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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■筑前黒田家と豊前細川家の仲違い

2021-02-15 06:58:31 | 史料

 細川家と筑前黒田家との仲違いは、細川家の豊前入国後から起っている。
それは豊前の先の主である黒田家が、先納分の年貢米11万石余を持ち去っていたことに起因する。
つい先ごろまでは、関ヶ原や石垣原の戦いで共に苦労を重ねてきた仲だが、この黒田家に行為は一気に両者の間を不穏なものとした。
家康は細川家に好意的であったように見えるが、片桐勝元・山内一豊が中に入り、半年後黒田家は9万石を返却した。
残り2万石は片桐・山内氏への仲介料であったとされる。

両家の確執は140年弱長く尾を引き宗孝の代に至った。
筑後と豊前を結ぶ道筋には人の往来を監視する人留所が置かれ厳重な監視がなされた。
それでも、百姓町人の走り者や、罪を犯した者たちの侵入・逃亡が繰り返されている。
現在ご紹介している寛永期の状況を見ても、数多くの事件が取り上げられている。
細川家では特に逃亡者に対する仕置が厳しく監視されている。
侵入者に対しては、人留所に於いて黒田家に引き渡しが行われていたようだが、事件に絡む重要犯については、使者を遣わして引き渡しを行っている。
以下は「沼田家記」に記載されているものだが、いかにも仲違いの中での両者の振る舞いが興味深い。
延元(寛永元年死去)の名前がある事から、慶長・元和のころの話である。

          何時分の儀にて御座候哉他国之取遣之儀長岡佐渡殿と
         (沼田)延元様へ被仰付御勤被成候刻筑前より科人小倉へ走り参
          居申候 其節は黒田甲斐殿と御中悪敷最中にて御座候
          得とも大犯人にて御座候哉付届ヶ御座候而彼者被召捕
          筑前へ被遣候 延元様ゟ坂井半右衛門佐渡殿ゟ元橋彦之丞
          と申す鉄炮両人にて走者を召連筑前黒崎之城主井上
          周防へ相渡申候 周防家老大崎彦右衛門と申者罷出挨拶
          仕候 其時彦右衛門申分豊前ハ小国にて御家中手狭御座候に付
          可様之科人も早々被召捕被遣候 筑前ハ領内廣く御座候
          得は重て走り者参り候とも知レ不申儀も可有之なとゝ
          申につき坂井半右衛門返答仕候は被仰分合点不参候 国之
          廣狭にてより申間敷候今程天下一統之御代にて江戸
          よりの御仕置政敷御座候に付遠国彼嶋迄も一国のことくに
          罷成候 越中守儀は江戸之御仕置を堅相守り申候に付
          科人なと領分に居申候を無穿鑿に仕儀にて無御座候
          何様甲斐守様御仕置ハ緩せに御座候と相見へ申候 奉
          公人ハ不知儀に候得は向後如何様之儀にて国を立退申
          候共御国は西国之能高野山と存頼母敷存候と申候得ハ
          彦右衛門赤面し由に御座候 両人能帰候段 忠興様達
          御耳先様之様子御聞可被成御意ニも両人御城へ登り
          申候 忠興様障子越に御聞被成所に半右衛門段々之次第
          具に申上候得は無残所返答仕候 物をよく申候由御褒美
          被成候由御座候叓
             大崎彦右衛門と申者は関ヶ原陳之刻五檜垣原にて
             大友家吉弘嘉兵衛首を申侍ニ御座候

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■迷い猫?

2021-02-14 15:29:40 | 徒然

         

 昨日は散歩をさぼってしまったから、これは一昨日12日に撮影したものだ。
背中をみせて全く動かなかったが、植え込みを挟んで道の向こうは上下四車線の車道である。何か窺うように長い時間このままの姿だった。
私の後ろから走ってきた自転車に驚いて逃げてしまった。

ところが今日の散歩で、あまり離れていない処でふたたび見かけた。
背中の方向は健軍自衛隊の広大な敷地である。迷い猫だろうか?首輪がないから野良猫かな・・・
道むこうにでも帰りたいのか、なんともその背中がさみしそうである。
「おい」と声を掛けたら、驚いて植え込みの中に逃げ込んでしまった。
何とも気になって、明日もこのルートを歩いて確認しようと思っている。猫チャン、今日は雨が降り出しそうだぜ。

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■最後の御奉公

2021-02-14 14:49:12 | 熊本史談会

 熊本史談会の事務局をお預かりして4月でちょうど8年となる。
退任を表明してから新しい体制への移行も新役員のご努力で準備万端、現在は心安らかな気持ちである。
最後の仕事として会計の報告をしなければならない。
今日は引継ぎを前に改めて領収書つづりと、出納帳に錯誤がないか等チェック作業をしている。
時には赤字になったりするから、現金がなかったりして一時補填などもあったが、帳尻あわせは出納帳の方はソフトが自動計算してくれるから一安心である。
後は報告をするための資料作り、収入・支出の項目別一覧などを作成する。
まだ今月・来月に若干の支出が発生するが3月例会後には会計閉鎖まで持ち込めそうである。
例年3月末にバタバタしていたが、今年度はもう終了したのも同前の状態である。
会員の皆さんの貴重な会費で賄っているから、大いに気を使う執行であったが、これから逃れられるのが一番大きい。
二月・三月の例会は会員N氏に「近世熊本の道を歩く」と題して、熊本の四街道や各地へ広がる往還について話を伺う。
これが終了すると、8年間の任務完了、本当に万歳をしたいほどの解放感に浸れることだろうと思っている。

