津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北関始末實記・・その15

2009-11-21 23:07:56 | 歴史
  事件から一ヶ月後、前川勘右衛門等出奔流浪・・
 長崎→八代→球磨・灰村→(口の津→長門・ひんちう→下ノ関→豊後・安伎)→臼杵  

 前川勘右衛門同八月廿四日の夜出国す其節前川与三兵衛来て
 申けるは/今度勘右衛門出国に瀬戸源七手疵平癒仕候ハゝ供に行
 へしいまた疵候ハゝ駕籠にても供すへきよし八代より御申腰候
 此段拙者より可申入由申渡す/源七畏て/手疵いまた平癒不仕
 候得とも少々御用にも可立者と被思召被仰付候段冥加之至有かたく
 奉存候駕籠にて参候儀前後左右見わたし申儀成かたく自然
 之時の用心に相成不申候間馬にて罷越可申/由願に付馬上乗懸ニ而
 参候其外家頼市野権内・筑波小助供仕候其外にも一族中より
 差添遣候併数多右一族中八家より屈強之侍壱人宛都合八人
 差添候長岡左門よりハ原田養元と云内外兼帯之醫師を添遣ス其
 夜者山鹿まて行けるに瀬戸源七が手疵馬上にてふられ候二付以之外ニ相煩ふ
 原田養元療治して翌朝者大半快成けれ共馬上は養源とめける
 ゆへ駕籠にて罷越候同廿九日小倉江着大坂迄之約束にて船を

 借り下ノ関迄着けるに大坂江行んよりも長崎へ行て可然と各相談
 して長崎へ趣(赴)かんとせしに船頭長崎江被行間敷と申により又前の船を
 かり九月十日ニ長崎に着森田与三左衛門宅に落着ける与三左衛門甲斐
 /\しく請合宿を借し候ゆへ熊本より附人之侍衆共原田養元
 ともに熊本に差返し勘右衛門ハ上下七人にて森田か宅に七十余日逗留
 しけるに同十一月廿三日の夜に入り森田ひそかに前川に申けるにハ/此元に
 逗留之儀方々へ相聞へ藤田か本国播州之一族共沢与次兵衛を大将分
 として長崎中所々に打散り此方をねらふよし相聞候爰元に御逗留
 の中若彼者共か寄せ来り候ハゝ私儀ハ一類家頼共多く候得共私
 寿命を不借して戦ひハゝおそらく百弐百参候とも風前之
 塵何之気遣も無之候と存此段いまた御聞せも不申過行候處に
 彼者共いろ/\手立にて犬を入レ私か平生之男の道を聞付威に恐レ寄り
 附不申候焼討に仕可申たくミを仕候由依之町内之者共隣町迄も

 迷惑に奉存候由はつと取沙汰仕町内昨夕よりさわかしく罷成候如此
 にて御奉行所之御沙汰になと及候ハゝ甚以御為に成申間敷候ハゝ可仕哉/と
 申けれ者勘右衛門聞て/尤之事也早々立のき可申/とて十一月廿四日之
 暁に長崎を出船し肥後八代へ一先引返し/何とそ成行了簡も可有
 之/と無程八代川口は着船し筑波小助を使として此段城内へ申達
 しけ連者返答に先粗忽に着岸如何なり近き邊之嶋に可被扣之由
 にて河口より拾丁斗沖に有拼櫚嶋(ホウロジマ?)と云嶋に上り逗留す然共此嶋に
 ハ人家も無之殊ニ水もなくして及難儀ける処翌日之暮方に小船壱艘おし
 来る何者なるらんと尋ぬるに植柳村の庄屋甚兵衛と云もの自身に
 船をおし来り八代家司山本源左衛門申付に任せ水をのせ参り候と
 云上下大悦す此嶋に十餘日逗留する處に山本源左衛門よりひそかに
 使来るて球磨之御家老役に山本源左衛門より内々にて相頼候へと八代
 城主より内意を以球磨之御家老中江申遣候得ハ引請可申由申来候早々

 彼地へ被罷越由申来候翌日早々川船にて棹上候山本源左衛門諸事
 取斗ひ船中并彼の地落着之弁當認等餘慶(余計)に送之十ニ月十日球磨
 江着灰村と云所へ落着此段人吉御城江相達候處早々白米五俵
 塩(味カ)噌・塩肴など添て相良君より贈り彼灰村ハ要害の地にて
 用心宜敷所なれハ此所に可被居とて宿等取繕林弥五紗枝門 知行百石 
 と云士を用聞に被附置其邊之地侍拾人警固之躰ニ而付被置
 此者共昼夜相詰て物語なとして伽に成り筑波小助は多芸なる
 者之由傳へ聞て地侍とも剣術捕手なと稽古する瀬戸源七も
 此節手疵漸く平癒して相共に指南する此處にて心安く年を
 越て有ける所に明るハ正月九日に八代山本源左衛門より勘右衛門へ以飛札
 申越けるハ球磨の老中より八代江申来り候ハ球磨之儀ハ鳥も軽々
 通ひかたき所柄なるに何とてか各の隠れ被居候事を存知たる者
 にて扨々無是非存候由申来候如此に被申越様にて候得ハ其地江

