津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

同時代を生きる

2009-11-01 21:52:21 | 歴史
           享保3           延享4
 +--細川宗孝  ・----------------・32歳
 |    ∥    享保5                      安永9
 |   静證院   ・------------------------------・61歳
 |          享保5                        天明2
 +-----重賢   ・---------------------------------・66歳
 |    ∥         享保15                     寛政6
 |   有隣院        ・-----------------------------・65歳
 |             享保10                      寛政6
 +----清源院      ・-------------------------------・70歳
      ∥      享保7        延享2
 +--細川興里    ・------------・22歳
 |           享保8                        天明5
 +-----興文     ・--------------------------------・63歳

 静證院は不慮の事件で夫を亡くし、清源院は結婚数ヶ月で夫を亡くした。
藤孝・興文は共に、義姉であり養母である、静證院・清源院を大変大事にしている。
重賢と清源院は同母兄妹であり、大変仲がよく、また静證院と清源院は夫を早く亡くしたという境遇もあってこちらも大変仲がよかったようだ。重賢は二人を招き能を催したりしている。残念なのは重賢室・有隣院が若くして失明し、余り消息が窺えないことである。
 
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論争の儀性・井口庄左衛門

2009-11-01 08:44:51 | 歴史
 先に家老有吉大膳の藩主呪詛事件を書いた。永蟄居の処分を受けるという、宝暦の改革時における象徴的な事件だが、犠牲者は他にもいる。こちらは家老・長岡帯刀(松井家七代豊之)の子息・松井主水(松井家八代・営之)と、奉行・井口庄左衛門の論争が発端だとされる。

「霊感院様(重賢)御代江戸に於て長岡主水営之殿、御奉行井口庄左衛門殿と争論ありしが、主水殿御前に出られて、庄左衛門を私へ拝領させられ下さる様、申上げられければ、有無の御いらへもなく、御座を御立遊ばさるるによりて、主水殿御袖をひかへて、何とぞ先祖に對して下され候様にと、最三申上げられしかども、御振切あそばされけり」と「雲从堂秘録」にある。その日重賢は庄左衛門を御居間に招き、盃を与え返盃を受けたという。庄左衛門は退出し、「御暇乞の御心なるべし」とその夜切腹した。
庄左衛門の身を、主水に渡す訳にもいかず、さりとて主水の顔をつぶすわけにはいかぬという苦渋の裁定だという。重賢公年表によると、それは宝暦十二年五月廿日とある。

 当時松井主水は、将軍家重の御霊屋普請の総奉行を勤めており、それは四月末に完成している。重賢は熊本へ帰国の為に、五月廿二日に江戸を発している。「細川重賢御側日記」には、これらのことは書かれていない。主水と庄左衛門の争論の結末は、重賢発駕の前々日に悲しい結末を迎えた。重賢の帰国の駕籠の中での思いは如何であったろうか。
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