津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(490)寛永七年・日帳(四月十六日~十七日)

2021-02-15 09:05:33 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年四月)十六日~十七日

         |                        
         |    十六日  加来二郎兵衛
         |
         |一、今日、大雨ふり申候事、
本丸水遣所ノ漏水 |一、御本丸敷瓦ノ所へ、水遣候所ゟすき候て出申候間、水遣所を直させ可被申由、矢野勘右衛門ニ申
修理ヲ命ズ    |  渡候事、
         |   (雁木)
板雁木上ノ付庇ノ |一、板がんぎノ上ノ付ひさしノふち尊たる所有之間、是も直させ可被申由、右同人ニ申渡候事、
縁ノ修繕     |
間紹甫ヨリ召上ゲ |一、間紹甫ゟ被 召上茶壺、八喜木工ニ相渡申候、但、見達使にて持せ、御本丸へさし上申候事、
シ茶壺      |
         |   (辰珍)           (同近利)家康・秀忠に仕、寛永十九年没
津川休閑飛脚へ京 |一、津川四郎右衛門殿御舎兄休閑様ゟノ御飛脚ニ、京銭弐貫文被遣候也、
銭給与      |
小倉屋中津へ返上 |一、小倉や與四郎登城にて申候ハ、七左衛門中津返上銀ノため、式ア殿・頼母殿・監物殿御判ノ御借
銀ノ家老借状上方 |  状拾貫目一枚申請、差上申候処ニ、上方にてはかりかへ不成由にて、七左衛門ゟ下申由申候、御
ニテ借替ナラズ  |  年寄衆ノ借状弐て候ハヽ、上方にてかりかへ可申候間、被下候様ニと、其方申ニ付、我々申理、
家老等連署ノ借状 |  右ノ御借状取渡シ申候処ニ、さやうニ申渡儘ニ自由申儀不届候、其上中津ゟ、右ニ参候状ニ、其
ヲ渡スニ彼是無首 |  後其方中津ニ参候て、参候状ニ違却、かれこれ以無首尾成儀申上候、此段立 御耳候ハヽ、其方
尾ナル申様    |  ハろくニハ通り申間敷候、よく心得候へと申渡候、此方への談合ハ不入候、木や里右衛門と相談
木屋里右衛門ト相 |  仕候へと、申渡候事、
談スルヲ命ズ   |
         |     (仁保慰英)(米田是次)
大坂詰役人ヘノ状 |一、大坂衆太兵衛・左兵衛方へ遣候書状壱つ、
         |一、同寺嶋主水方への書状壱つ、
         |                  (加藤) (粟野) (豊岡)
         |一、太兵衛・左兵衛方へ新兵衛・伝助・甚丞かたゟ遣候書状壱つ、金守形右衛門ニ渡、上り候也、

         |                        
         |    十七日  奥村少兵衛
         |
      笋     
田川郡ヨリ筝上ル |一、夜前、田川ゟ竹子弐拾本持来候、内拾本、今朝彦四郎様御宿ニ而御膳上り申候間、御料理ニ成申
ヲ稲葉信通宿へ渡 |  様ニと申、御宿へ持せ上申候、〆而十本ハ重而御やとにて御膳上り申候時、又御宿へ持せ上可申
ス        |  由ニ而、御奉行所ニ置申候事、
         |(ママ)
         |一、
         |(ママ)
大坂寛永五年分ノ |  大坂ニ被詰居候御書物衆寛永五年分ノ借状を見出シ、加藤新兵衛所へ持せ遣候、相尋候処、持せ
借状       |  被下、忝候由申候也、
大手門番病死届  |一、大手御門番村田六兵衛、此中相煩、昨日相果候由、竹石五郎右衛門申候也、
         |  (山城久世郡)
宇治へ茶詰ニ遣ス |一、うぢへ御茶詰ニ鈴木助太郎・渡辺真斎、歩之御小性高橋久左衛門被成御上せ候ニ、付遣候御鉄炮
者        |  衆、
         |   (桑原)
         |  一、主殿与斎藤市右衛門・永瀬仁兵衛、
         |   (井関)
         |  一、久馬助与無田太右衛門、
         |  一、国友半右衛門与下田市右衛門・宗村六右衛門、
         |  右五人付遣候也、
         |                          (粟野)
江渡詰御切米取ノ |一、江戸御切米取御切米帳ニ落申分の書立、加藤新兵衛・あわの伝助・豊岡甚丞より差帋相調、松の
切米帳ニ付落シノ |  織ア・町三右衛門所へ遣被申候を、金守形右衛門所へ被相届候へと申、持遣候也、
書立       |
         |
掃除坊主死跡ノ補 |一、御掃除坊主喜斎、当春病死仕候付、先度治ア被申候ハ、喜斎儀病死仕候跡替之坊主得 御諚、召
充        |  抱可申候へ共、御事多内ニ御座候間、得 御諚申ニ及申間敷と存候、幸、喜斎せかれ御座候間、
         |  かミをそらせ、喜斎跡ニ入可申候間、得其意候へと被申候ニ付、此方ゟ申候ハ、其分ニ可被成と
         |  御差図申ニ而ハ無之候、承置候へとの儀ニ候は、承届候由申候処、今日かのせかれを治ア召連被
末期養子     |  参、被申候ハ、喜斎跡ニ入可申と、先度申候ハ此せかれにて候、喜斎以外相煩、相果申ニ究申ニ
ほそき倅     |  付、休羽せかれを養子ニ仕申候、喜斎直子にてハム御座候、喜斎跡ニ御入被下候へは、女房又ほ
         |  そきせかれも御座候間、やしない申儀ニ付、如此候由、被申候事、
能登総持寺使僧等 |一、吉田縫殿登城ニ而被申候ハ、能登之総持寺ゟ、使僧上下五六人にて罷下候、玄功寺ニ宿を申付候
下着ス      |  処ニ、安国寺ニも、玄功寺ニ茂宿仕間敷由申、如何可有之やと被申候、か様之儀は御年寄衆へ可
玄功寺安国寺ニ宿 |  被申由、申渡候事、
セズト申ス    |

