津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北関始末實記・・その7

2009-11-16 23:25:31 | 歴史
 源七ハ弥助にひそかに申候ハ/十左衛門様も来り居給ひ候へ者是より
 いそぎ返て達し藤田か相待候談を申上ん我々共ハ此方よりまてとの使
 まてなり藤田滞留して待合するならハ此方よりまてとの使二ハ及まし
 是より取返し主君の御供して働たるかかましならん且又今の藤田
 か使高橋村へ未着さる内に高橋へかけ付此事御知せ申たらハ旦那
 十左衛門様御心取ニも可成事也/と云弥助拙者も同前ニ存候さらハ
 いそけやとて引返し道もなき所栗畑之中を真直に走り帰り
 藤田か使のいまた来さるさきに走り付て右之趣を申達す/藤田
 か使追付是へ参候筈也/と申す能心付て中途より帰りたり先二十左衛門

 来りたる由使にさとられぬ様にせよとて十左衛門乗来られたる
 馬を能々隠せとて奥の庭に率入させ三尺手拭引さきて馬の
 舌根をゆ者せ轡をも巻て供の者共を屋敷之裏に立隠連さ勢
 志つまりかへりて居たる所に屋かて藤田か使来て案内す源七出
 て状を請取其状に云
     先刻之返書令披見候其方を拙者悪口不仕との神文ハいたさす候
     成程去年以来不足存候間申たる事も有之事候夫ニ我等悪
     口不申との神文にて断を申候なとゝ御申候事侍ニ不似合仕
     (形カ)難心得候今日中ハ北ノ関ニ待可申候間意趣何分ニも可承候
     此上ニも御者つし可有候哉返事ニ御申越可有候以上
        七月廿三日             藤田助之進・在判
            前川勘右衛門殿
 此状を披見して十左衛門のいはく/源七立合て先此使を討とれ/と有け

 連者源七畏て刀を取て出るを十左衛門又源七を引とゝ免/使を
 討取事ハ先相待へし壱人成共助ケおいて後程大勢を一同に
 討取へしとて先二返事を渡したる其文に
     御状今披見候度々替り申たる事候相待可被申候追付
     夫ニ参り面談可も候以上
        七月廿三日         前川勘右衛門
            藤田助之進殿
 此書状相渡し口上に追付夫へ参候間被相待候へと申聞候而七月廿三日辰
 の刻過巳ノ上刻も可有候と覚ゆるニ前川勘右衛門・山名十左衛門高橋村を
 打立北ノ関へ趣く處ニ前かと前川彦左衛門召仕たる若黨ニ 名字不分明 
 何之文右衛門と申者其比山鹿町へ浪居して有けるか此事をきゝ付
 追付て申けるハ/今日北ノ関へ之御供被召連被下候得/と瀬戸源七を以
 願ふ十左衛門聞て/文右衛門ハ何事を聞付て如此に申すそ/とて再三制し

 とむるといへ共文右衛門申候ハ/私儀数年當地ニ罷在北ノ関方角之案
 内ハ能ク存知候御供衆之中ニ彼地案内被存候衆も可有御座候得とも
 私程ニ者よも御存知有間敷候御案内ニ者所之百姓さへ被召連事ニ候へハ
 只案内迄ニ被召置被下候へ/と半道斗り附来りて願ふによりさらば
 供せよとて召連たり無程南ノ関をでるに下番人立合/是ハ何方へ
 御越被成候哉御番所へ御届も無御座候/ととどめけれハ十左衛門ハ下
 馬していわく/山名十左衛門御急用之御使者ニ筑後江参り候也
 追付罷帰り候間其節御番通手形可相達候/とて言捨て
 馬引寄打乗り小乗してかけ通り如此にて南ノ関を通りやかて
 其辺の田中にて上下共に弁当をつかふに残暑熱き日中ニ餘りニ
 急きけれ者常の半分も食事するものなし弁当宰領台所人吉田
 又兵衛と云者御酒一ツ宛上り候へと樽をもて出て上下共に
 すゝむる。
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緒方平左衛門という人

2009-11-16 18:29:31 | 歴史
 「寛文四年六月・御侍帳」に、御知行御合力米御御扶持方被遣衆・拾六人扶持--緒方平右衛門とある。この人についてのその後の記録としては、「慶安三年以来段々御暇被遣候面々」に、「寛文九年十月御暇被遣候 四百石--緒方平右衛門」がある。これはいわゆる「陽明学徒追放」事件によって、扶持放しとなったものである。19名の有能な士が同様の処分を受けたが、綱利による過激な処分に叔父である長岡左近元知が諫言したが、かえって永蟄居の処分を受けた。(28年に及んだ) 尚、名前については出典により「平右」「平左」と混同している。

