津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

足袋の発明

2009-11-29 14:09:59 | 徒然
 木綿の足袋の発明者は三齋の母であるという説がある。(樋口伝著:明治45.3 東京書画骨董雑誌社発行「茶道名人」-細川三齋-)つまり、幽齋藤孝夫人・麝香ということになる。
上記著書から該当部分を引用する。

    江村専齊の老人雑誌に依れば、木綿の足袋は三齋の母が初めて作って
    三齋に穿かせたといふ事である。之れは茶の湯にいづる時足が冷えるか
    ら、其れを慮ってこしらへたものといふ、惣じて官家にては、衣冠に足袋を
    附けてゐない、年齢とれば勅許の後 (したうず)をつける。しかし之は
    束帯の具である。武門諸式に於ては、冬春は用ゆるが、夏はゆるさない。
    おもふに昔は木綿足袋ではなく、革足袋ばかり穿つたのであらう。三齋が
    木綿の足袋を附けてから、遂に後世に流行するに到ったのである。

 「襪」は現在「下沓」と表記され、「しとうず」とよばれている。

    襪    fpouch.fc2web.com/shizouzu.html
    足袋  ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%A2%8B

 江村専齊なるひとがどのような人物なのかも判らないし、この説の信憑性もどうな
 のかも判らない。それはそうとして、現在のような足袋の形態の登場の仕方がよく
 理解できる。
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余計な御世話・・吉良上野

2009-11-29 11:01:23 | 歴史
 宝暦の改革をやってのけた重賢の曾祖母が、あの浪費家の清高院であることを考えると不思議な感じがする。清高院が細川家の財政破綻の元凶のような人物であるからだ。
歴史には「もしも」はないが、天草島原の乱が落ち着いた寛永十五年九月頃に持ち上がった、光尚の再婚の話が成り立っていたら、どうなっていたろうかと思ってしまう。清高院の登場もなかったろうし、綱利の誕生もありえない事になる。

 忠利は小倉小笠原藩の右近太夫(忠真)の息女を、息・光尚の再婚相手に考えている。忠利室保壽院からすれば姪であり、二人は従兄妹の関係でも有り願ってもない話であったろう。処が同時期、高家吉良上野の斡旋で八条殿息女との話が持ち上がっている。これらの事に関するいくつかの書状は、忠利の困惑振りを示している。結果としてこの二つの話は頓挫し「痛み分け」になった訳だが、原因が良く判らない。

 右近太夫の息女を調べてみると、福岡藩黒田光之室、守山藩松平頼元室がおられる。養女も二人あるが・・ 余計な穿鑿ではある。

 清高院に対して光尚は堕胎を命じたり、屋敷から出すように命じたりしている。これを諌めたのが保壽院附の岩間六兵衛だが、光尚は長く清高院を屋敷に上げることをせず、六兵衛の屋敷で過している。はたしてこの二人、仲はどうだったのだろうかと思ってしまう。
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