間。末森城主織田信行が父・信秀の菩提を弔って建立、寺院の寺名・桃巖は信秀の法名に因む。ここは、名古屋大仏のあることで知られています。像の前には大仏の掌も置かれています。

その後、一旦名大通りに戻ればよかったのですが、裏口から「ゴールの星ヶ丘にはこの方向でよいだろう」と歩き出したら、上り下りの多い道をあっちこっちと歩かされて「道を違えたかな?」と心配になりましたが、なんとか地図を手に歩く集団に合流できました。東山動植物園の前に出て、園内に入るコースでしたが、案内の地図を見せれば無料入場でしたが、地図を落としてしまったので、「もう動物園はカット」と園の西側の歩道を星ヶ丘駅まで歩きました。

ゴールは予想通り13時30分。受付で落とした地図を再度もらいました。かなり疲れていましたので、日課の水泳は省略し帰宅、家の近くの白木蓮が満開でした。風は寒いがもう春です。



19日の駅ちか

2017-03-20 | 旅行
<19日の駅ちかウオーキングの報告です。
午前9時半、地下鉄鶴舞線の原駅に着きました。ウオーキングの受付は超満員、1000人を超える参加者でしょう。高齢者が増え、健康寿命を延ばすべく手ごろな運動としてウオーキングの人気が高くなっているのですね。今日は、原駅から日進市を横断しリニモの長久手古戦場駅まで11.4kmを歩きます。健脚者向けのコースです。
1番出口を出て右へ。名古屋環状自動車道に沿って散歩道が整備されています。2kmほど歩いて、牧野が池緑地に入ってきます。緑地の最初に竹の小道。竹の並木道、この辺りは竹が多いのか、「筍堀禁止」の札がたっていた。
牧野が池緑地は約150ha、都会のオアシスとして親しまれる公園、池を背景に「森林浴を楽しみながら散策してください」と案内の地図にある。

緑地を抜け県道に出る。5km地点が岩崎台の信号。案内標識に「しばらくまっすぐに」とあるので、2km県道に沿って歩くと岩崎の信号になる。左、北に曲がると、岩崎城址公園だ。
階段の小道をえっちらおっちら上がると山頂に徳川慶喜書の「忠義の碑」があった。

岩崎城は、戦国時代の平山場で織田信秀(信長の父)の支城でした。天正12年の小牧・長久手の戦いの際、豊臣方の池田恒興隊の岡崎中入れを狙った動きを阻止して城代丹羽氏重以下300余名が討死した。関ヶ原の戦い後、丹羽氏は万石の大名に展封され、城は廃城となった。山頂の慶喜の碑はこの小牧の戦いの丹羽氏の働きを顕彰するもので、その旨の文章がきさいされているのだが、写真の写りが悪く読み取れない。
家康の天下どりは、関ケ原よりも小牧長久手の勝利のおかげと説く歴史家も多い。
城は昭和62年(1987)展望塔として5重構造の天守閣(模擬天守)を築城。「岩崎城址公園」として整備されたという。

昭和62年と言えば、竹下内閣が各自治体に1億円を配布したバブルの頃だ。その1億円をつかったのかな?など思った。歴史記念館に入ると1Fに騎馬姿の銅像があった。討死した丹羽氏重。当時16歳だったそうだ。

日進市の歴史、文化遺産の展示があり、市の花あいさいの写真も展示されていた。
天守閣の最上階に上がって展望を見ようとしたが、転落防止の金網に覆われていて展望が良いとは言い難い。

お城の見学は終えて、県道に降りる。
北へ歩くと、愛知学院大学、名古屋外国語大学などの看板が見える。ひところ郊外に広い場所を得て大学のキャンパスを創る動きが流行したので、その折これらの大学も作られたのであろう。しかし昨今は逆に市内に土地を求めてキャンパスを作る流行だ。
時代の変化を思った。歩き続けて10㎞地点、口論議運動公園が右手に広がる。ここのプールで時々水泳大会があり、小生も3年前の2月出場した。私の最後の水泳大会だった。
間もなくリニモ(東部丘陵線)が見えてきた。
ゴールの長久手古戦場駅横の公園に着いた。記念品はリニモの絵入りバッジ。13時30分、4時間も歩いたことになる。1およそ12㎞だから時速3㎞。80歳を超えて歩く速度が遅くなった。1時間に3kmしか歩けない。駅の横にイーオンの新しい店ができていたので、一寸のぞきたいとおもったものの疲れ果てていて、のぞく元気はなく、すぐリニモに乗車、藤が丘で地下鉄乗り換え家に2時半帰りました。