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■細川小倉藩(489)寛永七年・日帳(四月十四日~十五日)

2021-02-14 08:25:37 | 細川小倉藩

                     日帳(寛永七年四月)十四日~十五日

         |                        
         |    十四日  加来二郎兵衛
         |
         |  (菅)
         |一、□沼小隼人所へ被遣御書箱壱つ、鉄炮衆谷忠兵衛与塚本少介ニ渡、上せ申候事、
         |一、寺嶋主水へ我々ゟノ状弐通、中ニ御書包こめ、御船頭徳嶋八兵衛ニ相渡申候事、是ハ菅沼小隼人
         |  所へ之御書也、
         |
忠利書状等諸方へ |一、からす丸様御内あら川殿へ被遣御文箱壱つ、小野九右衛門・佐藤少左衛門かたへ、飯田才兵衛ゟ
         |  ノ状壱通、中ニ 御書有之由也、又我等共ゟノ状壱通江戸へ被遣、御鉄炮衆松岡久左衛門与池尻
         |                                    (破損)     ・町三右衛門
         |  長兵衛・横山助進与松田次左衛門ニ、江戸御留守居衆へ 殿様ゟ被遣代御文箱□包、松野織ア所へ
         |      (破  損)(式) (自徳院、松井康之室)  (破  損)
         |  我々ゟノ□□□□□□ア殿ゟしとくゐん殿へ、□□□□□箱壱つ相渡申候事、
         |       (吉重)
沢村吉重邸ニ臨ム |一、今朝ハ、沢村大学所へ御申被仕候事、
葡萄酒醸造奉行ヲ |一、歩之御小性海田半兵衛登城にて被申候は、今度ぶどう酒の御奉行に、高並権平被仰付候へとも、
仕付ヶ馴レシ海田 |  まへかとゟ拙者仕つけ申候付而、歩之頭共より差替申候由にて登城仕候、可然候由、申渡候也、
某ニ差替     |
         |                     (櫓)          (鏡)                                   
茶壺積載ノ早舟  |一、御茶壷上申御舟、五十丁立之御早舟ニ、ろ四十丁立申由、善右衛門被申候事、外ニ壱人ハ御船
         |  頭壱人役ノもの乗せ申由也、
         |  (稲葉信通)            (浅山)(田中氏次)
惣奉行等稲葉信通 |一、彦四郎様へ為 御目見ニ、修理・兵庫、今晩参上候事、
ニ謁ス      |

         |                        
         |    十五日  加来二郎兵衛
         |
北ノ丸ニ井上源三 |一、今朝は於北丸、井上源三郎被成御数寄候也、
郎ヲ数寄ニ招ク  |
上方ヨリノ廻船無 |一、御材木奉行ニ申渡候ハ、上方ゟ当所之廻船ニ、運賃なしニ御材木つミげ申候、大分積下候時ハ、
賃ニ材木ヲ積下ル |  水上まてつミ下候ものニさせ、御材木小やノ人割ノなき以前ニ、大勢にて一度ニざつと上させ、
ソノ揚ゲ方    |  御蔵入候やうニ可然候、又一人ニてもち申候材木五本十本つミ下候時ハ、其者ニも御蔵入仕候様
不肖       |                      (不 肖)
         |  弐可被申付候、それほとの儀ハ、御国ニ居申ふせうニさせ可申と申渡候事、
         |                            臭木
規矩郡ニ毎年臭木 |一、小崎與次兵衛所へ、切紙を以申遣候ハ、当郡毎年割苻前、くさぎを取せ被申候、当年は被召置候
ヲ採ラシム    |    令 法りょうぶ        (破損)
当年ハ令法採取ヲ |  而、れうぶをとらせ被申候、□今日ゟ可被申付通、申遣候也、
切紙ニテ命ズ   |
         |一、宮村権十郎所へ、新兵衛かたゟ遣候状、中ニ銀子有之也、金守形右衛門江渡へ明日被参候ニ、修
         |  理頼候而、言伝被申候事、
稲葉信通ヲ同道さ |一、昼ゟ、彦四郎様被成御同道候而、さゝいぜニ御舟にて御慰ニ被成御座候、それゟ、東御花畠ノ様
ゝいぜニ舟遊ス  |  ニ被成御座候、彦四郎様より 殿様を被成御振舞候事、
信通東ノ花畠ニテ |
忠利ヲ饗ス    |

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■細川小倉藩(488)寛永七年・日帳(四月十三日)

