津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

有馬・俵山・杖立

2013-12-02 17:34:17 | 歴史

                                       
                                                いい湯だな♪♪♪

寛永初期の細川家は豊前小倉が封地である。すでに忠利代であるが、この時期いろんな人が病の治療の為と称して「湯治」に出ることを願い出ている。
遠くは有馬であったり、中国俵山であったり、肥後の杖立であったり多様である。 

■竹屋喜兵衛という人は「先年落馬仕候・・」て、有馬へ湯治治療往復五十日のお暇を申し出ているが、「後四月過候て可申候よし可申聞候也」とされている。 
 何の理由か四ヶ月もまたされたのでは、直るものも直らないだろうに・・・・。
 はたして許可に成ったのかどうかはっきりしないが、歩行も出来ないだろうから駕籠に揺られての旅となったのだろう。ちなみに請人は熊谷九郎大夫である。
■藤寺次郎左衛門も通(痛)気の故をもって、中国たわら山(長門・俵山温泉カ?)に湯治の願いをしている。請人は永良長兵衛とある。
 俵山温泉は古くから温泉療養の地として知られていたらしい。
■竹原以凡(医師)は脱肛だそうな。こちらは藤寺同様中国俵山とあり往復二十五日、請人は嶋村三郎兵衛である。
■寛永三年金守将監は中風を煩い「色々養生仕候へ共快気不仕候間・・・」豊後の杖立へ湯治に行きたい、ついては往復三十日ほどお暇をいただきたいと申
 し入れている。請人は横山藤左衛門が署名している。杖立が豊後となっているのが面白い。
■財津久兵衛は脚気、肥後国つゑ立へ往復二十八日、請人は志賀左門である。ここでは杖立は「肥後国」とある。
 財津氏はもともと豊後の日田氏を祖としており、日田と杖立は隣みたいなところであり詳しかったのであろう。 

 それぞれに人たちが、湯治の効用があったのかどうかは知る由もない。御苦労さま・・・・・・


                                                                  出典「史燈」の「史料細川家文書」から

コメント (2)
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長六橋のこと ・ 2

2013-12-02 09:04:29 | 熊本
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