細川家と筑前黒田家との仲違いは、細川家の豊前入国後から起っている。
それは豊前の先の主である黒田家が、先納分の年貢米11万石余を持ち去っていたことに起因する。
つい先ごろまでは、関ヶ原や石垣原の戦いで共に苦労を重ねてきた仲だが、この黒田家に行為は一気に両者の間を不穏なものとした。
家康は細川家に好意的であったように見えるが、片桐勝元・山内一豊が中に入り、半年後黒田家は9万石を返却した。
残り2万石は片桐・山内氏への仲介料であったとされる。
両家の確執は140年弱長く尾を引き宗孝の代に至った。
筑後と豊前を結ぶ道筋には人の往来を監視する人留所が置かれ厳重な監視がなされた。
それでも、百姓町人の走り者や、罪を犯した者たちの侵入・逃亡が繰り返されている。
現在ご紹介している寛永期の状況を見ても、数多くの事件が取り上げられている。
細川家では特に逃亡者に対する仕置が厳しく監視されている。
侵入者に対しては、人留所に於いて黒田家に引き渡しが行われていたようだが、事件に絡む重要犯については、使者を遣わして引き渡しを行っている。
以下は「沼田家記」に記載されているものだが、いかにも仲違いの中での両者の振る舞いが興味深い。
延元(寛永元年死去)の名前がある事から、慶長・元和のころの話である。
何時分の儀にて御座候哉他国之取遣之儀長岡佐渡殿と
(沼田)延元様へ被仰付御勤被成候刻筑前より科人小倉へ走り参
居申候 其節は黒田甲斐殿と御中悪敷最中にて御座候
得とも大犯人にて御座候哉付届ヶ御座候而彼者被召捕
筑前へ被遣候 延元様ゟ坂井半右衛門佐渡殿ゟ元橋彦之丞
と申す鉄炮両人にて走者を召連筑前黒崎之城主井上
周防へ相渡申候 周防家老大崎彦右衛門と申者罷出挨拶
仕候 其時彦右衛門申分豊前ハ小国にて御家中手狭御座候に付
可様之科人も早々被召捕被遣候 筑前ハ領内廣く御座候
得は重て走り者参り候とも知レ不申儀も可有之なとゝ
申につき坂井半右衛門返答仕候は被仰分合点不参候 国之
廣狭にてより申間敷候今程天下一統之御代にて江戸
よりの御仕置政敷御座候に付遠国彼嶋迄も一国のことくに
罷成候 越中守儀は江戸之御仕置を堅相守り申候に付
科人なと領分に居申候を無穿鑿に仕儀にて無御座候
何様甲斐守様御仕置ハ緩せに御座候と相見へ申候 奉
公人ハ不知儀に候得は向後如何様之儀にて国を立退申
候共御国は西国之能高野山と存頼母敷存候と申候得ハ
彦右衛門赤面し由に御座候 両人能帰候段 忠興様達
御耳先様之様子御聞可被成御意ニも両人御城へ登り
申候 忠興様障子越に御聞被成所に半右衛門段々之次第
具に申上候得は無残所返答仕候 物をよく申候由御褒美
被成候由御座候叓
大崎彦右衛門と申者は関ヶ原陳之刻五檜垣原にて
大友家吉弘嘉兵衛首を申侍ニ御座候