津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

 続--松井父子の書状

2008-10-24 11:16:00 | 歴史
 元和二年極月六日付、興長・寄之父子の書状の続きである。

一、今度宮松殿(宇土細川家初代有孝)へ御知行被遣候様子共(長岡)河内才覚二而高桐院へ申入
  此方より申上候由ニ御座候 當三月よりハ何事も少も御覚無御座此方より申上候事ハ其分々々と
  計御意候由ニ御座候 萬事之儀被仰出候事なとハ無之由申候 唯今河内なと申なしハ此方より申
  上儀ハ御聞不被成御心ニ思召通之儀をハ被仰出と申成候 是ハ此知行之様子可申ためと聞へ申
  候 先度おいセよりの処佐渡女房共差上候而必定ニ而可有御座候間左様ニ御心得被為成候様ニ
  と乍憚奉存候 八代取沙汰風聞ニも右之通申由ニ御座候 如此書状相調候間勘解由・亀丞所より
  書状指越三齋様昨日酉之刻ニ泰勝院ニ而者いニ(灰に?)奉成候 御供仕者共■いつれも腹を仕
  候由申越候 此等之趣宜預御披露候
        極月六日                長岡式部少
                            同 佐渡守
           林 外記殿

 この書状は、松江城秘録(九)--「申上候事」とあり、「三齋様御逝去之節松浦三郎左衛門江戸へ差越光尚様へ言上之書状興長寄之より林外記江當」とある。 
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「松江城秘録」とは

2008-10-24 09:12:51 | 歴史
 細川三齋の死に係わる八代の情報がまとめられたものである。松江城とは八代城のこと、八代市松江城町が現在の町名である。忠利はこの地で細川立允をして6万石の支藩を立藩する事を考えていたが、島原一揆、忠利の死、立允の死、そして三齋の死とめまぐるしく状況は変化していった。この「松江城秘録」に見られるように、三齋の死は本藩と八代御附衆との間に微妙な齟齬を生じさせた。まさに秘録であり、細川藩の裏面史ともいえる。細川家磐石の時代に至る生みの苦しみといったところか。追々ご紹介していきたいと思う。

   一、長岡勘解由八代へ被遣付自然世上(状)不慮之儀も候時ハ八代ニ居
      申間敷由佐渡監物へ充候而誓帋差上驚申候(一)(二)(三)
   一、新美八左衛門等今度ノ仕合奉公振気二入不申扶持を放候段可申者(四)
   一、八代之儀兎角宮松を置申事ニ而無之被(五)
   一、刑部二三齋様御對面之段弥御老忘無是非候(六)
   一、三齋様御老忘世情之聞無是非候(七)
   一、庄林隼人新美八左衛門御暇被遣候(八)
   一、三齋様御逝去(九)
   一、三齋様へ刑部御目見之儀(十)
   一、立殿三齋様御一代ハ今之分已後ハ御加被置三万石(十一)
   一、八代之儀とかく宮松殿を被召置儀二て無御座候(十二)
   一、立允様御死去二付而八代之事(十三)
   一、宇土屋敷割之事(十四)

 本文には別途番号が振られている。( )番号がそれである。先にご紹介した(仮題)「松井父子の書状」は(九)三齋様御逝去である。
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