津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■少々過ぎまするぞ・・・

2021-02-01 18:07:06 | 徒然

 我が家のメダカが至って元気よく越冬している。
そんな中で水槽の廻りの藻を食べてもらおうと、サカマキ貝を入れたのは良いが、これがやたらと増えて困っている。
いつも交接していて、あちこちにゼリー状の卵を産み付け、瞬く間に大きくなっていく。
田螺が二つ入っているが、この甲羅にも産み付けてしまう。慌てて取り除いているが、小さな斑点が証拠として残っている。
中に入れている石に産み付けることが多いから、時々取り出してお湯をかけたり、日光浴処分をしている。
このまま放っておくとどれくらい繁殖するかと暫くそのままにしていたことが有ったが、少々恐ろしい状態になりやむなく強硬手段に出ている。
それにしてもお盛んではある。「少々過ぎまするぞ・・・」

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■指名された四家

2021-02-01 15:42:45 | 史料

 慶長六年これら四家は幕府からあることにより指名されました。さて何事でしょうか・・・?
 これを御覧になって即答された方は、大変な「細川通」と言えるでしょう。

 

                                          松井康之
                                                 ‖----------佐渡興長-------------------→松井家
   沼田光兼----+----光長 ----+----●
       |      |
       |      +----〇----------与次郎光次
       |
       +-----●    飯河宗祐     長岡宗信
       |  ‖-------------豊前--------肥後 (豊前・肥後誅伐により絶家)
       | 飯河信堅
       |            +----多阿 (平野九郎右衛門室)
       |            |
       +----清延---------延元------+----延之--------------------→沼田家
       |
       +----麝香
          ‖-----------------------------------------------------→細川家
       細川幽齋

               有吉立行 -----------------------------→有吉家

 


 最近沼田家史料で発見した記述の中にあるものを、略系図としてみた。
それによると、大名家家臣からも證人の江戸定府が求められ、幕府役人が九州へ下ってきている。
その時指名されたのが、松井佐渡(康之)・長岡肥後・沼田延元・有吉立行の四家である。
処が有吉立行は死去し、長岡肥後は父飯河豊前と共に誅伐された(文面では切腹とある)為、松井家と沼田家の二家が證人を江戸へ上げた。
松井家は嫡男・興長以外に人が居ないため康之室・自徳院の甥・沼田与次郎に急遽松井姓を与えて證人とした。
一方沼田家は延元の娘・おたあ(多阿)を證人とした。
この略系図を見ると、四人のうち三人が沼田家の一族であることが判る。
男子には五十人扶持・女子には三十人扶持が幕府から支給されたようだ。
沼田家家記によると、これは直接沼田家には入っていないらしく、大いなる不満態の文章が記されている。
これは後年の沼田延之の三人の息子・延将・延晃・延春が江戸證人になって居り、夫々知行を頂戴しているが、證人料は別物だろうという原則論を声高に書き残していて面白い。

後に三卿家老の米田家も当然加わることになるが、当時の米田是季は何故かこの時期には加えられていない。
のちに長岡肥後の誅伐事件が原因と思われ細川家から離反することになるが、事件はこの四家が指定された直後の事であり、米田是季の離反もその後の事であり、少々理解に苦しむ所である。

 

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■細川小倉藩(476)寛永七年・日帳(三月五日~六日)

