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古文書入門 くずし字で「東海道中膝栗毛」を楽しむ |
角川学芸出版 |
中野三敏先生の 古文書入門くずし字で「 」を読む シリーズの一冊、東海道中膝栗毛をただ読むより古文書で読めば一挙両得ではないかと注文する。
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古文書入門 くずし字で「東海道中膝栗毛」を楽しむ |
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中野三敏先生の 古文書入門くずし字で「 」を読む シリーズの一冊、東海道中膝栗毛をただ読むより古文書で読めば一挙両得ではないかと注文する。
享和元年十一月十八日御家老・遠坂関内、大目附・津川平左衛門、御奉行・入江十郎太夫の三人が閉門、のち蟄居(二年三月十八日)を仰せ付けられている。
その理由が定かではないが、どうやら三家老(松井・米田・有吉)と大奉行・堀平太左衛門の確執に起因するものらしい。
残疑物語に、「遠坂関内折角抜群に召仕はれ候へども、一向御委任は遊されず候故、関内も諸事任心底不申事のみ有之抔、下方にて申合申候、且又先年清左衛門書附の内三家衆の威を、平太左衛門奪候様致候段相見申候に付、其以後は自然と三家にも其の覚悟有之、関内身分に取候ては、別て差切、諸事取計悪儀有之共にては無御座候哉と考申候」とある。三家老家の意が働き、藩主齊茲が容認したということであろう。平太左衛門の人事の一角が壊れた。
閉門・蟄居は10年に及んだというが、三人の気性を顕すそれぞれの生き様が面白い。
遠坂関内は生涯蟄居の慎みを失わなかったという。
津川平左衛門は蟄居中妾腹に男子二人が生まれた。長沼喜左衛門(表向き・津川平内子)と津川又彦である。津川又彦は神護寺の坊主となったが、相良寺の坊主を殺しお仕置きとなっている。
入江十郎太夫は蟄居中に貨殖して大富裕となった。子の代遊興に費やして至貧となり家を売り在宅せしとなり。
堀平太左衛門の一連の改革の影の部分が伺える。