津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北関始末實記・・その1

2009-11-11 12:50:27 | 歴史
    北野(ママ)関始末實記

一、延宝元年癸丑ノ七月廿三日於筑後北之関肥後之士前川勘右衛門と
藤田助之進同縫殿之進意趣有て及闘浄(ママ)前川勘右衛門従兄山名
十左衛門助力して藤田父子を討取/遺恨之起りを尋奴るに去年寛文
十一年肥後之太守君乃御城使藤田助之進前川勘右衛門江戸
在勤之節藤田の娘を前川勘右衛門ニ縁組いたすのよし江戸相詰の辛
川源四郎藪熊之允藤田申談右両人取持を頼両人請合之前川ニ申
談前川返答申候/縁組之儀致承知候兎も角も御両所御了見ニ任せ可申候 併
拙者儀者各御存知之通一族廣ク候得ハ拙者在江戸之留守中ニ内談承り
繕置候もはかりかたく候其分存寄等も可有之哉無程御互ニ下国之上一族
共江申談追而御返答ニ可及之由挨拶して其年の五月藤田も前川も藪
辛川も一同ニ下国し前川ハ下着之砌右於江戸之趣を一族山名十右衛門重澄
前川与三兵衛重民其外縁家長岡佐渡直之・津川次郎左衛門長房・藤崎作

右衛門直治并細川修理直(尚)房・長岡左門興知此各江申談候處右之各之内存寄有
之此縁組之儀ハ無用也と達而差止る方有之けれ者勘右衛門より辛川孫四郎・
藪熊之允江相達遠約を辞退しけるに藤田安からさるニ気色有遣連とも
辛川・藪両士色々申なた免藤田納得し先ハ無事に成り藤田方より前川江
返書を以返答ニおよぶ/其紙面
     於江戸申談候縁組之儀御一類方思召寄有之候二付而御断ニ被及
     候段藪熊之允・殻川孫四郎を以被仰候之趣致承知候
前川よりハ再答ニ不及右之通ニ而双方事奈く一通り相済ける/され共藤田此事
を深ク憤り其年の九月の比藤田は下津縫殿宅并興津才右衛門宅ニ而前川が事を
散々尓悪口し雑言誹謗したりけるを如何して洩たりけん/前川一家の衆聞付て
不及是非次第也/書通にて一通り取遣におよひ押出して討果スか夫レかいやなら
は御國を出奔するかいつ連二ツの内ニ相究メらるへきよしいちぞくの中よりせり
たつる/これによりて前川より以書状及取遣其返事次第に早速可

討果に究り書状仕出しける/即下に寛文拾弐年九月廿二日之早朝に一族
前川与三兵衛ハ勘右衛門宅ニ来りて勘右衛門か家士西郷理右衛門入道祐道ニ申けるハ/
勘右衛門今度藤田江出状遣候儀藤田か在宅山鹿郡へ遣シ被申候哉昨晩
我等承り候ハ藤田ハ唯今ニ南郷ノ栃木へ湯治ニ参り候筈之由ニ候/併此入湯ニ参
候事必定慥之説ハ無之候/具ニ承り繕イ状を差立可然由を申/

原典は「上妻文庫」所収の上妻博之氏の写本である。上妻氏は宮村典太の雑撰録を筆写されたらしい。それは昭和十六年
五月十一日から十七日までの、わずか六日間で毛筆の素晴らしい達筆で筆写されている。そしてそれは本物かと見まごうば
かりの見事な御家流の文字である。72頁に及ぶ膨大な量だが、今回ご紹介する分はわずが3頁分である。20数回に及ぶと思
われるが、途中で息切れしそうな感じがしている。
コメント
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