2021-02-13 07:34:31 | 細川小倉藩

                     日帳(寛永七年四月)十三

         |                        
         |    十三日  加来二郎兵衛
         |
本丸ノ鷹餌ヲ京都 |一、小倉少太夫被申候ハ、御本丸御鷹之餌、爰元にて仕せ候へ共、取出不申候間、京都郡へ御ゑさしを
群ニテ餌差ニ捉ラ |                                          (苺)
シム   苺採リ |  遣度存候間、鳥を持はこひ申御小人二人渡被下候様ニと被申候、則小頭所へ此段申遣候、いちこ
         |  をとらせ、ひま無之候共、其内を一人成共遣候へと申遣候也、
         |                (吉田浄元)
盛方院無事京着ス |一、牛嶋一郎右衛門尉罷下候被申候、盛方院御無事ニ被成御着候由、則盛方院ゟ銀子壱枚・ほうずいた
ほうずい丹    |            〃
         |    (貝)      (浄珍院、松井康之女)               (亀 綾 縞)        (長沢顕長室、沼田清延女)
         |  ん一かい、又盛方院御母様ゟかたひら一つ・杉原壱束、かめやしま一たんハ、いよ殿ゟ一郎右衛
         |  門ニ給候由、
         |     盛方院ゟ何へも被下者数覚
         |                御船頭
         |  一、唐もめん  ニたん    河村弥右衛門、
         |                小早御船頭
         |  一、こくらしま 一たん    田中作兵衛、
         |                 (舵)
         |  一、嶋もめん  一たん    かち取二兵衛、
         |  一、唐もめん  一たん    村松長右衛門、
         |  一、銭六百文         御鉄炮衆二人ニ被下候、
         |  一、同四百文         御長柄衆二人ニ被下候、
         |  右之前被下候由、牛嶋書付被持下候、則書付を 御前へ差上候由、被申候事、
京詰三人ヨリ言上 |一、京三人よりノ言上ノ文箱一つ、一郎右衛門持下、上ヶ被申候也、

         |一、宇治へ被遣歩野御小性ハ高橋久左衛門也、
         |               (重澄)金守可重七男
酒井重澄書状忠利 |一、牛嶋一郎右衛門尉下之時、酒井山城守様ゟ殿様へ被進之候御状壱通、才兵衛を以、御前へ上ル、
宛ヲ金森重近中継 |       (重近)山城守の長兄・茶人として有名
ス        |  此御状は金守宗和様まて参、宗和ゟ京のをく殿まて被遣候ニ付、小倉へ便次第差下候へ之由に
         |  て、をく殿ゟ京衆へ御渡候を、此度京衆被下候也、
永嶺某兄弟喧嘩ノ |一、桑原主殿与永嶺左右衛門せかれ弥五郎、去年兄弟いさかい仕、十方なく罷出、黒崎口人留へ参懸
未途方ナク人留ニ |  り候を、とらへ来候ニ付、御年寄衆御談合にて、質へやへ御入置候を、今朝被 聞召届、被成御
懸リ捕ヘラレ質部 |  助、親左右衛門ニ被下候也、
屋ニアリ  忠利 |
赦シ親へ渡サシム |                                弥五郎おちニて候ニ付、
質部屋番叔父ナル |一、永峯弥五郎しちへやニ被為入置ニ、しちへや御番永峯彦右衛門ハを新籠御番一宮三右衛門ニか
故新籠番と替ラシ |                               〃
ムルヲ旧ニ復ス  |  わし御番申付候処ニ、右弥五郎今日御助被成、御上ヶ被成候ニ付、御番衆もと/\のことくかわ
         |  り候へと、申付候事、
上方ヨリノ生雁ヲ |一、上方ゟ、いき鴈五つ下申候を、羽ふしをきり、ためいけへ被成御放候事、羽ふしきり申儀、山
羽節ヲ切リ溜池ニ |  本仁介ニきらせ申候事、
放タシム  羽節 |
ハ鷹匠ニ切ラシム |
         |   (可政)
         |一、加々山主馬所ゟ式ア少殿への状壱通、小野九右衛門・佐藤少左衛門所ゟノ状壱通、式ア少殿へ持 
         |  遣候事、

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■司馬遼太郎と「城址を歩く‐熊本城」

2021-02-12 16:20:10 | 歴史

 Youtubeに最近  城址を歩く「熊本城」 がUPされていることに気づいた。
ナレーションはNHKアナだと思われるし、その内容は司馬遼太郎の「徒ぶが如く」や「春灯雑記」が引用されていて中々重厚である。
シリーズものらしく城址を歩くと打ち込むと、全国の御城が見られるようだ。
ちなみに熊本城についても他に多くの映像が紹介されている。ここではその一部を下にご紹介する。
コロナ禍の中家に籠っておられる方には一見をお勧めする。

天下の三名城 熊本城を歩く~① 宇土櫓編

熊本城「空中回廊」を歩く

名城紀行~熊本城を歩く② 武者返し編

 
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■明智光秀に味方した若狭武田家とその後の若狭衆

2021-02-12 12:29:42 | 展覧会

昨日Yahooで配信されたサライ・JPの記事「本能寺の変後に明智光秀に味方した名門・若狭武田家と後瀬山城」は大変興味深いものであった。
私のサイト内に、特に「細川家中の若狭衆」を設けているように、多くの若狭武田家の人たちが細川家に召出されている。
先祖附その他から現在15人の方々を確認している。あの沢村吉重もその一人である。西川与助の足軽となり、10,000石の大身に上り詰めた。

それは6代信豊の弟・信高に幽齋女・宮川が嫁いでおり、その男子で京都の建仁寺長老の永甫英雄が力したとされる。
そして細川家と明智家のかかわりが何と深いことかと感じざるを得ない。

大変興味深いのは、信高の孫にあたる信秋のお墓が高森の含蔵寺にあるということである。
どういう切っ掛けで熊本へ来られたのか、又は御子孫がお墓を建てられたのか?
NHKアナウンサー武田氏や、茶道肥後古流家元武田家との関係もうかがわれる。

            五代
     武田元光---+--元度
          | 六代   七代  八代(絶)
          +--信豊---+--義統---元明
          |    |
          |    +--元実
          |       ↓
          |      大和守  山城守
          +--信高---+==元実---信秋 墓所:高森含蔵寺
               |
               +--永甫英雄(京都建仁寺長老)
                 母・細川幽齋姉・宮川殿

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■細川小倉藩(487)寛永七年・日帳(四月十日~十ニ日)

