津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ある文書の真贋

2016-07-21 18:41:03 | 史料

 明後日は熊本史談会の例会、先にヤフオクで入手した文書をご披露したいと思って読み下しをようやく終わった。
    ■落札しました「切支丹就御改仕上起請文前書・肥後家老へ文久4年の裏書」
表書きは切支丹御改めの起請文、裏面には旦那寺の裏書があり、表裏の墨字が重なっていて少々苦労をした。
どうやらタイピングも終わって配布資料の体裁も整った。
読み返していたら文久四年四月という年号に思わず頭を抱えてしまった。文久四年は2月20日に改元し元治元年となっている。
この文書の4月というのが大いに疑問があり、改元の連絡が国元に届いていなかったのだろうか。真贋にもかかわる問題なのだが・・・・・・・
裏書には旦那寺の宗岳寺の黒印が押されているので間違いはないと確信していたのだが・・・少々不安ではある。

 

                  切支丹就御改仕上起請文前書

                私儀切支丹宗門ニ而無御座候従前之禅宗ニ而坪
                井宗岳寺旦那ニ紛無御座候則旦那坊主之裏
                書判形取之差上申候勿論被 仰出候御觸之趣
                堅相守可申候若自今以後切支丹宗門之者有之彼宗
                旨を勧申と云共而同心不仕早速其段可申上候あ

                   右之趣若於違背仕者
                梵天帝釈四大王惣而日本六十餘州大小之神袛別而熊野大権現春日
                大明神天満大自在天神 當國之鎮守阿蘇大明神藤崎八旙大菩薩各
                罷蒙 御罰於今生者受白癩黒癩之重病於来世者墜在無門地獄更
                不可有浮世者也仍起請文件如
 

                  右之通申上候而茂若心底ニ切支丹宗門を相守候儀茂可有之哉と
                  彼宗旨之罰文仕上申候 

                 ていうす ばてれん ひいりよ すいりつさんとを初奉りさんたまりや諸のあん
                 しよ へあとの御罰を蒙り てうすのからさ絶はて しゆうたすの事
                 頼母敷を失ひ後悔の一念もきさゝすして人々の嘲と罷成終に頓死
                 仕 いんへるのの苦患に責られ浮事有御座間敷く候仍切支丹宗門の
                 しゅらめんと件如

                  文久四年四月          松野又右衛門 花押

                      長岡監物殿

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

                表書之松野又右衛門儀従前々禅家ニ而
                當寺旦那ニ紛無御座候 為後日裏書判形
                仕候處如件

                  文久四年四月      宗岳寺 印
                      

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■あれが「熱中症」

2016-07-21 16:16:21 | 徒然

昼食後チャリンコで一時間ほど外出、どピーカンで暑いこと・・・帰宅と同時に水をがぶがぶ、危ないところ熱中症寸前といった感じ。
シャワーをして午睡をとって、今ようやく人心地がついたところです。
以前 ■とんだ散歩 書いたがあれが熱中症だったのだろう。一年前のことだが、反省が生きていない。
皆さんもご用心専一に・・・・ 

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■Google、熊本地震で被害を受けた地域のストリートビューを公開

2016-07-20 20:08:38 | 熊本地震

Google、熊本地震で被害を受けた地域のストリートビューを公開

 

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■大橋巨泉氏逝く

2016-07-20 11:19:01 | 徒然

 先の永六輔氏に続いて大橋巨泉氏の訃報が流れた。昭和のTV界の巨星が又消えた。

氏の名前は俳名からきているが、早稲田の俳句研究会に属していたが、新しく入会してきた寺山修司の句に接してその才能に勝目がないと早々と俳句の世界から足を洗ったというが、その後名前(俳名)だけは天下万民に知れ渡った。
どんな俳句を作っていたのだろうと前々から興味をもっていたのだが、ぐぐってみてもあまり出てこない。

     稲妻やひそかに祈る無頼の子

     菊匂い匂えど母の遠さかな

     水汲みの老僧花へよろめきつ

     浴衣着ていくさの記憶うするるか

     恋失ひ歩めばバッタ跳びつきぬ

     花冷えや学問をする灯をともす

ある人曰く寺山修司と比べるなんぞ・・・・寺山氏に失礼だと
すっぱり足を洗ったところがいかにも負けず嫌いの巨泉らしいではないか。一つの時代が終わった。 




 

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■天樹院(千姫)と老女・刑部卿局

2016-07-20 06:56:03 | 歴史

先の「八代蜜柑」から刑部卿つながりで・・・・ 

いまではお笑い草であるが、以前「刑部卿」という名が出てきたとき、私はすっかり細川刑部家のことと思い込んだことがある。
その後忠利公室・保壽院付の老女であることが判明して、赤面の至りであった。

