津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■明智光秀に味方した若狭武田家とその後の若狭衆

2021-02-12 12:29:42 | 展覧会

昨日Yahooで配信されたサライ・JPの記事「本能寺の変後に明智光秀に味方した名門・若狭武田家と後瀬山城」は大変興味深いものであった。
私のサイト内に、特に「細川家中の若狭衆」を設けているように、多くの若狭武田家の人たちが細川家に召出されている。
先祖附その他から現在15人の方々を確認している。あの沢村吉重もその一人である。西川与助の足軽となり、10,000石の大身に上り詰めた。

それは6代信豊の弟・信高に幽齋女・宮川が嫁いでおり、その男子で京都の建仁寺長老の永甫英雄が力したとされる。
そして細川家と明智家のかかわりが何と深いことかと感じざるを得ない。

大変興味深いのは、信高の孫にあたる信秋のお墓が高森の含蔵寺にあるということである。
どういう切っ掛けで熊本へ来られたのか、又は御子孫がお墓を建てられたのか?
NHKアナウンサー武田氏や、茶道肥後古流家元武田家との関係もうかがわれる。

            五代
     武田元光---+--元度
          | 六代   七代  八代(絶)
          +--信豊---+--義統---元明
          |    |
          |    +--元実
          |       ↓
          |      大和守  山城守
          +--信高---+==元実---信秋 墓所:高森含蔵寺
               |
               +--永甫英雄(京都建仁寺長老)
                 母・細川幽齋姉・宮川殿

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