津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■三宅藤兵衛、忠利の肥後入国を祝う

2023-03-02 06:53:03 | 史料

 三宅藤兵衛はガラシャの甥にあたる。ガラシャの姉と明智左馬助の間にうまれた子で、父母亡きあとは細川家でそだった。
その後細川氏の許を離れ、唐津藩の寺沢氏を頼った。そして唐津藩の飛び地である天草の冨岡城の城代としてあの不幸な天草島原の乱に巻き込まれ、非業の死を迎えることになる。

三宅藤兵衛は新しく肥後の地を拝領した細川忠利は、明智氏を通して従兄弟である。
肥後(豊後の一部を含む)54万石の太守となった忠利に対して、藤兵衛は祝意を示したものと思われ、忠利は音信物を届けている。その期日が寛永十年三月二日である。

   ■三宅藤兵衛宛忠利書状(大日本近世史料・細川家史料‐2069)

      爰元へ参候為祝儀 此者進之候 小袖五・馬代黄金十両令進入候
      幾久と祝候而迄ニ候 恐々謹言
         (寛永十年)三月二日
                 三宅藤兵衛(重利)殿         
                            御宿所 

その他にも親しい音信のやり取りがあり、親しい関係が見て取れる。

      近々罷上ニ付而遠路被差越使者 生■漬一壺・鹽鰹三・同にとり一
      壺送給 令満足候 猶江戸より可申入候 恐々謹言
         (寛永十年)九月四日
                 三宅藤兵衛殿

        尚々 江戸ニ而萬事兵庫殿相談申候而可申承候 兵庫殿御入国
        迄萬かたく御申付候而尤候 九月十二日ニ罷上候 留守用之事
        長岡佐渡迄御申越尤候 以上

 

 

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