同名異人がほかにもいて、いろいろな文献を読むうちに、豊臣秀頼に嫁した徳川千姫と行動を共にした老女もまた刑部卿であることを知った。先の「八代蜜柑」で書いたとおりである。

秀頼の許を離れた千姫にはいろいろな風聞が伝えられているが、上野国新田郡世田村大字徳川にあった満徳寺に入られたと伝えられる。
ここは有名な東慶寺に並ぶ駆け込み寺ともいわれるが、こちらは駆け込んだら終生尼として過ごさなければならない厳しいお寺であった。

「恐れながら台徳院様(徳川秀忠)御姫君(千姫)大阪御城より満徳寺へ御入院あそばされ、御離縁の御趣意相立、本多様へ御再縁あそばされ候。もっとも、姫君様御替りとして刑部卿局へ御住職仰せ付けられ、中興開山俊澄上人と申し上げ候」と由来書にあるという。
千姫も終生尼は如何かと、刑部卿局にその替りをたのんだというのである。しかし千姫は本多忠刻に嫁ぎ、のちには江戸城内で生活しているが、刑部卿も離れることなく終生千姫の許にあったとされる。
歴史考証家・稲垣史生氏によると、真実はというと刑部卿の替りがいてこの人物が満徳寺に居住したということらしい。 

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■献上品「八代蜜柑」

2016-07-19 07:08:22 | 歴史

 大日本近世史料「細川家史料・24」を読んでいたら、寛永十五年十月十日付の幕閣の要人宛の「蜜柑献上」の忠利の書状が目に入った。 

上妻文庫に「八代蜜柑」という表題の文書が5冊ほど残されている。慶安三年から寛政五年迄の八代蜜柑の献上の記録である。これは上妻博之氏が昭和35年から2年余の歳月をかけ、関係文書466巻から記事を採取された膨大な記録である。この貴重な記録は、単なる贈物の記録としてではなく、政治や人の動向、交通・運輸のありかたから、気候の変動など多くの情報を含んでいる。

上記忠利の書状は土井大炊頭(利勝)、酒井讃岐守(忠勝)宛てであり、将軍家に献上する旨を伝え同時に土井大炊頭・酒井松平伊豆守にもそれぞれ五百入一箱を送ることを案内している。その他堀田加賀守(正盛)、阿部豊後守(忠秋)に五百入一箱、朽木民部(稙綱)、稲葉美濃守(正明)に三百入一箱、柳生但馬守(宗矩)と佐久間将監(實勝)には五百入ながら一籠とある。
別に天樹院(千姫)にも老女・刑部卿局を通じて五百入一箱を送ることを案内している。
ここでは記されていないが、禁裏や親交のある公家衆へも送られている。
八代蜜柑は日本の蜜柑の発祥地ともいわれ、加藤清正の時代から幕府への献上は通例化されているようだ。
季節になると心待ちにする方も多かったことであろう。 

上妻文庫の「八代蜜柑」の冒頭に上妻先生は次のように記されている。
享保三年の記事にあるように八代蜜柑の献上は毎年数回行はれたようであるが、江戸状扣慶安三年の項には三番立迄献上してあるが、享保三年から毎年一回となった。安永八年迄は藩の奉仕で輸送したけれども輸送が円滑に行かぬので幕府の證文を貰って筑後國原町から江戸白金の細川邸迄輸送する事となった。八代蜜柑の献上箱数は本丸(江戸城)に五百個入二十箱、西丸に五箱の定まりであったが、宝暦五年球磨川大洪水の為蜜柑木二百株余り流失したので本丸に十箱、西丸に三箱となり、其後蜜柑畑の整備が出来て天明元年頃から本丸二十箱、西丸五箱献上する様になった。八代蜜柑は他の献上品と違って大事に取扱はれたもののようである。

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■江戸城百人組番所

2016-07-18 17:55:22 | 熊本地震

                 

 旧江戸城の遺構として、百人番所が残されている。これがいつの時代のものなのか、最初はいつ建てられたのか記録に行きつかない。

万治二年(1659)細川藩は、この百人(組)番所と、二の丸・蓮池・喰違の石垣の普請を命ぜられ、3月12日には藩主・綱利も出席して鍬入れの式が執り行われている。
采配したのは有吉頼母・長岡(沼田)勘解由である。大変財政がひっ迫している中苦労しての工事であったが、7月半ばに完成を見た。
今日7月19日、有吉・長岡の両人は工事の成就を祝い、銀100枚と時服10宛てを拝領しまた家臣たちにも賜り物があった。
工事金額銀218貫449匁、米3595石であったという。
また、江戸へ派遣された人たちも難儀し、侍衆の借銀が585貫になったと記されている。

