津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

馬上の美少年

2013-12-21 11:01:48 | イベント

 西南戦争における田原坂の激戦では、敵味方が打ち合う鉄砲の弾が空中でぶつかるほどであったという。多くの人達が亡くなっているが、俗謡「田原坂」にうたわれる「馬上ゆたかな美少年」については幾人の人がその候補とされているが、多くの若者が戦っており特段特定することも無意味の事に思われる。
そんな中に「薩軍、庄内人・東(束)野孝之丞、15歳」のお墓が荻迫柿の木薩軍墓地(台場跡)にある。
墓碑には「君ハ日州庄内ノ人 西南の役僅十五才ニシテ薩軍ニ投シ奮戦、此ノ地ニ殉ス、時ニ明治十年二月二八日」とある。

                                         「美少年」の墓

                                                 八女市のHPから


庄内藩は江戸三田薩摩藩邸の焼き打ちを行った藩であり、鳥羽伏見の戦いに導く切っ掛けを作り、明治政府軍による徳川家武力討伐の発端となった。
薩摩にとっては仇敵ともいえる庄内の若干15歳の少年が、なぜ薩軍の中にいたのかという疑問を禁じ得ない。
佐高信の「西郷隆盛伝説」がその答えを教えてくれる。その後の庄内藩に対する西郷の寛容な処置は、庄内の人達をしてすっかり西郷フアンにさせてしまった。西南の役の勃発を知るや数名の若者が西郷郡にはせ参じたという。
鹿児島の南洲墓地には庄内藩士「伴兼之」(20歳)のお墓と、「榊原政治」(18歳)の招魂碑があるという。前者は束野孝之丞と同じく植木で亡くなっている。榊原は負傷して延岡病院で亡くなった。お骨がないから招魂碑となっているという。

束野孝之丞については「塚野」とも呼ばれているが定かではない。墓碑の東野については遺骸につけられていた紙片にそうあったと伝えられるが、激戦の混乱の中での間違いであろう。弱冠15歳異郷の地での死は無念如何ばかりであろうかと察するに余りあるが、尊敬してやまなかった西郷の為に死するという満足に満ちたものであったのだろう。この束野(塚野)孝之丞についての庄内に於いての資料が見えないのが残念である。

唯一つ、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1459287789 の回答欄にある記事が全てであろう。
 

 

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松寿庵先生 第80講

2013-12-21 09:52:27 | 史料
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細川家縁戚略系図

2013-12-21 08:41:45 | 史料

 何の役にも立たないと思いますが、細川家に連なる縁戚の諸家を含む系図を作成してみました。
錚々たる人物の血が受け継がれたり、又外戚として深い交流がなされていくことが伺えます。
「大名の元は野に伏し山に伏し」という言葉がありますが、細川家はまさに貴種といわれるようにすばらしい大大名であることが判ります。 

                                http://www.shinshindoh.com/pdf/20131220_02.pdf

私の思い込みで作ったものですが、間違いなど有りましたらお知らせください。

尚細川家略系図は次にありますのでご覧ください。
                  http://www.shinshindoh.com/pdf/hosokawa_tree02.pdf 

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