 先日来ご紹介している「庄林氏由来」に、この人の消息があった。
庄林氏三代目の隼人・一吉は三齋に付いて八代に在ったが、三齋歿後の正保三年扶持を放たれ肥後を離れている。妻は志水伯耆守(日下部与助)女、おさな名をお菊と称した人だが、隼人・一吉はこの妻と幼子(いつ)を義父志水伯耆に預けて出国したという。この妻(お菊)は翌年死去、幼子(いつ)は伯耆の元で成人し、嫁いだのが緒方平左衛門である。「庄林氏由来」によると平左衛門は後年、本田中務大夫政長・息中務大夫政武に仕えたと在るから、細川家の扶持放しにあった後のことであろう。
 四代隼人・一信が臨終に際し一信妹はるの二男岡田満徳丸に庄林氏の苗字を継がせたという。五代目と成るこの人は一致と名乗り、永井伊賀守直敬【ja.wikipedia.org/wiki/永井直敬】に仕え、主命にてのち一常と名乗った。

 「庄林氏由来」で、緒方平左衛門の名前を見たとき、微かな記憶が頭をよぎってこのような結果となった。
  
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北関始末實記・・その6

2009-11-16 11:00:23 | 歴史
 明レハ延宝元年 癸丑 春過夏たけ去年ノ騒動は何之沙汰もなく過行ける処に當
 延宝元年七月十九日ニ前川勘右衛門願上候ニ付願通御暇被下けり
 依之勘右衛門ハ家屋敷指上山鹿軍高梁村へ蟄居す此處ハ山名
 十左衛門知行所也又藤田助之進ハ願ハ無之候といへとも右同日御暇被下
 けり藤田父藤田市左衛門先年寛永十五年有馬御陳之節武功
 有之其節ハ榊原式部大輔様之御手ニ附たる浪人也有馬ニ而
 榊原様之御嫡子左衛門佐へ御附之処功名成ル見切を仕左衛門佐様
 二ノ丸一番乗被成候儀市左衛門御指図能仕候ニ付而也右之手柄を被仰立
 候間榊原様より當御家二御頼被成候而五百石にて召抱候仁也其子助之進
 也右之通他所より近年参候故當御国ニ親類も無之直ニ出国之達を申
 上方へ趣つきとて家内引具し同七月廿三日ニ熊本罷出其
 日昼前ニ山鹿町を通り則昼休の町宿より書状認前川勘右衛門
 住所高橋村へ書を立書状左之通
     一筆令啓候我等事今度其方一同ニ致浪人只今爰元
     罷通り候然上者我等ニ意趣無之候哉意趣有之においてハ
     北之関ニ相待居申候為其如此ニ候恐惶謹言
         七月廿三日        藤田助之進
             前川勘右衛門様
 勘右衛門返書ニい者く
     御状拝見候最前御取遣ニ及候節我等儀を悪口不被成候由
     神文を以被申越候上ハ此方より申分無之候旨先達而申し入候今以
     同前事ニ候以上
         七月廿三日        前川勘右衛門
             藤田助之進殿
 勘右衛門右返書を使ニわたし使を返し候即下に山名十右衛門は勘右衛門
 見舞ニ高橋村江参候ハ助之進今朝七ッ時ニ熊本来しか此由を聞て

 被申けるハ/拙者今日見舞ニ参候ハ助之進今朝熊本立候由聞届候処若ハ爰
 元通り懸ケニ押懸勘右衛門を討取立退候而他国にて手柄ニいたすへき所存も可有之
 哉と無心元存候ニ付今朝早々ニ打立見舞ニ参候也拙者察之通如案如斯
 と相見候急ニ用意致候様/ニと申渡し勘右衛門家来一ノ宮弥助・瀬戸源七
 を呼被申けるハ/勘右衛門先刻之返書ニ而者藤田者直ニ立退へし左有て他国へ
 参りか様/\まて手強く申懸候得共勘右衛門非強もの取合不申候杯と
 勝手次第を可申候依之藤田を立退せてハ勘右ハ勿論一類中我々迄も
 武者立不申何之道ニも討果し可申候弥助源七急喜藤田か旅行ニ追付て
 可申様ハ助之進相待連候へ勘右衛門追付夫江参候て可申談と申急て罷
 帰るへし/と申付る両人畏而山鹿町を馳行所に向ふより旅人と見へたる
 侍一人是も道を急て出来るニ弥助源七行逢たり両人無心元
 心にのり候ニ付源七立寄かと立ぬ顔色ニて/貴所ハ見申たる様成
 御仁にて候早道ニ急き何方へ御出被成候哉/と申候へハ彼者も/中々御近付に者

 不罷成候得共従是も見為申様成る御方ニて候拙者儀ハ藤田助之進か
 家頼ニ而候高橋村之前川勘右衛門殿へ使に参り候也/と云源七申候ハ/然らハ助之進
 様ハ只今北ノ関ニ御逗留候哉/尋候へ者彼使懐中より状を取出し上書
 をそと見せ此状の返事参候迄ハ北ノ関ニ相待居り候よし申て急き
 行過る
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