このようにして完成した工事であるが、今に残る百人番所については、攻城団編集部さんのブログ「江戸城・百人番所」に詳しい。

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■大河ドラマ「秀次の死」

2016-07-18 09:29:49 | 徒然

 今年の大河はなんとなく見ている。真田氏についてはよく知らないからかもしれない。
回を重ねて昨日は秀次の死、殺生関白と世上伝えられる秀次が、三谷幸喜氏の脚本により新たな人物像になった。 
私はあまり史実が歪められて描かれる映画やドラマなどはあまり好まないのだが、演者の名演技も相まってなかなか好ましいものに思えた。
大河ドラマ出身で現在活躍する女優・俳優が多く見受けられるが、この秀次役の新納氏は鹿児島島津家の重臣新納なにがしの子孫だと聞くが、この俳優もブレイクする予感がある。
近々このドラマに女優橋本マナミさんが演じるガラシャ夫人が登場するらしいが、これも楽しみではある。
真田本流よりも脇で起こる事件に登場する人たちの演技が興味深い。今年のドラマは、休むことなく大団円を迎えるまで拝見することになりそうだ。 

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■開かずの段ボール箱

2016-07-18 09:02:28 | 徒然

 引っ越し後史料や本の整理をしているが、行方知れずのものがいろいろあって難儀している。
どうやら4~5個ある開かずの段ボールの中だろうと推測はつくのだが、収納する本棚がなくて開くに開けない。
押入れのなかの段ボール本棚は、本の重みに耐えかねてつぶれかかっている。あのデカイ注文品の本棚が運び出せなかったのが何とも残念の極み。

一昨日倉庫を占領していた長男のドラムセットを処分するというので、ハードオフに持ち込んだ。
その時間の合間に店内を回っていたら、良い塩梅の本棚を発見、その時はそのまま帰宅したがどうも気になっている。
別段新品である必要もなくかなり心が傾いている。今日は良い天気、またあの店を訪ねてみようかと思っている。 


 

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■11:55地震

2016-07-17 11:56:22 | 熊本地震

 7月16日午後8時現在、震度1以上の余震が1900回に達した。
そして+1回なのか2回なのか、今日11:55
分地震があった。震度3、本当に大概にしてくれと叫びたくなる。

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■イエスズ会年報が伝える、ガラシャ夫人の死

2016-07-17 06:21:21 | 歴史

 今日七月十七日は、ガラシャ夫人が老臣・小笠原少齋の介錯により今生に暇され、天国へと登られた日である。
お傍近くに仕えた霜なる女性が、ガラシャの孫にあたる時の藩主・光尚の乞いに応じて、その生害を書き残した「霜女覚書」で我々はその状況を知ることができる。
その他脚色がましいいろいろな文献が見受けられる中、イエスズ会が本国へ報告した記録をまとめた、事件直後1600年10月の会報がある。

ここから、霜女覚書どうようの事件前後の様子が伺える。全体にやや具体性に欠け、首を落とすといった記述には違和感を持つ。


(前略)丹後の殿長岡越中殿の奥方、ガラシャと呼ばれる吉利支丹の夫人に関して悲劇的な事件が起こったのである。
この殿は諸将と共に内府様(家康)に従って関東の戦に赴いていたのであったが、彼は家老小笠原以下家臣の者の監督にまかせて、奥方と家族の者を(大坂に)残して行った。越中殿はつねにそうであったが、万事を名誉のために心がけていたため、家を離れる時はいつも警固としてのこしてある家老および家臣に命じ、もし留守中に何か奥方の名誉に関する危険が勃発したらば、日本の習慣に従って、まず奥方を殺し、全部の者が切腹して死を共にすべきであるとしてあった。
この時にも、同様のことを家来の者共に命じたもであった。さて、その間に奉行(石田三成)は越中殿の屋敷に使いをやって、留守の者に対して、本日より戦争が始められたから、殿の奥方ガラシャ夫人を殿の恭順の人質として引き渡すべしと命じて来た。これに対して家老らは奥方は絶対に渡せないと返答した。
そこで奉行が手早く邸を包囲して奥方を捕えようとしていることを知ると、一同は奥方の名誉のために、殿の命令を実行しようと決心した。そして事態の急をいち早くガラシャ夫人に知らせ、殿から命じられていることをそのまま申し上げた。奥方はさっそく、何時もきちんときれいに飾られている礼拝所に蝋燭を点させ、跪いて死の準備の祈りを捧げた。
ようやく奥方は礼拝所からたいそう元気に出てきて、腰元どもを全部呼び集め、自分は殿の命令であるからここで死ぬが、皆の者はここを退去するようにと言いわたした。
一同はそこを去るにしのびず、むしろ奥方と共に死出のお供をしたい希望を述べた。日本ではこういう場合、主人と死を共にするのが臣下の名誉であり、また習慣でもあったからである。