駅ちかウオーキング

2017-03-12 | 旅行
11日は、目覚めると素晴らしい青空だった。「今日は久しぶりにウオーキングに行こう」と思いたちました。空気は冷えて寒そうですが、日中は暖かくなりそうです。今日の駅ちかウオーキングは、ナゴヤドーム前矢田駅から高丘町駅までの6.7kmを歩く予定です。
立ち寄る場所はすべて行ったことがある場所ですが、距離も手ごろだからウオーキングしてみよう。
 9時半家を出てドーム前のイオンで弁当を調達して2番出口の受付で10時で地図を貰いスタートしました。明日の名古屋マラソンの受付がカルポート東で始まっていて1番出口が混雑していて、ウオーキングの受付は2番出口でした。西へ矢田5丁目で北に折れ矢田4丁目の金虎酒造(地元の酒造メーカー)まで歩きました。
酒蔵を見て試飲を楽しむ。いつも試飲させてもらっているから、今日は1本買っていくか、と醸造酒「本丸御殿」を買い求めバッグに収めました。工場を出て今度は南に戻ります。すぐ山田天満宮です。紅梅が綺麗でした。

東大曽根まで歩いて2kmです。森下駅前を通過、片山八幡神社(徳川家氏神)まで歩くと徳川町です。東へ歩くと徳川園。

徳川園も美術館も何度か訪れていますので、今日はカット、庭で弁当を広げて賞味した後、次に行くことにしました。南に歩くと,建中寺です。初代尾張藩主義直公の菩提を弔って1651年創建、代々の尾張藩主の菩提寺になっています。ここも紅梅が綺麗でした。

東へ平田町まで歩き、北へ。「文化のみち二葉館」に入りました」。入場料は平日の半額50円でした。
「文化のみち二葉館」は、「日本の女優第1号」と言われる川上貞奴が大正時代に住んで いた和洋折衷の建物を、名古屋市が移築復元 したもので、2005年2月8日にオープン しました。「文化のみち」を紹介し案内するとともに、川上貞奴関連の資料や郷土ゆかり の 作家・城山三郎の展示があります。今日は2Fをじっくり見ました。彼のペンネームは、千種区城山町に3年住んだことからきているとか。作品の本が並んでいたので、暫く座り込んで目を通しました。
ゴールの高丘駅まではここから1㎞程でした。12時45分ゴール。標準タイムは1時間40分とのことでしたが、ゆっくり歩いたので2時間45分かかりました。後は地下鉄。帰宅は13時15分でした。
家の近くの白木蓮が膨らんでいました。春もマジかですね。


続・トランプは世界をどう変えるか?

2017-02-19 | 旅行
副島説とは別に、佐藤さんは、クリントンのメール問題について、小沢事件との相似で説明しています。小沢事件とは、2009年3月、自民党から民主党への政権交代が確実になっていた時期に表面化した事件で、西松建設がダミーの政治団体を通じて、小沢代表の資金管理団体(陸山会)に対して行った献金を東京地検が企業献金だと認定した事件です。
東京地検特捜部が西松建設に関連する政治資金の流れを調べていたら小沢代表と結びつきそうなカネの流れが見つかった。捜査に着手すると操作妨害が起きた少なくとも特捜部には思えた。政権交代前に手を付けておかないと、小沢代表が権力の座に就いたら手を出せなくなる、特捜部はそう考えた。政権交代前でも捜査妨害に会うのだから、小沢代表が首相にでもなったら、自分たちの組織が壊されるという恐怖感も手伝って小沢つぶしに全力を上げました。
クリントンの私用メール問題もその構造は同じです。7月5日、FBI長官が「素伯には値しないと」と操作終結宣言をした。ところが10月28日、FBIは使用メール問題に関し、新たなメールが見つかったとして捜査を再開、投票日の前日、操作終結をFBI長官が宣言したのです。
 クリントンが大統領に就任すれば私用メール問題は触れることが出来なくなる。だから今のうちに操作を進めようとしたら想定外の操作妨害があった。FBIはそれに恐怖した。クリントン政権が成立すると人員も予算も大幅に削減されて組織は弱体化させられる、早いうちにクリントンが大統領になる芽をつぶそうと「全面戦争」に突入したという構造で、トランプを大統領に当選させた最大の立役者はFBIだったと佐藤さんは説明する。
 もう一つ佐藤さんが指摘するのはマッカッシズムとの相似です。
マッカーシズムは、「不安の時代」を背景にして生まれた。「共産主義国ソ連」に対する不安の共有という土壌があって国内の共産主義者探しというマッカーシズム生まれたという。