2021-02-01 07:00:46 | 細川小倉藩

                     日帳(寛永七年三月)五日~六日

         |                        
         |    五日  加来二郎兵衛
         |
進物用小袖下ル  |一、岐木與右衛門尉罷下候、御遣小袖、其外御納戸へ相渡申御物積下候由、申候事、
竹原以凡下着ス  |一、竹原以分、右之御舟ニ被下候事、
         |中津郡はね木村ニて追懸、相渡候通、伊藤左衛門申候也(豊後速見郡)              シ遣候へと被仰出候へ共、
木下延俊宛書状  |一、木下右衛門様へ被進之 御書壱通、日出へ御物奉行ニ遣候御鉄炮衆ニ相渡ス筈ニ候へ共、はや御
         |                                   〃〃〃〃〃〃  
         |  御物ニ付参早漏ニ付、跡ゟ持せ遣候続亀介与伊藤さ右衛門ニ持せ、追かけ遣候、さきニ参候御鉄炮衆
         |  ニ能念を入、渡候へと申付、遣候也、
         |一、御小早之御船頭宮崎孫左衛門、大坂ゟ罷下候也、
         |      (ママ)
         |一、竹原以凡
江戸邸花畠掃除奉 |一、桑原主殿与大槻吉兵衛被 召上、江戸御花畠之御掃除奉行ニ被 仰付候へ共、御意ニ入不申候
行忠利ノ気ニ入ラ |  付、江戸ゟ御もとし被成候条、則もとの与ニ、幸明所有之由申候間、もとの与へもとし申候事、
ズ旧与ニ戻ス   |
         |   (元次)
同ジク鉄炮足軽減 |一、芦田與兵衛与天野久兵衛、右同前ニ候へ共候間、御切米高十石ニ而候を、五石ニへし、大手御門
米半分ニシテ大手 |                  〃〃〃
門番トス     |  番申付候事、
         |   (立成)
道家立成下着ス  |一、道家左近右衛門も今日被罷下候事、
         |          (通春)豊後森藩二代藩主
乃美市郎兵衛久留 |一、乃美市郎兵衛、久留嶋越後殿へ御使者ニ被参、被罷帰候、越後殿にて革はかま二下被下候由、被
嶋通春へ使シ革袴 |  申候事
ヲ給与サル    |
         |      (規矩郡)
朝山斎助鷹狩ニ御 |一、朝山斎、到津村にて鷹を仕被申候付き、鳥番之もの 御印合可申由申候ヘハ、御印無之候、 御意
印ヲ持タズ    |  ニ而参候間、得其意候へと、被申候通申来候事、
忠利ノ命ニヨル  |
         |    (乗栄)
         |一、清田七介方へ、江戸ゟ参候かミ袋一つ、七介内末留伝兵衛に相渡候事、

         |                        
         |    五日  加来二郎兵衛
         |
         |
城野ノ薬師堂ノ修 |一、城野ノやくし堂繕可進之、其弥美にて材木を取、其跡ニ木をうへ候て可被進之候間、くじを取、く
繕ニ其藪ノ材ヲ用 |
ヒ跡ヲ植木セシム |  し次第ニ可仕旨被 仰出ニ付、八右衛門ニ右之段申渡、右之宮ニ被参、繕被申付、さ候て、くじ
神鬮ハ植木ニ及バ |  を坊主ニとらせられ候ヘハ、木を御うへなさるゝニおよひ不申と、くじおり申候ニ付、則坊主、
ズ  坊主庄屋ニ |  又所之庄やニも書物をさせ、八右衛門被置候由、被申候也、
書物セシム    |
馬料ノ糠藁ヲ町人 |一、御馬や之ぬかわらを町之久兵衛と申者請候て納申候、去年三月分御馬屋へ納、小頭幷上田忠左衛
請負ウ      |  門請取切手ハ取於候へ共、わら奉行中嶋茂左衛門三月中以之外相煩、同廿七日に相果申候に付、
藁奉行病死シ請取 |                           (松本)  
切手渡ラズ    |  右之切手不取置候、其ニ付、代米今迄不相渡有之候、彦進・松之御丸衆吟味之上、代米相渡り候
代米下サレズ   |  ニ究被申由候、御馬や衆うけ取切手無紛ニ付、右之分ニ申付候由、彦進被申候事、
米打之横目    |一、中川四左衛門尉、米うち申横目ニ、今日ゟ申付候事、
口ノ納戸番新任  |一、辻九右衛門、今日ゟ口ノ御納戸御番申付候事、
         |                          (桑原)
江戸邸華畠掃除者 |一、江戸御花畠ニ被 召置御掃除之者五人之請状、今迄ハ主殿与ノ大槻吉兵衛手前ニ取置候へ共、吉
ノ請状ヲ奉行へ渡 |  兵衛ハ前之与へ被成御戻ニ付、右之請状、上林甚介へ渡置候へと、申付遣候事、
ス        |

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