2021-02-12 06:25:32 | 細川小倉藩

                     日帳(寛永七年四月)十日~十二

         |                        
         |    十日  安東九兵衛
         |
田川ヨリ早松茸等 |一、田川ゟ、松茸拾五本・椎茸・松なば参候也、
上ル       |
信通ヲ北ノ丸ノ数 |一、今朝ハ北ノ御丸にて、彦四郎様を御数寄被成候事、
寄ニ招ク     |
信通ト長池ニ遊ブ |一、彦四郎様御同道にて、長池へ御懇ニ被成御座候也、
         |一、宮木五郎助、此中相煩候へとも、快気仕候由にて、登城被仕候也、
豊岡甚丞快気登城 |一、豊岡甚丞、煩快気仕由にて、登城被仕候也、
宮部某弟危篤ニツ |一、宮部権十郎被申候ハ、弟又市煩三/\にて、取詰申候、今之分ニ御座候は、頓而相究可申と存
喜看病ヲ願ウ   |  候、其内ハ付居申候て、養生仕度と被申候間、其分ニ被仕候へと、申渡候事、
本丸ノ馬ヲ今日ハ |一、上田忠左衛門登城にて被申候は、御本丸御馬ノ分は、今日は草ニ付可申由、被仰付候由、被申候也、
草につく     |

         |                        
         |    十一日  奥村少兵衛
         |
         |    (有吉英貴)
有吉英貴邸ニ臨ム |一、今朝、頼母佐殿へ御申被仕候事、
         |
藍嶋ヨリ走リシ牢 |一、あいノ嶋ニ居候て、走申候牢人善兵衛と申候、右ノ善兵衛嶋ニ有付申候時、七兵衛と申弟をしち
人弟ハ質分ニ小倉 |  分ニ小倉ニ召置申候、七兵衛儀ハ御乗物かき仕居申候、母も妻子も御座候由、石原仁右衛門尉
ニ置カシム    |  申候事
乗物舁      |

         |                        
         |    十二日  安東九兵衛
         |                    ( 衍 )
信通ヲ朝本丸ニ饗 |一、彦四郎様、今朝御本丸にて被成御振舞被成候也、
ス        |
         |     三斎様ノ  両人                         (松野親英)(町)
三斎書状忠利宛  |一、江戸ゟ〇御飛脚 忠利様へ被進ノ御文箱持、罷下候、幷織ア・三右衛門尉言上之状壱つ、同前ニ
飛脚ノ旅程    |  御前上申候、御飛脚は直ニ中津へ参候由申候、江戸を今月三日ニ罷立候由、申候也、
目出度飛脚トシテ |  右ノ御飛脚目出度御飛脚ニ参候とて、両人ニ御銀子壱枚宛被為拝領候、御飛脚ノ名貴田半左衛
銀子ヲ与ウ    |  門与御長柄衆自次左衛門・小右衛門也、
         |               (小笠原長元)
信通同道小笠原長 |一、今晩彦四郎様被成御同道候而、備前殿御成候也
元邸ニ臨ム    |
         |  (鏡)
宇治へ茶壺ヲ遣ス |一、加々見善右衛門尉ニ申渡候は、近日御茶壺を宇治へ被遣候間、御舟可申付旨申渡候、幷金守形右衛
         |  門尉江戸へ御使者ニ御上せ被成候間、右ノ壺舟ニのせ候而、上せ可申旨 御意候間、可被得其意
         |  由、申渡候也、
江戸ヨリ飛脚   |一、永や二郎介・田中兵庫助与高見吉右衛門・国友半右衛門与野上市太夫、江戸ゟ罷下候、江戸を三
江戸ヨリ書状ノ覚 |  月廿日ニ、御鉄炮衆両人江戸を出申候由、二郎介ハ廿一日ニ江戸を出申由候、二郎介持下被申
         |  御書之覚
         |  一、三斎様ゟ 殿様江之御返書一つ、
         |   (細川興孝)
         |  一、御天様ゟ 殿様江之御返書一つ、
         |     (氏銕)         
         |  一、戸田左門様ゟ之御状、寺嶋ゟ請取下由にて一通、
         |  右ハ二郎介被持下、
         |  一、言上ノ状文箱一つ、織ア・三右衛門ゟ参候、
         |  是は右は、江戸廿日ニ出申候両人ノ御鉄炮衆持下、
         |  〃〃
         |            (細川光尚)                             (小野)   (佐藤)
光尚用ノ茶壺   |  一、右ノ御鉄炮衆ニハ 御六様御つほ壱つさい料被 仰付、京迄持上り、九右衛門・少左衛門ニ渡
         |    申由、申候事、
         |         (皆川)
         |  右之 御書共、治アを以上申候事、

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■建国記念「の」日

2021-02-11 15:13:59 | 徒然

 散歩に出たら途中で「日の丸」を掲げているお宅があった。
昨晩の事、遠めに見たカレンダーが祝祭日である事を示している。奥方に聞くと「建国記念日」だという。
本当は「建国記念の日」で「の」が入るのが重要らしい。(某サイトの受け売り)
つまり今日は昔の紀元節であるが、記紀の時代の遺物である「紀元節」を「建国記念日」とするにはお国も気が引けたのだろう、「の」を入れたというのだそうな。
79歳の爺も「紀元節」に神社に詣でるような「右」ではないし、カレンダーをみてその日を思い出せないくらいだから、これは歳のせいではなく、興味の外にあるということだ。
自衛隊の正門前を通ったが、多分日の丸が掲げられていたのだろうが気が付かなかった。