佐藤さんの見解をまとめると、トランプ以後のアメリカは、1941年12月以前の非介入主義(モンロウ主義)への回帰、FBIの政治化による自由と抑圧のせめぎあい、国内の敵さがしが始まる兆候をみのがせない。 いずれにしても米国は変わるだろう、その時、「米国ファースト」で変わるから、従来の日本の政治化のように、米国についてさえいけば、日本は大丈夫とはいかない。日本はどう変わったらよいか、日本の政治家の頭脳が問われることになろう。

冬の徳川園

2016-12-21 | 旅行
 冬の徳川園を見てきました。12月18日午前です。お天気は暖かくなるとの予報で、年賀状に使う写真を撮ろうかと徳川園を目指しました。地下鉄の大曾根駅③出口を出て15分ほど歩いて園の正門前に着きました。門松がたっていました。尾州藩以来の門松が13日以降立っていると先日の新聞にありましたが、カメラを向けている観光客も数人、あの人たちも年賀状に使う写真を撮りにきたのかな。

園にはいると、ボランテイアがガイドをやっているので、ついて歩くことにする。
もう、紅葉は終わりだろうと思っていたが、まだ見られる箇所もあった。
「日当たりのいい場所は、早く紅葉して散ってしまったが、日当たりの良くない場所はまだ紅葉がのこっている」とガイドは言う。
橋を渡って最初に「大曽根の滝」を見る。

昔は矢田川の流れがここまで来ていたそうだが、今は水をポンプで流している。でも、流れに沿って歩くと風情がある。「竜仙湖」と名付けられた湖に出る。
織部のキリシタン灯篭があった。

観仙楼という建物がある。結婚式の披露宴をやっていた。
「お日柄の悪い日はないが、通常、毎日結婚式がある」とのこと。傍らに「子福桜」の木がある。小さな花がさいていた。この作ら、年中花が咲くそうである。子供に恵まれる効用があるとか。大名にとって子供がないとお家取り潰しにあるので、子に恵まれるのは、最大の重要事だ、というわけでここに植えられている。

茶室(瑞竜帝)があったので覗いてみた。「有楽風の造りです」という。織田有楽斉の茶室(如庵)は犬山の名鉄ホテルにあるが、ここは有楽を模した作りらしい。
写真右下の躙り口を見ても小ささがわかる。

茶室の傍に樟がある。繊細で焼けて「この樹は焼け残り」とのこと。

「竜門の滝」がある。石垣は江戸の尾張藩下屋敷から貰い受けてきたという。尾張藩下屋敷跡は現在早稲田大学になっているとか。下屋敷は13万坪あったそうだ。ここ徳川園も13万坪あったそうだ。
昭和20年(1945年)に大空襲により園内の大部分を焼失した後は一般的な公園として利用されてきました。子供の野球場にも使われていたそうだ。
平成16年秋に日本庭園としてリニューアルしました。
万両の花があった。10両とか1両とかの花もあるそうです。
帰りは結婚式場の建物からエレベーターに乗り1Fで出ると、黒門口の出口でした。
小1時間案内してもらいましたが、冬であっても結構見どころがあると感じました。


