いつもいろいろご教示をいただいている荒木村重一族の事を研究されている、ご子孫MAさまからいただいたコメントを此処に転載御紹介する。
荒木村常の父荒木村次と相国寺との関係
黒田官兵衛:荒木村重への書簡の写し発見 本能寺の翌年
毎日新聞 2013年12月03日 05時30分
兵庫県伊丹市立博物館は2日、戦国武将、荒木村重(道薫)に幽閉された黒田官兵衛が、後に村重に送った書簡の写しが見つかったと発表した。織田信長に謀反を起こした村重の説得に訪れた官兵衛は1年間幽閉された。それから4年後の手紙だが、文面からは親しげな関係がうかがえ、研究者は「幽閉は過酷なものではなく、2人は変わらずに親しい関係だったのでは」と分析している。
同館によると、今年10月、伊丹市の郷土史家が1936年発行の「茶道全集」に書簡の内容が掲載されているのに気付き、同館が京都市上京区の相国寺光源院で書簡を確認した。
村重は伊丹にあった有岡城の元城主で、官兵衛とともに織田信長に仕えた。1578(天正6)年、村重は信長に謀反を起こし、説得に訪れた旧知の官兵衛を有岡城に幽閉。1年後に城を捨てて逃れ、官兵衛は解放された。書簡は本能寺の変で信長が討たれた翌年の1583(同11)年に書かれた。
当時、官兵衛は秀吉の配下で、茶人となっていた村重は茶道を通じて秀吉との関係を深めていた。書簡は、村重から光源院の領地問題の相談を受けた官兵衛が返書を出し、これを村重が書き写し、交渉が順調だと伝えるために光源院に送ったものとみられる。
「秀吉様のお考えどおりに間違いのあるわけがありません」と秀吉をたたえる言葉や「姫路へのお供をされるのであれば、この地へお出(い)でになるだろうと存じていたところ、お出でになられず、とても残念」と再会できなかったことを惜しむ文がつづられていた。
神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)は「文面からは遺恨は感じられない。茶人となった村重が政治に関与し、秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする2人の関係を示す貴重な資料だ」と評価している。【幾島健太郎】
http://mainichi.jp/select/news/20131203k0000m040151000c.html
上記の郷土史家とは荒木村重研究会会長の森本啓一氏です。森本啓一氏が10月頃に、以前に友人から聞いていた、「茶道全集」に記載されていた書状について調査を始めて、伊丹市立博物館等にも相談した結果、発見できました。
大変興味深いのは、京都市の光源院は、相国寺の塔頭と言う事です。
津々堂様より送って頂いた、熊本県立図書館所蔵宮村典太「雑撰禄」の、荒木村重嫡男の荒木新五郎村次(十次郎)の二男荒木村常(細川藩士 細田村完(梄隠))の子孫の細田家の系図(細田家系 本姓荒木氏)によれば、荒木新五郎村次は、天正十一年(1583年)四月の賤ヶ岳の戦いに豊臣秀吉側として参加して負傷して歩けなくなり、出家して相国寺に入っています。荒木村重の没後に還俗して二人の子供(荒木又兵衛村直(弥助)と荒木村常)を得ました。
荒木・細田系図-- 1
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/f43bbe6aca77d706f72aad667a8b1209
荒木新五郎村次が出家して相国寺に入った時期は不明ですが、荒木村重が光源院の領地問題に尽力した事が、荒木新五郎村次が出家して相国寺に入った事と関連している可能性があります。