それでも「記紀」の世界は面白い、それとこれとは別物ということ・・モッコス爺の認識である。

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■細川小倉藩(486)寛永七年・日帳(四月六日~九日)

2021-02-11 06:52:17 | 細川小倉藩

                     日帳(寛永七年四月)六日~九

         |                        
         |    六日  安東九兵衛
         |
         |           (規矩郡)
忠利赤坂ニ雉猟ス |一、今日、雉かりニ、赤坂へ被成御座候事、
         |  (規矩郡)行橋市                    (寒田、築城郡)
矢山ノ馬ヲ寒田へ |一、矢山之御牧山之御番之者申候は、御牧之馬沢田ニうつし被成候ニ付、矢山之御番入不申候間、
移ス故牧番ハ不要 |  用心ニうけ取置申候御鉄炮二丁、上申候由申ニ付而、則御番之者渡申候へ之由、申付候而、弐丁
用心ノ鉄炮ヲ上グ |    (林)  
         |  共ニ隠岐ニわたさせ申候也、

         |                        
         |    七日  加来二郎兵衛
         |
稲葉信通着船ス  |一、彦四郎様、今日被成御着船候事、                      (元次)
葡萄酒醸造ノ手伝 |一、上田太郎右衛門所へふとう酒作候手伝ニ松岡久左衛門与高島九左衛門付候也、芦田芦田與兵衛与
         |                    〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
         |  中橋孫右衛門付也、
葡萄酒醸造奉行  |一、右酒作候奉行ニ高並権平遣也、

         |                        
         |    八日  奥村少兵衛
         |
忠利信通ヲ本丸ニ |一、今朝御本丸、彦四郎様被成御振舞、諸侍衆何茂長袴にて被相詰候事、
饗スニ諸侍長袴  |
稲葉信通台所備品 |
一、彦四郎様御台所へ真鍋小左衛門尉・藤本猪左衛門尉ゟ調、被相渡候者覚、
ノ覚       |  一、上白米   弐石   一、中白米   三石   一、味噌   三桶 弐斗入
         |  一、塩     壱俵   一、すミ    五俵   一、牧    百束
         |  一、油  とくり弐つニ入 五升   一、らつそく  五十丁  一、す    壱樽五升
         |  一、せうゆ 壱樽五升   一、かつほ   十れん  一、するめ  十れん
         |
         |  一、ひだい   十枚   一、いりこ   十けた  一、こんふ  五把
         |  一、かうの物  壱桶   一、ミなとしほ 十ヲ   一、しほかも 五つ
         |  一、塩引    壱つ   一、さんせう  一袋一升 一、からし  壱袋
         |  一、酒樽  五つ 弐斗入 一、はし    八百膳 内弐百膳はしらはし
         |       以上
生肴ノ納入    |  右之外、生肴之分は、色々を当座/\二、魚町ゟ入申候様ニ申付候通、右両人被申候事、
         |                        (豊後玖珠郡)
納戸ノ算用了ル  |一、坂本仁兵衛被申候は、御納戸御算用仕廻申、明後日小田へ参候由にて、登城被仕候也、
知行所ノ失念書上 |一、沢村九兵衛先知、又替知を被遣候御書出し、九兵衛ニ直ニ相渡、右ノ御書出シを取もとし申候也、
ゲシヲ書替へ書出 |    (飯田)
ヲ取戻      |  但、才兵衛弐相渡可申候也、

         |                        
         |    九日  安東九兵衛
         |                      ( 衍 )
忠利信通ヲ本丸ニ |一、彦四郎様を、今朝御本丸にて、被成御振舞被成候也、
饗ス       |
         |             (米田是季)
信通ヲ同道米田是 |一、今晩 殿様・彦四郎様、監物殿へ御成候也、
季邸ニ臨ム    |
長池陣小屋へ幕ヲ |一、長池御陣こやかけ申候処へ、御まく十はり、但、だん/\の御まく、御長柄源助ニ持せ遣、岩田
遣ス       |  喜右衛門ニ慥渡候へ之由、申付候而遣候也、
忠利信通ト長池ニ |一、御掃除の宇兵衛ニ申渡候は、上林甚介所へ被参候而可申は、明日殿様・彦四郎様、長池へ御慰ニ
遊バントス    |  被成御座候、其次而ニ、御馬御責被成儀も可在之候間、追廻シの御座之間明候而、畳以下も悪敷
追廻馬場ノ座敷ヲ |  候は、平三郎ニ申届候而敷替、其外見苦所候は、急度繕申候様ニ可仕候、かぎハ中津口御門番可
調ハシム     |  児清左衛門所ニ在之候間、申理候而請取可申由、甚介ニ申届候へ之由、う兵衛ニ申渡候事、
座敷ノ鍵ハ中津口 |
門番保管ス    |

 

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■今日の熊日新聞・ニ題

2021-02-10 14:52:01 | 新聞

今日の熊日新聞に、二つのBIGな記事があった。
一つは今年度の県の重要文化財二件の指定答申があり、ご厚誼をいただいている肥後金春流の中村勝氏ご所蔵の貴重な能楽関係史料が決定を見ることになった。以前からお話は伺っていたが、喜ばしい限りである。

                                          

 いま一つは、細川家重臣でキリシタン信者として棄教に応じなかった、加々山隼人の誅伐に係る文書発見のニュ―スである。
その事実だけを承知しているが、資料の具体的なものがなかった。新しい資料として注目を浴びそうである。

