津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北関始末實記・・その9

2009-11-18 12:32:44 | 歴史
 源七ハ又夫より少シ行て粟之草取ル農人之居
 たるにとへ者/此邊ハ北ノ関の内にて御座候/と申源七向て云/肥後之
 士の被居候ハ何方そ不知や/農人立上つて指をさしあ連に見へ
 たる在所か北ノ関村にて候今少以前に肥後之衆鑓弐本
 為持上下拾人斗り二而此下道を通り御入候/と申源七見渡せ者其所
 よりハ拾町斗り少シ内と見ゆるそれよりすゝミゆけハ少シ高ミ有て
 有幅五尺程の切通しの急成る小坂有り此切通しを過行け者
 又少し爪さき下りの下り坂有て下ニ三間程の小川有源七此川にて
 水を飲気を繕い刀腰差の柄に水をかけ目釘を志めしてすゝミ

 行に段々畑の上に見物の者と見へて大勢いたりしか口々に/扨々
 大事成所を捨られたり/と声々にいふ音聞ゆる此切通し屈今竟の
 場所なるに先刻は此切通しに藤田待居たると見へて四五寸廻りの
 青竹を結ひ渡し鉄炮をもたせたるかと見ゆる跡有火縄の灰も
 少々落て有源七立留りて見廻すに誠に此所に如此鉄炮にて
 待居たるに行かゝら者帰り打に討連て残るもの有間敷に此所
 を引たるハ味方之運の強さよ討勝ん事必定なりと独言して趣
 けるげにも源七か積りの如く今少し以前迄ハ藤田此所をかため
 不仕上下拾人にて待居たりしか先刻ニ度目に遣候使帰りて
 返事を出し口上を申候を藤田委細に使之者に尋けるに使申候
 ハ/高橋村前川殿宅ニ者何そ拵候躰も見へ不申殊之外物静ニ御座候
 取次ニ出し小姓も粗服中常躰ニて頓て打立申候躰にハ聊見へ不
 不(ママ)申候人少ニ御座候と見へて物音も無之候/と申扨ハ前川の不覚者

 返事にハ頓て是へ可参とハ云越しけれとも必定よも是まてハ
 来るまし返書にたまされて爰にうか/\と待居て日を暮して
 も詮なしもはや引取て直に小倉へ打立へしと小者壱人
 宿の町へ人馬を屋とひに差出し又小者壱人ハ早々北ノ関村へ旅宿
 江遣夕飯の認を急き拵よと云て先江返し諸道具取認め
 北ノ関へ引取らんとする所に嫡子縫殿之進父に申候ハ/またも
 油断ハ成かたく候今少しハ此場所に御見合可然候/と申助之進
 申候者/何としてか勘右衛門の腰ぬけめ是なて可参候哉去年以来
 の取遣にてきやつめか臆病の程ハ其方も知りたる通りなり
 それにつら連此所み隙を取ても此方の不覚なり早々打立て/と
 いふ縫殿之進又申候ハ/父上御意違背恐入候得共能々思案候に
 此存付申候ハ楠殿軍法ニ獅子か狐を取候節も虎を取身構を
 して懸るハ小敵とてあ那とらん軍理也小敵を阿なとる葉必負な

 りと楠殿の仰られしと承候今前川こときの弱者之小敵
 ハ私壱人にても討候事案の内にて候得共爰ハ小敵を阿なとらす
 して志つかりと御仕廻被成候て軍理に叶可申/といふ助之進申候
 ハ/年にもたらすして子細らしき事共を申すな夫程の
 事を五十に近き父の知るましきか只今引き来れ/といふ縫
 殿之進又申候ハ/度々御言葉を返すハ恐入候得共私者まだ落
 付不申候臆病にて申上候ニ而無御座候勝負に念を入始終無残所
 御仕廻被成候へかしと奉存候て申上候事ニ而候任御意御供仕引取可申候
 併小姓壱人ハ此邊に遠見に御残し被置候得かし/と申助之進聞て
 /是ハ縫殿か申候通り可仕/とて若黨壱人申付若勘右衛門か参る躰
 を見懸候ハゝ早々立帰り知らせ候得と申付藤田父子上下共ニ北ノ関江
 引取也此時父子か問答之趣藤田か小者生捕之者申たるにて知レ申候

                         ようやく半分のところです。

 
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未解決のこと

2009-11-18 10:32:42 | 歴史
 三好三人衆の一人に岩成友通なる人物がいる。

 【岩成討ち果たされ候事】
 さる程に、公方様より仰せ付けられ、淀の城に、岩成主税頭、番頭大炊守、諏訪飛騨守両三人楯籠り候。羽柴筑前守秀吉、調略を以て、番頭大炊、諏訪飛騨両人を引き付け、御忠節仕るべき旨、御請け申す。然る間、永(長)岡兵部大輔に仰せ付けられ、淀へ手遣いひ候ところ、岩成主税頭、城中を懸け出で候。則ち、両人として、たて出だし候。 切ってまはり候を、永(長)岡兵部大輔臣下、下津権内と申す者、組討ちに頸を取り、高島へ持参候て、頸を御目に懸け、高名比類なきの旨、御感なされ、忝くも、めされたる御道服を下され、面目の至り、冥加の次第なり。

 細川家家臣下津権内の高名で有名な話しであるが、この岩成主税頭友通に名前がよく似た人物がいる。細川家家臣宮村氏の先祖に、岩成主税亮吉通という人が在りこの人がどういう人なのか判らないでいる。
膨大な記録文書を残した宮村典太のご先祖様である。
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細川家家臣・磯野氏

2009-11-18 08:18:37 | 歴史
                             丸に六曜紋

家祖は磯野主馬である。宝蔵院流槍術を、創始の胤栄・二代目胤舜に学び勝れたる弟子六人の一人(六天狗)に名が上げられている。

  宝蔵院流槍術・系統図
  磯野主馬信元--+--稲津次郎兵衛--門司源兵衛直復--同・源兵衛直方--直定
             │
             +--磯野弥兵衛氏政-+-磯野弥兵衛氏実
                           │
                           +--磯野伝蔵
                           │
                           +--加来平右衛門

 磯野主馬は九州に於いて宝蔵院流槍術を広める事につくした。
一時期細川家の禄をはんだが後細川家を離れた。二代目磯野弥兵衛が召し出され、槍の名家として明治に至った。
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