津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■潸とか、燦とか・・漢字に想う

2024-08-23 21:21:05 | ご挨拶

 最近歌手・白鳥英美子さんの「愛燦々」の歌唱にとりこになっている。偶然Youtubeで見つけたものだ。
この曲はいわずもがな小椋佳氏の作詞作曲によるものだが、白鳥さんの素晴らしい歌唱力と声質がマッチして、この曲には一番の適任者ではないかと思ったりする。

 此のところ「漢字」や「言葉」に興味があって、いろんな本を読んだりしているが、この「愛燦々」は小椋氏の造語だと聞いたことがある。
一番から「雨潸々」、二番は「風散々(さんざん)」、三番が「愛燦々」と、韻をふまえた言葉を各章の頭に据えたレトリックが大変印象深いが、「散々」はともかく「潸々」や「燦々」という言葉は、その文字さえ日頃はあまりお目にかからないもので、小椋氏の並々ならぬ語彙力でもって成された詩であることが判る。
など云う字は改まって詳しく眺めてみないと、書けと言われて正確な文字を書くことさえできない。
考えてみると古文書の世界でも、私は今まで出会っていないように思う。
時々白文の漢詩などを読んでみようとチャレンジしたりしてみるが、日本では使われていないだろうと思われる漢字が度々登場して、太刀打ちできる話ではない。
早々に白旗を掲げて退散することになる。
「言霊(ことだま)」という言葉があるが、小椋氏の詩や歌の世界はまさに言葉が命を宿して昇華して、そして最高のメロディーがそえられて高みへ至った。
白鳥さんの歌声を聞くと、自ら望んで歌いたいと思われたであろう確信が見て取れる。詩と曲が人を呼んだ。
82にもなる爺様が時々口ずさんだりしているが、小椋佳氏は私より二歳と一日お若い。まだまだのご活躍をお祈りしたい。

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■「木下延俊慶長日記」と細川家(3)

2024-08-23 06:30:18 | 歴史

 細川内記(忠利)は慶長18年の正月は江戸で迎えている。義叔父(忠興妹・加賀の婿)の日出藩主・木下延俊、義弟の稲葉一通(妹・多羅の婿)の父で臼杵藩主の稲葉彦六(典通)などと江戸での生活を助け合っている。
正月の末帰国の御暇が出ると三人はそろって帰国の途に就き、京都までの道中は宿場町を同じくするなど、さらなる交流を深めている。
京都で延俊は、豊臣秀頼や叔母に当たる高台院(秀吉正室・ねね)などに面会するなどしてしばらく滞在している。
細川内記は帰国の途に就いた。

 慶長18年
    3月29日ー細内記殿より御使者並びに御樽肴参り候。
    4月19日ー高台院さまへ御ぶん(豊ー細川加賀二女)さま、かつじき様御出候。
       29日ー津田平左衛門尉殿へ細川内記殿の御状を遣はされ候。
    5月  6日ー長岡中将(中務ー細川孝之=幽齋四男)より御使者。
         7日ー(大徳寺高桐院)玉甫様(三淵氏・幽齋実弟)へ二郎兵へヲ遣はされ候。
                    26日ー玉甫様へ御見廻成され候。
    6月  1日ー晩ニ内記さまノ(御使者)三郎四郎、江戸より罷り上り御対面成され候。
       17日ー長岡中務(孝之)殿より使者参り候。
       18日ー大徳寺玉甫様御はて成され候。
  (延俊は28日には京都を離れ大阪へ向かった。29日には秀頼へ御礼、織田有楽斎の茶湯に出席、7月1日帰国の途に就く)

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