                                                                 

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■細川小倉藩(485)寛永七年・日帳(四月三日~五日)

2021-02-10 07:00:00 | 展覧会

                     日帳(寛永七年四月)三日~五

         |                        
         |    三日  安東九兵衛
         |
         |一、今日は未明ゟ雨降候事、
         |此三人へ被遣御文箱ノ銀子ハ、小笠原壱岐守様へ参小判ノ儀被 仰遣由、左兵衛被申候、藤北殿ゟ早キ便候ハヽ可上申候へ共、別ニ早キ便無之ニ付、藤北殿便ニ上ス也
忠利書状諸方宛  |一、寺嶋殿・米田殿・仁保殿へ被進候御書箱壱つ、又京にて津田與庵様・豊永好入様・都築次左衛門
         |                           (秀政)
         |  殿へ被遣候御書三つ、一箱ニ入被遣候、慥請取申候、       吉田理兵衛〇(黒印)
         |                                        (政朝)
         |   但、京へノ御文箱ハ御取返候而、藤掛蔵人殿へ御渡被成ニ付、差上候、左候て、本多甲斐守
         |             (名村)
         |   へ被進候御文箱、むろ左太夫迄可相届由ニて、うけ取申候、以上、
籠ノ鍵ヲ林隠岐へ |一、籠ノかき、祐念ニ持せ、林隠岐ニ渡させ申候也
渡サシム     |
本多政朝ヘノ状ヲ |一、本多甲斐守様へ 御書箱壱つ、むろの左太夫所へ差上せ、左太夫ゟ相届候様ニ可申遣旨、皆川治
名村左太夫へ届サ |                                          〃〃〃
シム       |  ア林隠岐を以、被 仰出候事ニ付、御船頭吉田理兵衛ニ渡、
         |  〃           〃
藤北三佑ノ船旅ヲ |一、藤北三佑殿御上候ニ、船中御気遣ノ由候間、小早を壱艘付上せ候へと、被 仰出候間、奉得其意
気遣ヒ小早ヲ付シ |  通御請申上候、何丁立ノ御小早申付候通、可申上旨候ニ付、幸御船頭田村善兵衛御奉行所ニ有合
ム        |  候ニ付、相尋候ヘハ、四丁立ノ御舟こしらへ置申由申候間、其段申上候事、

         |                        
         |    四日  奥村少兵衛
         |
         |                         後筆                        (へヵ)
         |一、京都へ被遣 御書箱、藤掛蔵人殿ニ相渡申候事、「津田與庵・豊永好入・都築二左衛門殿□被遣候
         |                         御書、右ニ御船頭ニ渡候へ共、蔵人方ニ渡候也、」
忠利有吉英貴邸ニ |一、今朝は、頼母佐殿へ御申被仕候事、
臨ム       |
掃除坊主ノ跡式  |一、皆川治ア被申候ハ、御掃除坊主ノ喜斎病死仕候、左候ハヽ御座候ヘハ、喜斎せかれ親ニおとり不
         |                         〃〃〃
裁可ヲ得難キ身分 |  申ものにて御座候間、則かミをそらせ、喜斎ニ成可申候間、其まゝ跡次ニ被召置可被下候、かや
故子ヲソノマゝ襲 |  うノ類まて立 御耳申儀、 御前難成御座候、其上御掃除坊主すくなく候て、御用かけ申候間、
名セシメム    |  右之分ニ可仕と被申候間、談合之上、右ノ分ニ被仕被仕候へと申渡候事、
         |   (延俊)
木下延俊使者ノ宿 |一、木下右衛門様ゟ、御使者ニ■■青野少左衛門被参候、宿奉行被申付候へと、坂崎清左衛門方へ申
奉行       |  渡候也、
         |一、木下右衛門様ゟ御使者青野少左衛門御やと奉行不被参候間、急度可申付由、式ア殿ゟ被仰聞候
         |  事、

         |                        
         |    五日  加来二郎兵衛
         |
藤北三佑出船ス  |一、藤北三佑殿、今日被成御上候也、
         |            (長沢顕長室、沼田清延女)
三佑ノ帰リ舟ニ |一、三佑殿御上候御舟ニ、いよ殿被下候ハヽ、船中已下念を入、下候へと可申上旨被 仰出ニ付、
ヲ乗セ下ラシム |  此段京・大坂衆へ具ニ申遣候、いよ殿へ被遣 御書ハ、吉田理兵衛京へ持上り候へと申付、渡申
         |  候事、
         |   (吉重)                       (信通)    (ママ)
沢村吉重ノ言分  |一、沢村大学殿ゟ、使者を以被仰聞候ハ、今度稲葉彦四郎様就御座候ニ付而、下々御賄ノ料理人出候様
稲葉信通家来ヘノ |  ニと被仰触候、拙者儀は能料理人持不申候、魚なと洗候ものなとハ御座候、か様ノ者を茂出シ可
賄ノ料理人差出ノ |  申候や、但、拙者ゟも知行高之衆、御触の外ニ御座候間、是ニも被差替候而可被下候やとの被仰
觸  吉重ヨリ知 |                                 (元信)
行高ノ南条元信ハ |  聞様にて候、此方より申候は、御使得其意候、貴様ゟも知行高之衆、南条殿、是は触落被申候、
触落 料理人差出 |  当前ニ而御座候は、たとへ料理人無御座候とても、此方ニ存儀にて無御座候へとも、貴様ゟも知
ハ元信へ差替ヘム |  行高触おとし申候間、差替候由、返事候事、
         |一、横田権佐与小頭有馬七左衛門登城也、此中相煩申、湯治なと仕候而、快気仕候由申候也、
         |  なめし
鞍覆百障泥百製作 |一、とうの御くらおゝい百・同あおり百かけ、今度被仰付候、皮ハ此方ゟ被成御出候、くらおゝい壱
ノ命       |  つニ付弐分のまけ、まへかとの御定弐匁五分ノ内、弐分御まけ申候、又あおり壱かけニ付、二匁
ソノ価      |     〃〃〃〃〃
         |  六分、内五分ノまけ申由、岡本源次・池内源介両人被申候、かわや共呼寄、如此相極申由候、
         |  (桐 油)
         |  とうゆハかわや自分ゟ引あけ申由候、
忠利藤北三佑ヲ川 |一、三佑殿を被成御送、 殿様川口迄被成御出候也、
口迄送ル     |