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■筑前黒田家と豊前細川家の仲違い

2021-02-15 06:58:31 | 史料

 細川家と筑前黒田家との仲違いは、細川家の豊前入国後から起っている。
それは豊前の先の主である黒田家が、先納分の年貢米11万石余を持ち去っていたことに起因する。
つい先ごろまでは、関ヶ原や石垣原の戦いで共に苦労を重ねてきた仲だが、この黒田家に行為は一気に両者の間を不穏なものとした。
家康は細川家に好意的であったように見えるが、片桐勝元・山内一豊が中に入り、半年後黒田家は9万石を返却した。
残り2万石は片桐・山内氏への仲介料であったとされる。

両家の確執は140年弱長く尾を引き宗孝の代に至った。
筑後と豊前を結ぶ道筋には人の往来を監視する人留所が置かれ厳重な監視がなされた。
それでも、百姓町人の走り者や、罪を犯した者たちの侵入・逃亡が繰り返されている。
現在ご紹介している寛永期の状況を見ても、数多くの事件が取り上げられている。
細川家では特に逃亡者に対する仕置が厳しく監視されている。
侵入者に対しては、人留所に於いて黒田家に引き渡しが行われていたようだが、事件に絡む重要犯については、使者を遣わして引き渡しを行っている。
以下は「沼田家記」に記載されているものだが、いかにも仲違いの中での両者の振る舞いが興味深い。
延元(寛永元年死去)の名前がある事から、慶長・元和のころの話である。

          何時分の儀にて御座候哉他国之取遣之儀長岡佐渡殿と
         (沼田)延元様へ被仰付御勤被成候刻筑前より科人小倉へ走り参
          居申候 其節は黒田甲斐殿と御中悪敷最中にて御座候
          得とも大犯人にて御座候哉付届ヶ御座候而彼者被召捕
          筑前へ被遣候 延元様ゟ坂井半右衛門佐渡殿ゟ元橋彦之丞
          と申す鉄炮両人にて走者を召連筑前黒崎之城主井上
          周防へ相渡申候 周防家老大崎彦右衛門と申者罷出挨拶
          仕候 其時彦右衛門申分豊前ハ小国にて御家中手狭御座候に付
          可様之科人も早々被召捕被遣候 筑前ハ領内廣く御座候
          得は重て走り者参り候とも知レ不申儀も可有之なとゝ
          申につき坂井半右衛門返答仕候は被仰分合点不参候 国之
          廣狭にてより申間敷候今程天下一統之御代にて江戸
          よりの御仕置政敷御座候に付遠国彼嶋迄も一国のことくに
          罷成候 越中守儀は江戸之御仕置を堅相守り申候に付
          科人なと領分に居申候を無穿鑿に仕儀にて無御座候
          何様甲斐守様御仕置ハ緩せに御座候と相見へ申候 奉
          公人ハ不知儀に候得は向後如何様之儀にて国を立退申
          候共御国は西国之能高野山と存頼母敷存候と申候得ハ
          彦右衛門赤面し由に御座候 両人能帰候段 忠興様達
          御耳先様之様子御聞可被成御意ニも両人御城へ登り
          申候 忠興様障子越に御聞被成所に半右衛門段々之次第
          具に申上候得は無残所返答仕候 物をよく申候由御褒美
          被成候由御座候叓
             大崎彦右衛門と申者は関ヶ原陳之刻五檜垣原にて
             大友家吉弘嘉兵衛首を申侍ニ御座候

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