津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北関始末實記・・その4

2009-11-14 16:45:45 | 歴史
 祐道立出/彼地の首尾は如何に/と尋ねる源七申候ハ/わけハ
 とくと志れ不申候得とも何とやらん吉事と心にのりたり皆々
 悦ひ給へ/といふ一ノ宮弥助申けるハ/吉事とハ何そや/と尋る源七笑て
 外に何の吉事のあるへきそ此方の勝軍そ/\とそ申ける
 藤田のか返事左の通り
    御状致拝見候然ハ内々の縁組之儀ニ付拙者方ニ而悪口を申候
    様に御聞之由先頃藪熊之允・辛川孫四郎を以縁組切レ候段ハ尋る人も
    有之候拙者儀を人ケ間敷被思召江戸ニ而仰聞候趣御心入等不残
    存候二付此一巻沙汰仕度方へも
    日本之神々末々達候然處ニ御紙面之趣難心得存候世上之人口ニ而
    候得者■■ニと申なし候ハんと存候拙者心底従是可申入候恐惶謹言
         九月廿三日           藤田助之進・判
            前川勘右衛門様
 右之通返書を遣翌廿四日藤田栃ノ木より帰り前川ニ書状を遣し候
 紙面左之通
    我等事今日湯ノ本より罷帰り候昨日湯ノ本へ御申越趣
    得其意候其節如申入我等に意趣可有儀近頃難心得存候然共
    御不足之上ハ昨日御申越候刻限ニ出会可申候此儀為可申入態々
    夜ニ入如此ニ候以上
         九月廿四日           藤田助之進・判
            前川勘右衛門様
 勘右衛門返事
    御状拝見候昨夜之御報ニ被仰聞候ハ日本之神た連にも不被成と
    被仰聞候此上者御不足無之候最前悪口雑言等被成候由承り

    り(ママ)候二付き申入れたる事に候御神文之上者少しも申分無之候左様ニ
    御心得候様ニと存候以上
         九月廿四日           前川勘右衛門
            藤田助之進様
 右之通ニ而藤田悪口不仕候由ニ付而前河不足ニ不存候由返事越
 遣候て先一通りハ相済たる様成事ニ候へとも世上之取沙汰ニ前川
 ハ討果ス気ニ而もなかりけ連とも一族中ニせり立られ心ならす討
 果さんと者申遣けれとも藤田か紙面に日本神と有之候を取所に
 して討果す事を屋めたりなんどと世上の取沙汰まち/\なり
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二代目・庄林隼人とその枝葉

2009-11-14 13:46:22 | 歴史
 初代庄林隼人・一心は、懐妊中の加藤清正妾を継室として迎えている。清正の命により、朝鮮で戦死した加藤(山口氏)与三右衛門の子太郎平に、清正妾が産んだ女子を娶わせ養子とした。二代目隼人・一方である。姉のおこうは、水俣城代で清正の養子・百介に嫁ぎ「若上」と呼ばれたという。百介は清正の継嗣忠広が生まれると加藤家を辞して、京都に帰ったらしい。おこうは熊本に残り水俣城代を継いだ中村将監に再嫁した。娘は下津棒庵の息・将監に嫁いだ。縫殿の生母である。

 その二代目隼人は、幼いとき父与三右衛門と死別した為、清正の従兄弟・中村壽林に養育され中村太郎平と称したが、庄林氏養子となってから豊後守を名乗った。処が忠広の息が豊後守を名乗ったため、伯耆守に名乗り替している。細川忠利が肥後入国した翌年、寛永十年召し出されて六千三百石を拝領した。そして再度名をかえ隼人佐としたとされる。伯耆守の名乗り替えは、忠利臣日下部与助(本姓志水氏)が伯耆守を名乗ったことによるらしい。

 隼人女お犬は矢部城主・加藤越後守に嫁いでいる、娘は伊丹角助に嫁いだ。いま一人の女お百は松野亀右衛門室となった。娘は大塚喜兵衛に嫁いだ。
 
 三代目・隼人一吉は忠興が亡くなった翌年、正保三年扶持を放され熊本(八代)を離国している。妻は志水伯耆(日下部与助カ)の女・ おさな名 菊である。娘いつは伯耆の元に預けられ、後・緒方平左衛門に嫁いだ。いつの弟、一信が太郎平を幼名とし後隼人を名乗り四代目となる。
                       (以上出典・庄林氏由来)

 細川家家臣・庄林氏の先祖附をみるとかなりの齟齬がある。推測するに初代隼人に娘があり結婚の後庄林氏を名乗ったのではないのか。何所まで「庄林氏由来」に近づくことができるか精査してみたい。
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