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■猿木宗那は、私の母方の祖母の父親・・です

2021-02-09 17:33:11 | オークション

小堀流 古式 泳法 資料」検)細川藩 熊本藩 踏水術 泅術目録 六代師範・猿木宗那 水泳 古武術 明治期 秘伝書 極意書 小堀常春 
          

 随分長く同居していた母方の祖母は、熊本の古式泳法である小堀流の六代師範である猿木宗那の長女である。
私は全く興味がなかったが、長ずるに及んでやっておけば良かったと思ったことが有る。
姉が、「六代師範の曾孫がプールに沈んだらお笑い草だよ」と大いに私を馬鹿にしたことを思い出している。

その曽祖父の資料がまとめてヤフオクに出品されている。私信が含まれていたら少々頑張ってみようと思うが、みんな小堀流に関する物の様だ。
しかし曽祖父の資料がこんなにまとまって何処から出たのだろうと、そちらに気がひかれている。

コメント (3)
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■細川小倉藩(484)寛永七年・日帳(四月朔日~二日)

2021-02-09 07:18:23 | 細川小倉藩

                     日帳(寛永七年四月)朔日~二

         |                        
         |    朔日  奥村少兵衛
         |
はたものヲ黒崎口 |一、田川郡今任村之彦兵衛、今日黒崎口へ、はたものニ御かけさせ被成候事、
ニ懸ク 子ハ赦免 |  右之せかれ権三郎ハ被成御赦免候ニ付、田川へ御鉄炮衆壱人付、御郡奉行衆へ遣候事、
サル       |
         |      (坂崎)
忠利坂崎一角邸ニ |一、今朝は一角所へ御申被仕候事、
臨ム       |
         |一、岡本源次被申候ハ、寺井十兵衛此中さん/\相煩、御普請場へも不罷出候間、各様迄申上くれ候
         |  へと、被申候由、被申候事、
上林甚介挽茶ノ見 |一、上林甚介御茶仕上候色を見候へと申候而、引茶少持参申候事、
分ヲ願ウ     |
         |     (村上景則)
三斎ヨリ鷹ノ雁幷 |一、中津ゟ、河内飛脚被差上候、江戸ゟ便宜ニ、御鷹之雁箱ニ入参候、又去年之壱万石ノ御借状被成
ニ寛永六年壱万石 |                       (飯田)
ノ借状戻ル    |  御戻由にて、持せ被差越候、則 御前へ上申、才兵衛ニ渡申候、
三斎書状     |   三斎様ゟノ 御書箱壱つ、
         |  (細川光尚)
光尚書状     |   御六様ゟノ 御書箱壱つ、
         |  右何も上申候事処、則 御返書被進候、御六様へ之御返書も一つ御文箱ニ入、貴田藩左衛門ニ当
         |  り被進之候也、