人口と日本経済

2016-12-20 | 旅行
『人口と日本経済』(吉川洋著、2016年8月中公新書)を丸善で手に入れました。市立図書館で借りようと思って申込んだのですが、貸し出し中で、「予約者22であなたは20番目です」と言われた。あきらめて買うことにしたのです。
 バブル崩壊後の日本経済の低成長について「人口減少がその主原因」とする論があります。はたしてそうか。
経済成長を決めるのは人口ではない。まず筆者は説く。明治のはじめから今日まで150年間、経済成長と人口はほとんど関係がない、といっていいほどに両者は隔離している。経済成長率と人口伸び率の差、これが「労働生産性」の成長に他ならない。
一国経済で労働生産性の上昇をもたらす最大の要因は、新しい設備や機械を投入する「資本蓄積」と、広い意味での「技術進歩」、すなわち「イノベーシヨン」であると、筆者は日本の高度成長を振り返る。もちろん経済の供給サイドだけでなく、需給サイドの動向も考えないといけないが、
「一昨年、人口・世帯数発表になって驚いたことは、人口が減った県が25県もあったが世帯数の減った県は一つもない。」(19671月年『統計』)
高度成長期、輸出から輸入を引いた「純輸出の経済成長への貢献はほぼゼロであった、日本経済は昔から輸出に引っ張ってもらい成長してきた、と思っている人が多いが決してそうでない。年平均10%の高度成長は旺盛な国内需要により生み出されたのだ。第3次産業革命あるいは第4次産業革命の帰趨は分からないが、はっきりしていることは先進国の高度成長は、人の数ではなくイノベーシヨンによってひきおこされることだ。

次に筆者は出生数の低下と平均寿命の伸びに着目する。
 現代日本では経済的困難により結婚できない人が増えてきたというマルサスの時代に戻ったかのような厳しい現実がある。しかし先進国の歴史では、全体的に平均所得は上昇してきた。ところがその先進国で平均所得が上昇したにも関わらず出生率が低下するという「新しい現実」が生まれた。
 出生率の低下と呼応して平均寿命が伸びた20世紀。先進国では人間の寿命が大きく伸びた。日本は今日世界一、二を争う長寿国である。しかしこれを当たり前と思ってはいけない。日本人の平均寿命の伸びは、戦後の日本の成し遂げた成果、「最大」といってよい成果である。高度成長が始まる直前の1950年我国は先進国の中では寿命が最も短い国だった。
日本では厚生労働省が3年ごとに「国民生活基礎調査」を用いてジニ係数を計算し公表している。筆者は、所得の平等程度を見るジニ係数を寿命に適用した考察を紹介している。
「寿命のジニ係数」についてベルツマンという学者が調べている。
 ソ連/ロシヤの平均寿命とジニ係数の推移は興味深い。1917年の革命後1950年代後半までは、ソ連の平均寿命は順調に伸びた。ジニ係数も順調に低下した。しかし1950年代末から顕著な停滞が始まる。平均寿命は全く延びず、むしろ短くなる。と同時に、ジニ係数は増加した!1991年にソ連は崩壊したが、こうした平均寿命、ジニ係数の推移をみると、1950年代からの社会主義体制がいかに大きな問題を抱え、行き詰った社会であったかうかがい知ることが出来る。ソ連はまさに自壊したのである。
 この100年、先進国では豊かさの中で人口が減り始め、一方寿命は著しく伸び始めた。日本は先進国の中で例外的に20世紀前半、すなわち戦前はまったく寿命が延びなかった。
 戦前の日本も一部の人が言うほど「悪い」社会ではなかった、そういう人がいる。なるほど一つの社会がすべての意味で悪かった、というようなことは希であろう。しかし人間社会の総決算といえる平均寿命、そして寿命のジニ係数の推移をみる時、戦前の日本は大問題ありの社会であったと言わなければならない。
 戦後は一転して寿命が急速に伸び、日本は世界の最長寿国になった。これは、」戦後日本の最大の成果なのである。
最終章で「人間にとっての経済成長」を論ずる。
 既存のモノやサービスに対する需要が飽和に達するなら、経済全体の成長もやがてゼロ成長に向け収束せざるを得ない。
「需要の飽和」。ここにおいて、通常「水と油」と考えられているケインズとシュンペーターの経済学は急接近する。需要の不足によって生まれる不況を、ケインズは政府の公共投資と低金利で克服せよと説いた。シュンペーターは、需要の飽和による低成長を乗り切るカギはイノベーシヨン以外にないと主張した。
 別の角度から見よう。
 「もはや先進国において経済成長は不必要であるか否かは、究極的には、80歳を超えるまでになった平均寿命はここらでもう十分、これ以上寿命を延ばす必要はないと考えるか否かにかかっていると言えそうである。
日本の平均寿命は、確かに生物学的に見た限界に近づきつつあるかもしれない。しかし、なお残る課題として「健康寿命」、「生活の質」がある。すでに現実になりつつある超高齢社会において人々が「人間らしく」生きていくためには、今なお膨大なプロダクト・イノベーシヨンを必要としている。超高齢社会においては医療・介護はいうまでもなく、住宅、交通、さらに一本の筆記具から都市まですべてが変わらざるを得ない。それらは、「好むと好まざるとにかかわらず、経済成長を通してのみ実現される。先進国の経済成長を生み出す源泉は、そうしたイノベーシヨンである。
最後に筆者はこういう。「部門(家計、企業、政府)別貯蓄・投資の差額のグラフを見ると、
かつては、家計が貯蓄し、企業は負の貯蓄、つまり借金して投資をしていた。今貯蓄は、、企業が家計をしのぎ日本経済で最大の純貯蓄主体となっている。これは資本主義経済本来の姿と言えるか。企業は時代が変わったという。しかし変わったのは時代でなく、企業ではないのか。