ガラシャ夫人は真に召使たちから慕われていたので、召使たちが死の供をしたいと望んだのであったが、奥方は無理に命じて邸の外に逃げさせた。その間に家老小笠原殿は家来共といっしょに全部の室に火薬をまき散らした。侍女たちが邸を出てから、ガラシャ夫人は跪いて幾度もイエズスとマリアの御名を繰返してとなえながら、手づから(髪をかきあげ)頸をあらわにした。その時、一刀のもとに首は切り落とされた。家来たちは遺骸に絹の着物をかけ、その上にさらに多くの火薬をまき散らし、奥方と同じ室で死んだと思われる無礼のないように、本館の方に去った。そこで全部切腹したが、それと時を同じくして火薬に火がつけられ、(大爆音と共に)これらの人々と共にさしもの豪華な邸も灰燼に帰したのである。
ガラシャ夫人の命令によって邸の外に逃がされた侍女のほかは、誰一人として逃れようとした者はなかった。これらの女たちは泣きながら、パアデレ・オルガンチノのもとに行って、この事件の一切を知らせた。その報知を得てからわれわれは非常に悲しみ、かくも人の鑑として、とくに改宗してからはまれに見る徳の高い、高貴な夫人を失ったことを非常に悲しんだ。

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■疲労困憊

2016-07-16 06:59:31 | 熊本地震

 今朝は5:15頃小さい揺れで起こされた。しかし起き上がる元気がない。7時前まで二度寝してしまった。
雨が降り続き、倉庫の荷物の引っ越しが出来ずにいたが、昨日は久しぶりの晴天、この時とばかり4時間ほどをかけて運びだした。
これがすっかり堪えて疲労困憊、午睡を1時間、夕食後に1時間、そして10時には就寝都合11時間ほど寝たことになるが、身体はあちこち痛くて仕方がない。
運びこんだ荷物の片づけがあるのだが、とても今日・明日にやる元気がない。
朝食を食べたらまたベッドに倒れこむかもしれない。今朝はどんよりとした空模様、昼頃からまた雨が降り出すようだし、まずは疲労回復につとめましょう。
4月16日の本震から三か月、昨日7回、今日はすでに2回の余震、まだまだ終息の気配がみえず・・・・
これが身体の疲れに加えて堪える。

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■加藤清正に関する古文書・二点

2016-07-15 18:16:49 | オークション

【櫻】加藤清正 書状 古文書 肉筆 額装 旧名家所蔵品.eaa 

 【櫻】加藤清正 書状 古文書 肉筆 額装 旧名家所蔵品.eaa


加藤清正 十二月五日付紙背文書 牙軸 安土桃山武将肥後城主 掛軸

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■阿蘇大橋の架け替えと国道57号線復旧ルート

2016-07-14 18:14:38 | 熊本地震

               

           7月6日国土交通省が、国道325号阿蘇大橋の架け替え位置を現在の位置から下流側に設定したと発表した。

  

                     阿蘇大橋地区の災害復旧事業にて、国道57号は現道の北側に整備する「北側復旧ルート」を決定

                              7月6日国土交通省が、熊本地震による斜面崩壊で寸断された国道57号の代替となる復旧ルートを発表

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■感謝の三か月目

2016-07-14 09:55:42 | 熊本地震

 今年の梅雨の時期、九州は強い雨に襲われている。地震の被災地にとってはまさに恨みの雨である。
そんな中、家を失った方々がまだ避難所生活や車中泊の生活を余儀なくされておられる。あの地震から今日で三か月だ。何とも心が痛む。
私も転居を余儀なくされる被害にあい、大切なものも沢山失ったが、これらの方々に比べれば大仰に話すことさえ憚られる思いがする。
全国の皆様から物心両面のお見舞いをいただき、思いがけないことと驚くとともに深く感謝を申し上げる。 

今朝も朝から小さな揺れがあった。三か月をすぎてもなお終息の気配は見えない。ご苦労されている被災者の皆さんにいつまでも心を寄せていただきたいと念じている。
温かなお気持ちは、終生忘れることのない財産である。

 

             被災地を洗うがごとき大雨の やめば鎮守は蝉しぐれかな  津々

 

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