         |                        
         |    朔日  加来二郎兵衛
         |
米打ノ奉行    |一、中川四左衛門申候ハ、御小々性衆を以、十日斗懸申御用被仰付候、今迄ハ御米打申御奉行被仰付
         |  候、若御米打候ハて不叶儀共候ハヽ、かわりを可被仰付由申候、心得候由申候事、
         |   (忠知)忠興室の実弟
小笠原忠知へ返書 |一、小笠原壱岐様への御返書ノ御文箱、歩ノ御小性守友市太夫ニ持せ遣、御飛脚ニ渡させ申候也、
         | (室、播磨揖西郡)                  (政朝)                 (名村)
鞣革買入     |一、むろゟ、なめしかわかい下候便ニ、本多甲斐様ゟ被進候御文箱、むろ左太夫処迄ひんき次第下候
         |  へと候て、参居候由にて持下ル、小林久助ニ持せ、御本丸へ上ヶ申候事、
         |      (佑)
藤北三祐ヘノ進物 |一、藤北三丞殿へ被進物数の覚
数ノ覚      |  一、御小袖袷ヲ、
         |  一、はなもうせん三枚、
         |  一、銀子廿枚、同人御袋様へ、
         |  一、どんすのはかま壱つ、
         |    (繻 珍)
         |  一、しゆちんノはかま壱つ、    (佑)
         |  一、杉原五束入壱つ、     三丞殿内     
         |  一、小袖壱つ、           喜内へ
         |  右之御使者続権右衛門尉也、
藤北三佑上ル二ツ |一、藤北三佑殿御上りニ付、藤掛蔵人を付、被成御上せ候処、明朝三佑殿ニ、御門出之御ふる廻可被
キ藤掛蔵人ニ随行 |  成由、被 仰遣候ヘハ、三佑殿御返事ニ、蔵人被付遣候筈ニ候へ共、蔵人上り被申儀不罷成候、
ヲ命ゼラル 門出 |  其子細ハ、手前すり切はて、こしらへ不罷成候、出船二三日ものべ
、其内ニ才覚可仕由、被申候
ノ振舞 藤掛蔵人 |  由、御請被申上候処ニ、修理・兵庫・式ア殿も有相候て、かやうニ可有之儀ニ而ハ無之間、修理 
摺切果テ仕度ナラ |  ・兵庫、かり主ニ罷成、銀子五十めほとかり候て遣候へと、式ア殿被仰候付、此段加来二郎兵衛
ス 惣奉行ニ代リ |  を以、松之丸衆へ申遣候ヘハ、さやうニも仕にくき儀候間、蔵人殿内儀之知行余米少有之由、被
借主トナリ銀子ヲ |  申候間取置候、免付帳ニハ余米無之候へ共、銀子八十めほとかし可申申由、被申候也、
貸サントス 蔵人 |                                〃
内儀ノ知行余米ヲ |     藤掛蔵人 物奉行 五百石  (於豊前小倉御侍帳)
引当テ貸サム   |       内儀 冷泉為将長女 百石(於豊前小倉御侍帳)
免付帳ニハナシ  |
         |一、高並権平登城にて被申候は、高並源兵衛相煩、先月廿鉢日ニ相果て候由、被申候也、
         |  (稲葉信通)           (ママ)
稲葉信通従者人数 |一、彦四郎様御道具持弐人・小々者八人・下男五人、宿奉行ニ御鉄炮衆両人申付候、両人共、横山助
         |  進与久野市兵衛・中村茂左衛門尉、
自徳院領ノ庄屋ノ |一、自徳院之御知行所国東郡両子村之庄や二左衛門小者忠二郎、爰元へ日用取二参、罷帰候とて、黒
小倉帰途ヲ間違へ |  崎口人留へ参懸候二付、西村善兵衛介、めしつれ、式ア殿へ参候処ニ、山本源太夫を被付遣、被
人留ニ捕ル    |                                   (有吉英貴)(米田是季)
         |  仰聞候ハ、右之分二道をふミちかへ申由申候、我等共に様子を承、さ候て、頼母殿・監物殿へも
偽リノ申告    |  めしつれ参候へと被申候間、源太夫被申候、右忠次郎口上をも承候ヘハ、人留へ与風参懸、改被
         |                             〃
         |  申候二付、別に可申様ハ無御座候二付、彦三へ人二被頼、札申請二参候と申候へ共、此儀ハいつ
         |  わりにて御座候、むさと道をはふミ違へ、参候由申候事、
         |               〃
藤北三佑逗留中ノ |一、河村七左衛門を、藤北三佑様当地逗留中、御のり物奉行二付置候処ニ、肩衣・はかま一下被下
乗物奉行へ衣料ヲ |  候由申候事、
与ウ       |                                      右二色
船頭へ給与    |一、右御下ノ時の御船頭重田吉左衛門ニ、御肴一折・御樽壱つ、其刻火遣由申付候付、書付上申候事、            


     


  

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■迷子発見

2021-02-08 09:03:00 | 人物

 随分以前、東大史料編纂所発行の「大日本近世資料・細川家史料」の巻末にある人名索引を、すべてまとめて「人名索引」をつくり、その人物が同史料の何巻目に登場しているのかをWEBでご紹介したことが有った。
次のような感じである。( )の左の数字が巻数であり、右の数字は記事番号である。

   ○ 阿部正次 (2-344)(3-633・670)(4-934)(6-1519)(7-1717)(8-4・6)(9-103・104・111・158・359)
    永禄十二年三河に生る。徳川家康、秀忠に仕ふ。慶長五年四月遺蹟を継ぎ、書院番頭。同年十一月十七日従五位
    下備中守。一萬石を領し、鳩谷に居す。十五年五千石加増。十六年八月大番頭。元和二年奏者番。三年九月上総
    大多喜城主(三萬石)五年相模小田原城主(五萬石)。九年武蔵岩槻城主(五万五千石)。寛永二年十二月十一
    日朱印高五万六千石餘。三年四月六日大阪城番となり、摂津に於て三萬石加増。正保元年十月十五日従四位下。
    正保四年十一月十四日大坂城に於て歿。年七九。

 このサイトの寿命は誠に短かった。東大史料編纂所から御目玉をくらってしまった。当時の編纂所所長からの直接のご指摘であった。
索引を作ったという事よりも、説明文の引用が著作権の運用に抵触するというようなご説明であったように記憶する。
私はいまだに、このような索引が有れば、知りたい人物の記事が何処に掲載されているかが、たちどころに判るから大変便利だと自賛しているのだが・・。
結果としてすぐさま削除した。 https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/98d8d9c1cca09d5440cd6579fab7c5e3

 一昨日の事だがご厚誼をいただいているF氏から、ある人物についての問い合わせがあった。
この史料の事を思い出したのだが、どうしても引っ張り出せない。
仕方がないから、できる限りの刊本史料からご返事申し上げた。

 一度WEB上で世に出たものは、削除しても人知れずさまよっているから、何とか探し出そうと努力してみた。
ようやく功を奏し迷子を発見することができた。

   https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=crmas&p=http%3A%2F%2Fwww.shinshindoh.com%2Fjs

F氏お問い合わせの人物はまだ登場していないところを見ると、このサイトを作成以後の巻に登場しているものと思われる。
自分用にまた整備してみようとも思っている。        

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