中川区をウオーキング

2016-12-04 | 旅行
12月4日、駅ちかウオーキングで高畑駅から国際センター駅までの8.1kmを歩きました。
中川区は、あまり歩いたことがない、今日は風もなくお天気もよさそうだ。行ってみようと9時家を出て、9時40分高畑駅に着き、受付を済ませて5番出口を出て、左に歩き始めました。すぐ、荒子観音。荒子観音は円空仏で有名で、円空仏の研究は荒子観音寺に始まり、荒子観音寺に終わると言われるほど、荒子観音寺には多種多様な円空仏が存在する。荒子観音寺には2014年時点で1255体の円空仏が現存し、移出像11体を含めて1266体が確認されている[]。2014年時点で日本全国で現存が確認されている円空仏5374体のうち、実に4分の1以上がこの寺にあることになるという。
荒子観音は何度か参拝したから今日はパス。荒子公園に入り公園内の道を通り抜け、篠原橋通りを抜けると、松葉公園です。
昭和8年の皇太子(現天皇陛下)誕生を記念して着工、昭和16年開園した公園です。ここまで2km、少し汗ばんできたので薄着にしようとセーターを脱いだ、

公園を北に出て道なりに歩くと長良橋です。
長良川にかかるが、橋上からは名古屋駅前のビルがすぐそこに見える。

川沿いに小栗橋まで歩き猿子橋まで。橋を東に渡って東岸の道を柳原橋に歩く。東へ歩くと、レトロな松重閘門が見えてきた。ここに小さな公園がある。

ここが今回のチェックポイントで、通過証を貰う。松重閘門は来たことがあるが、公園があることには気づかなかった。
松重閘門は昭和5年に完成し翌6年から使用され、長年に渡り名古屋の産業を支えてきた。しかしながら昭和30年代の後半から陸上輸送の台頭によって水上輸送の需要が次第に減り、昭和51年(1976)、閘門の使用が停止されました。その後、水門内部は埋め立てられ、付近は昭和61年(1986)に松重閘門公園として整備されたそうです。
ここから堀川沿いに北へ歩く。
須崎神社があった。縁結びの神様らしい。

須崎神社を出て北へ歩くと広小路通り。納屋橋を渡って桜通りを目指すと、ゴールの国際センター駅だった。12時20分ゴール。健脚賞としてバッジを貰った。
その後、東区プールに行き、日課の水泳、1000mを泳いだ。脚にまめができたが、疲れはさほどなかったから、体力は少しづつ戻っているかな?