 逗留最早難成候早々被引取候様ニと申来る依之延宝二年正月
 十一日に球磨を断て立でる相良君よりも達て御とめ被成候来ル二月三日
 我等参府之時迄なりとも可被居由を被仰出けれ共辞退申上又川船ニ而
 八代江下り直に植柳村少也甚兵衛か十四端之船を借りて乗組只今
 迄召連たる小者三人暇を遣熊本一類中迄差返し源七小助権内
 三人召連其内筑波小助ハ用事有之熊本へ遣けれ者是を待て
 天草乃柳の瀬戸に船をかゝりて有ける時に嶋原の町に出火有其比
 口の津に数日かゝりして居ける所に嶋原口の取沙汰に敵持たる
 人此邊に逗留すると聞付敵討の者大勢ひ長崎へ入込居ると
 風聞し此嶋原の火事も其者とも放火したらんとまち/\ニ風
 説したるにて口の津を漕出し鳩の釜といふ浦に船をつなき居
 けるに小助熊本より帰りいかゝして尋出しけん勘右衛門船に来りけれ
 者正月廿四日鳩の釜を出船し玄海灘を渡りけるに俄に

 大風に逢て万死一生の大難に逢漸く長門国ひんちうと
 云浦に吹付られ三月三日ニ下ノ関に着八九日船に逗留し是より
 豊後の安伎と云所に着て市野権内を使として臼杵の御家老中
 へ相頼遣ける臼杵の老中より返答に早々に参着可有との返事に付三月
 十一日臼杵に着船す

 進捗率80数%になりました。臼杵は果たして勘右衛門にとって安住の地に成るのでしょうか?
 

 
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北関始末實記・・その14

2009-11-21 14:00:52 | 歴史
  助之進娘聟・沢与兵衛の若党二人駆けつける

沢与兵衛ハ藤田か相聟也其頃山本郡之内に在宅す今度之一乱
無心元二十三日之朝若黨弐人に鉄炮を持せ加勢ニ差遣ス此者南ノ関本道
を参候ハゝ御盤所にて押留メられ隙取へきとおもひ和仁村十町村之
山路を急き候て北ノ関近所へ参候處ニ暮ニ成候て藤田父子共に被討候て
山名前川ハ南ノ関取之由場所見物に参候者共之物語を尋回て
すへき様なく壱人の若黨申候ハ/もはや遅くてかけあひに
成不申とて常の遊山の見物之やふに無手にハ帰ら連まし我等弐人
成とも南ノ席両人の宿にかけ向ひ一働仕討死するか本道ならん/と
申けるに壱人か申候ハ/至極なれ共今夜南ノ関の山名殿前川殿
の旅宿に夜討して討死もいわれなし我らハそれにても立可申候
得とも旦那の御身上御上より御いましめ有てハ不忠之儀を我々か仕た
るに成る旦那の御身上御滅亡もはかりかたし只此まゝに罷帰り
見物のもの共物語の通りを申上て可然/といふ壱人かいわく夫レ

にて者刀をさしたる甲斐無之候今日旦那御申渡しを承り罷出候
より死ニ身に成候手参しに在所之ものゝうハのそらの咄まて
にて罷帰りてハ男の一分立間敷候間勢免(セメ)てハ北の関に参り
候て藤田殿御最後場をも見て帰るへき/といふ壱人の云ク/そ連も
無益之事なり夜中に北の関に行ても打相の場を見たるとて何の益か
有へきか其方ハ死身に成候而今朝出たりと御申候我等も何等も何ぞ生て
帰るへきとハおもひ不申候にかけあいに成不申候ハ我等共不仕合此上
からハ少しにても旦那の御身上之儀を存候か大切の奉公にて候万一
今度かけ合に成不申候儀我等共臆病にて態とおそなわり事
過候て彼地へ参候へと御しかりも有之候ハゝ臆病にてなき証拠に
其時腹切て死るも覚悟の前にて少しも残念なる事なし/と
種々に申けれ者壱人の者承り伏してさあら者とて帰りけり
去程に沢与兵衛ハ其場所へハ不参候得とも飛道具等相持家頼

両人差遣候段不届之由にて大頭志水伯耆江御預ケ被成後に御隙
被下追放なり禄五百石なり
藤田助之進二男十一歳・三男九歳女子壱人嫡女縫殿進か姉なり
妻女皆々被召捕数ヶ所へ御預ヶにて其後追放被仰付候也本国播州
姫路へ参候との沙汰なり

          進捗率75%まで達しました。次回からは、勘右衛門のその後をご紹介します。
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